「みんなが泣くからさぁ……」映画『鉄道員』で高倉健が堪え切れなかった涙の理由

11月23日(土)6時0分 文春オンライン

「今日は“ペコリン”! 何食えるの?」——17年連れ添った養女が明かす高倉健の素顔 から続く


「僕のこと、書き残してね。僕のこと一番知ってるの、貴だから」高倉健が生前に遺した言葉を胸に、2人の出会い、共に過ごした17年間の思い出、旅立ちの瞬間までを綴った『 高倉健、その愛。 』が刊行された。数あるエピソードから健さんらしい、でも少し意外な一面が垣間見られる「まるで、泣き虫健ちゃんだな 」をご紹介。



高倉健さん



『鉄道員(ぽっぽや)』のロケから帰ると…


「もーう、寒かった。久しぶりの北海道だっただろ。装備はばっちりだったけど、出てるところがね(と鼻や耳をひっぱるように触りながら)。でも、今回は、地元のおばちゃんたちが、毎日熱々の炊き出しで、世話してくれてね。イモ団子っていうんだったかな? これが美味かったんだよ。他にも、料理がたくさん並べられてたけど、僕はイモ専門。今度作ってみてよ」



『鉄道員』(1999年)の北海道(南富良野町幾寅)ロケから帰宅した高倉の第一声は、地元幾寅婦人会の方々の、手作りじゃがいも餅の美味しい思い出でした。ジャガイモを使うのはわかりましたが、一体どんなものなのか、見当がつきません。ジャガイモの種類を高倉に聞いてもわかるはずもありませんが、お菓子のような甘味が強いものですか? それとも食事で召し上がるような味ですか? と聞いてみましたが、


「甘くもなく、しょっぱくもなく……。とにかく、ジャガイモなんだよ! (中指と親指で○をつくり)このくらいの大きさで、厚みはこのくらい(食パンの八つ切りの厚さ)。作れるでしょう?」


 と、サイズだけが伝えられました。


 試行錯誤の末、男爵イモを生のまますりおろして片栗粉を少し加え、オリーブオイルで両面を少しキツネ色に焼いてから、甘醬油で味を調える、自己流じゃがいも餅を作りました。高倉は「ちょっと味は違うような気がするけど、これも美味いよ」と食べてくれ、幾寅に少し寄り添えたような気がしました。


『鉄道員』は、私が高倉と出逢ってから、初めて撮影に入った映画でした。



1枚の記念写真のつもりが、1本の映画を撮ることに


『鉄道員』は、『動乱』(1980年)以来19年ぶりとなる東映作品で、前作の『四十七人の刺客』(1994年)から5年振りの映画出演でした。


 東映東京撮影所(以下、東撮)坂上順所長から、一通の手紙と原作本『鉄道員』が届けられたことから始まりました。手紙には、企画を立案したのが東撮の石川通生プロデューサーであること、かつて東撮で高倉と苦楽を共にした活動屋の多くが、定年を目前に控え、最後は高倉の作品に参加したいと切望していることが綴られていました。


「坂上ちゃんらしいな」と高倉は苦笑いしていました。


「坂上ちゃん」こと坂上所長は、『新幹線大爆破』や『野性の証明』で一緒に仕事をした仲です。


「みんなの想いは嬉しいけど、この本(原作)でいいのかわからない。僕は、これじゃないって思うけど」


 とつぶやき、「ホン(脚本)を読んでみないと答えが出せません」と返事をしました。前作『四十七人の刺客』から数年間の空白を経て、主演の責任を果たそうと納得できるほどの思いは、まだ生まれていませんでした。



 高倉は普段から、業界関係者に接するのはごく稀で、いただいた企画について、少しでも前向きな気持ちにならなければ、担当者にお会いすることはありませんでした。『鉄道員』の最初の脚本が届けられてからも、坂上所長とは手紙のやりとりのみが続けられていました。この作品になくてはならない雪景色の撮影を考えると、高倉の結論待ったなしという段階になって、「ちょっと行ってくる」と、脚本に名前のあった降旗康男監督のご自宅を訪ねたのです。


 帰宅した高倉の声は、弾んでいました。


「『降さん(降旗監督)、これ本当にやる気なの?』って聞いたんだ。最初のうちは、奥さんがお茶を運んできてくださってたんだけど、長居しないつもりが長くなってね。最後は、降さんが自分でお茶淹れてくれてたよ(笑)。いろんな雑談して、帰り際になって『どんな映画になるんですか?』って聞いたら、『5月の雨に濡れるような映画……』とかって言うんだ。(降さんは)東大出だからね、言うことが難しいんだよ! 僕には煙に巻かれた感じ、さっぱりわからない(笑)」



 のちに高倉は、出演への経緯をこのように話していました。


「演ってみようかという気になったのは、プロデューサーの『撮影所の連中が最後の記念写真を撮りたいと言っている』という殺し文句だったんです。うまい殺し文句でしたね、これが。一緒に映画作りをしてきた人たちの多くが、あと2、3年の間に定年で撮影所を去っていくんですね。コロッとまいって、1枚の記念写真のつもりが、1本の映画を撮ることになった」(「アサヒグラフ」1999年6月11日号)


 こうして、『鉄道員』は難産の末、出発進行しました。



温かな涙、切ない涙、感慨無量の涙……


『鉄道員』で高倉が演じたのは、廃線が決まった北海道のローカル線の終着駅を守る駅長・佐藤乙松。親子2代で“ぽっぽや”一筋に生き、生後2ヵ月の1人娘を亡くした日も、妻に先立たれたその時も、「仕方ないっしょ。ぽっぽやだから……」と、定時安全運行を守り抜きます。孤独にあってもひたすら職務を全うし、気づけば、廃線と定年が目前に迫っていた——。


 この映画で高倉はそれまで見せたことのない涙を流しました。駅長・佐藤乙松として見せた涙、父親としての懺悔を思わせる温かな涙。記者会見やインタビューで東映時代を振り返るときに見せた切ない涙、映画賞授賞式での感慨無量の涙……。



 衣装合わせで大泉の撮影所を訪れた日から、高倉の涙腺はゆるみっぱなしのようでした。


「参ったよ、今日は! 予定よりかなり早く着きそうだったんで、(迎えの車の)運転手さんに言って、撮影所の周りを回ってもらったんだ。見事に様子が変わっててね、自分が通ってたころが、ずいぶん遠い昔になったような気がした。で、門をくぐったら、みんな整列して出迎えてるんだよ。僕はそういうことが一番苦手だってわかってるはずなのに……。


 部屋に入ったら、僕がいたころのまま、神棚までそのまま置いてあってね。僕が東映辞めたあとも、スタッフがとっておいてくれたんだって。たまんなかった。僕のこと、そんな風に思ってくれてたんだって、ちょっとグッときたね。そのあとは、何とか部の誰それですって、懐かしい顔が次々挨拶に来てくれて。みんなが泣くからさぁ……もらい泣き!」


 帰宅後すぐに、自宅の神棚に祓詞を言上していたことが忘れられません。さぁ、走るぞ! という気合の現れでした。


 1999(平成11)年1月からの、北海道南富良野幾寅駅(作中では幌舞駅)での撮影が始まりました。


「幾寅の撮影のあと、札幌で雪子(娘)のお土産に人形を買うシーンの撮影に入ろうとしたら、泊ちゃん(懋、元プロデューサー。当時東映アニメーション社長)がカチンコ持って、立ってるんだよ。もうびっくりして『泊ちゃん! 何でここにいるの?』って聞いたら、『健さんが、東撮(東映東京撮影所)の映画撮るって聞いて、せめてカチンコだけでもいいから、参加させてくれませんかって頼んだんです』って。もう、そういうことされると困るよね。大社長がカチンコ打つためだけに、はるばる来てくれたって聞いて、ほんと参った」



『鉄道員』製作発表記者会見で


 1998(平成10)年12月18日、帝国ホテルで『鉄道員』製作発表記者会見が開かれました。


「すばらしいスタッフとキャスト、故郷の東映東京撮影所。先日も19年ぶりに衣装合わせに行って、感慨無量になったんで……(長い沈黙)。一生懸命……燃焼しようと思っています」


 と高倉は挨拶。その長い沈黙の意味を尋ねた記者への返事は、「世の中には、一言で説明できないこともあります」でした。



 沈黙や涙の訳を訊かれたことへのささやかな抵抗からか、


「記者会見の時、知らない記者から、帽子を取って顔が良く見えるようにして欲しいって言われたけど、僕のことだからね、言われてからよけい目深に被り直したんだけど」


 と、そんな天邪鬼秘話があったことも明かしてくれました。


 そして、撮影中の様子を、雑誌で次のように語っていました。


「胸のなかを、こんなにも激しい感情がよぎったのは初めてでした。役作りのときにいつもなら、ムチ打って感情を引き立たせたものでしたが、今回は逆にブレーキをかけるのに苦労しました。自分の気持ちを押し殺さないと演技にならないというシーンがいくつもあった。人前で笑ったり泣いたりしてはダメだと言われて育った九州の男ですが、演じていて自然に泣けてしまった場面もあります。シナリオで読んでいたときや、テストのときとはがらりと変わって、本番で心のコントロールができなくなってしまった。こうした経験は、これまで『八甲田山』でたった一度あっただけです。(中略)


(主人公・佐藤乙松と同じ世代であることについて)特に意識はしませんでしたけど、同世代の共感みたいなものはあったかもしれません。だから、感情がゆさぶられて、涙が出たんだと思います」(前出「アサヒグラフ」)


「まるで、泣き虫健ちゃんだな……」


 泣き顔が掲載された記事を見ながら、高倉は照れていました。




(小田 貴月)

文春オンライン

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