斎藤環×坂口恭平 自殺願望者2万人に寄り添った「いのっちの電話」は死にたい人の悩みをどう解決したか

11月21日(日)18時0分 婦人公論.jp


精神科医の斎藤環さんと、自殺願望者との「いのっちの電話」を続けてきた作家で建築家の坂口恭平さん。二人の往復書簡から見えたものとは(写真:木村直軌)

自らの携帯番号を公表し、自殺願望を持つ人の相談にのる「いのっちの電話」を2012年から続けてきた作家で建築家の坂口恭平さん。のべ2万人以上の電話を受けた坂口さんですが、コロナ禍の中で相談件数はより増えていたそう。しかし坂口さん自身、躁鬱病(双極性障害ii型)と診断を受け、躁状態と長い鬱状態を何度も繰り返す状況にあったため、友人で精神科医の斎藤環さんはかなり心配をしていたそうです。一度は安定したように見えても、再発を繰り返してしまうという双極性障害を抱え、どのように坂口さんは負荷の大きな活動を続けてきたのでしょうか。二人の往復書簡から見えてきたものとは——。

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坂口恭平という友人について


〈斎藤環さんから坂口恭平さんへ〉

坂口恭平さんは、私が心から尊敬する若い友人の一人です。

身も蓋もなく開示している通り、私はかなり自己愛的な人間なので、「尊敬」という言葉を出し惜しみしがちなのですが、恭平さんについてはためらわずこの言葉が使えます。私には彼のような生き方はとても真似ができない、というのがその最大の理由です。

恭平さんの名前は彼のデビュー当時から知っていました。震災後の支援活動はあちこちで話題になっていましたし、初期のベストセラー『独立国家のつくりかた』も面白かった。

しかしなにより『現実脱出論』(講談社現代新書)で度肝を抜かれました。

思考とは考える行為ではなく、人間が内側に形成した「思考の巣」であり「現実と対置された空間」である。創造行為とは、個人それぞれの「思考という巣」どうしを、現実という意思疎通のための舞台の上でつなぐことを意味するというのです。こんな形で創造や表現の意義が明確化されたことに、本当に驚かされました。

私は一貫して恭平さんの活動には敬意を抱いていましたが、その一方で、精神科医としてかなり懸念もしていました。

双極性障害を自己治癒で克服しつつあった坂口さん


恭平さんが抱えていた双極性障害は、一般に治しにくい疾患で、そこそこの寛解状態には持ち込めても、きれいに治すことはとても難しい。しばらく安定したように見えても、どうしても再発を繰り返してしまうのです。

『いのっちの手紙』(著:斎藤環、坂口恭平/中央公論新社)

当時の恭平さんは、時折襲ってくるうつ状態をまだ十分に克服できておらず、そのつどずいぶん苦しんでいたように記憶します。だから生産性が高まっている状態を見ても「これは一時の軽躁状態で、いずれうつ期がやってくるだろう」と予測せずにはいられませんでした。

そんな状況下で携帯番号を公開し「死にたい」と思う人の相談にのる「いのっちの電話」のような、負荷の大きそうな活動を続けているのも気がかりでした。

しかし2020年を境に、恭平さんの活動は大きく変化します。特に「畑」と「パステル画」の存在が大きかったようです。『自分の薬をつくる』(晶文社)を書評のために読んで驚きました。恭平さんはもうとっくに通院治療も薬もやめていて、一年以上も再発していない、というのですから。

生活の「しおり」や「企画書」を作り、アウトプットを増やし、自分の「声」を薬にする、という発想はいずれも斬新で実用性もある。しかし何より、恭平さんがこうした自己治療の努力によって双極性障害を克服しつつあるという事実に、精神科医として強い感銘を受けました。

「いのっちの電話」で大事にしていることとは


当時から今に至るまで、恭平さんは「いのっちの電話」の活動を続けながら、毎日膨大な文章を書き、畑で野菜を育て、パステル画を描き、ほかにも編み物をしたり水墨画や版画を手がけたり作曲したりと、おそろしく生産的な日々を過ごしています。


「いのっちの電話」を続ける坂口さんに対し、心配していたという斎藤さんですが(写真:木村直軌)

不思議なのは、そのすべてが自然体で、無駄な力みや自己演出をまったく感じさせないことでした。なぜこんなことが可能になっているのか。これはもう、ご本人に聞いてみるしかない。

そんなことを考えていたおり、2020年10月に雑誌『婦人公論』誌上で恭平さんと対談する機会に恵まれました。思えばこの対談をきっかけに、この往復書簡がはじまったのでした。

そこで第一の質問です。恭平さんが「いのっちの電話」を受けるときに、大切にしている姿勢はどのようなものでしょうか?

いつの間にか相談員の方が増えているようですが、後継者を育てる際に、どんな姿勢を大切にするように教えていますか?

もちろん相談の姿は見てもらっていると思いますが、「技は教えない、俺の姿を見て盗め」とか、昭和の職人みたいなことは言ってませんよね? ご回答を楽しみにお待ちしています。

誤った悩みには<ツッコミ>が必要


〈坂口恭平さんから斎藤環さんへ〉

僕は何も精神療法を勉強してません。一冊も読んでないと言った方がいいと思います。だからそもそも何も知りません。だからそのままだとうまくいかないはずですし、疲れてしまうと思いますが、今のところ、疲れは残ってません。

もちろん、話をしたことによる体力の疲れはありますが、それはご褒美で近所のタイマッサージを受けてますので、それを受けられると思うと頑張れます。そして、自分が疲れたら、疲れたとはっきり言います。自己犠牲的ではまったくないと思います。何よりも話をしていて、楽しいと思うことの方が多いです。

それは僕がもともと取材やフィールドワークをしていたという経験があるからでしょうか。人の話を聞いていることは聞いてますが、それはどちらかというとフィールドワークをしているということに近いのかもしれないとは時々思います。興味本位でやっているつもりもないのですが。

僕は基本的に、悩みなんか鬱状態の混乱が巻き起こしているだけで、ほとんど全て解決可能だと思ってしまっているところもあると思います。一人で考えている限り、その誤った悩みからは逃げ出せません。だからツッコミが必要なんです。

横から突然、別の話をする必要があると思って、僕はわざわざ怒られるのも多少承知しながら、まったく別の話をはじめます。最初は生まれてから一度でも楽しいと感じたことをリストアップしてくれと伝えます。なんでもいいんですが、死にたいときは退屈です。欲望も何もありません。

僕はまったく傷ついていないように見えます。なぜだかわかりません。一人自殺した人がいて、去年の元旦にその話を聞いたのですが、その亡くなった女性からは、ずっといのっちの電話をやってください、楽しかったです、と言われたので、僕はやっぱりやめずにやろうと決めました。歪んでいるのかもわかりませんが、周りの人からはそんなふうに言われたことはありません。

もしかしたら死にたい人にとって有害なのかも


「だから僕は、現場主義を信用しません。自己流の「野生の治療者」はしばしば当事者にとっても有害な存在になりえます。そういう人にはしばしば、独特の「鈍感さ」の印象があります。荒砥石のような現場の力で、心のうぶ毛(精神科医・中井久夫氏が提唱した、人が心に持つ繊細な感性)がすり切れているとでもいいましょうか。恭平さんにはそれがない。もしそんなに鈍感だったら、ほかの創作活動が続くわけがない」

こう環さんはおっしゃいましたが、そう言われると、ドキッとします。もしかしたら僕は死にたい人にとって有害かもしれない。そう思う時もなくはありません。

でも電話はつながらないのです。僕が辞めたら、他のところにつながることはかなり難しくなります。それなら、まだマシではないかとも思いますが、まだ自信はありません。かと言って、止めるのも簡単ですが、止めようとも思いません。ましてはこの行為でお金なんかもらおうとすら思いません。

お金をもらわないと完全に決めることも僕の中では重要です。過ちを犯す人はお金をもらっていることが多いと僕が思っているからです。しかし、僕の突飛な議論の仕方は鈍感な証拠かもしれません。しかし、実際にそんなふうに言われたことはあんまりないです。訴えられたこともありません。ツイッターで文句を言われることもありますが、その人が生きていることが確認できて一応ほっとします。

でも僕はインターネット上で死にたいという人に絡まないようにしてます。その人自身が何か罠に嵌められるかもしれないと心配するからです。だからそう言った声は静かに聞いているつもりです。


死にたいという人の声は静かに聞いている(写真提供:写真AC)

文句を言われたとしても、それよりも、生き延びた、死にたいとは思わなくなった、私は助かった、ありがたい、だからやめないでくださいと言われることが何倍も多くあります。それは僕としては続けてきて良かったなと嬉しくなる瞬間です。何人かの助けになっただけでもいいじゃないかと自分を慰めることもあります。

でも文句を言われて、ムカついたりすることもありません。ムカつくことがないと断言するのは嘘かもしれません。ムカつくことはありますね、やっぱり。でも、傷ついたことはありません。でも、鈍感に無視しているつもりもありません。

ユングの言う「傷ついた癒し手(心に傷を持つ人のほうが、心理支援には能力を発揮しやすい、という考え。Wounded Healer)」なのかどうかは僕はよくわかりません。それは躁鬱病自体が、鬱の時と躁の時と感情記憶が繋がっていない解離の状態になっているからです。僕は自分が傷ついたからこの行為ができているとは思っていません。もちろん一つの要因ではあると思いますが、それとは違うと思います。

「死なない方法を一緒に考える」という行為について


記憶は体のどこかに残ってはいるとは思います。でも、死にたいと感じていることの経験を応用していることも確かです。

元々、幼少の頃からお節介かもしれないが困っている友人を助ける人格が自分の中にいるのですが、その人格がいのっちの電話をやっているのではないかと僕は感じています。僕自身、解離が起きているのではないかと思ってます。実際に、解離性同一障害であると疑われる人たちとも僕はコンタクトをとってます。定期的に。今も、そのうちの一人から電話がかかってきました。


自分のなかに「困っている友人を助ける人格」がいるという坂口さん(写真:写真AC)

彼は三人の人格があり、そのうちの二人の別人格と僕は一ヶ月ほどずっと連絡をとっているのですが、僕が描いた絵がなぜか彼らの記憶の風景とつながっていて、さらに、そのうちの一人の少し攻撃的だった人格の人には僕の小説『現実宿り』の四七章を朗読して読み聞かせたところ、彼が感じていること、彼の言葉がそのまま言語化されているとその人は言いました。

僕は驚きましたが、この小説を書いている時、僕は誰の声かわからなかったのですが、ただ何も考えず、つまり、自分の頭の中にはっきりとその言葉があったので、迷わず書いていたのですが、それがその人の言葉だったとはどういうことなんだろうかと考えつつ、そうやってその人が自分の言葉と感じてくれて、とても嬉しかったです。書いて良かったと思います。

僕はただいのっちの電話で死にたい人に死なない方法を伝えているわけではないんだと思います。この電話に出て、一緒に死なない方法を考える行為自体が、僕にとって、そしてその人にとっての創造行為になっている可能性も僕は否定できません。

「自分が苦しんだから相手の気持ちが分かる」と思わない


僕は自分が苦しんだから、相手の気持ちがわかると思ってません。そうではなく、僕の相手、それは鬱状態の僕なのですが、その人が苦しんだところと共通するところを探し、そこだけは経験があるから担当できると思ってます。そして、さらに僕自身が完治した後も、死にたい人は、ある時期の鬱状態の僕のように繰り返し僕のところに電話をかけてきます。心の絆があるのでしょうか。否定はできませんが、肯定もできません。

僕はどこかでとても境界をはっきりさせてます。僕のプライベートまで崩そうとは思いません。でも同時に、僕はプライベートな空間の中ですらいのっちの電話をうまく切り分けつつ実践できるように技術を高めてきたつもりでもあります。共感ではなく、自分が経験した部分だけをうまく見つけ出そうとしているに過ぎません。それは声だからできます。

最近ではメールでもできます。解離している人たちとも声とメールだけではやりとりできるのですが、それと似たところがあるのでしょうか。僕は人に会うと、途端にやる気がなくなってしまいます。いのっちの電話の能力もうまく引き出すことができません。とは言いつつ、人前でいのっちの電話のようなものを公開して行った時はそれなりに効果があると思いました。

僕がいのっちの電話を受けるときに、大切にしている姿勢はこれでうまく説明ができたでしょうか?

もっとなんでも聞いてください。僕も自分のことがよくわからないからです。聞かれたら、少しだけ僕はそれを知ることができます。

長くなってしまいましたが、このへんで。またお便り楽しみに待ってます。

※本稿は、『いのっちの手紙』(著:斎藤環、坂口恭平/中央公論新社)の一部を再編集したものです。

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