【レオナルド・ディカプリオ50歳】うれしくなかったアイドル人気、インタビュー嫌いの一面も 大台迎え20代モデル好きから卒業もある?
2024年11月28日(木)6時30分 クランクイン!
■『タイタニック』アイドル人気に困惑〜演技派俳優に上り詰めるまで
彼に受賞して欲しいと願っていたファンが多いせいか、かつては「ディカプリオはアカデミーに嫌われている」という日本のファンの声をよく聞いたものだ。だが、筆者はそのたびに否定してきた。たくさん映画が公開され、優れた演技も多くある中で、候補入りできるのはたった5人。そこに何度も食い込んでいるというのは、アカデミー会員に評価されてきたからにほかならない。
ディカプリオはロサンゼルス生まれ。名前は、胎児だった彼が初めて母のお腹を蹴ったのが美術館でレオナルド・ダ・ヴィンチの絵を鑑賞していた時だったことに由来している。両親は、彼が1歳の時、父の不倫が原因で離婚。しかし、しばらくの間、ディカプリオと母は、父が不倫相手と暮らす家の隣に住み、ディカプリオはその女性の息子とも仲良くなっている。女性の息子がコマーシャルに出演してギャラを稼いだのも、ディカプリオが演技を始めたいくつかの理由のひとつだ。
オーディションを受けてもまるで受からず、諦めようと思ったこともあったが、やがてコマーシャルやテレビの仕事が入るように。映画デビューは、アメリカでもビデオスルーとなったSFコメディ『クリッター3』(1991)。その少し後には、ロバート・デ・ニーロの目に留まり、400人のライバルを制して『ボーイズ・ライフ』(1993)の役を射止めた。まだ駆け出しだったディカプリオは、デ・ニーロから多くの貴重なことを教わる。マーティン・スコセッシの映画を見るようになったのも、尊敬するデ・ニーロと名コンビを組んで名作を送り出した監督だからだ。
同年の『ギルバート・グレイプ』では知的障害を持つ少年を演じ、オスカーの助演男優部門にノミネート。だが、その発表の前に撮影された『クイック&デッド』(1995)では、主演女優シャロン・ストーンが「絶対にこの子が良い」とディカプリオを推すと、「なぜ無名の子を選ぶ?どうしてもその子が良いなら君が彼のギャラを払え」とスタジオに反対され、ストーンは言われた通り、自腹を切るという裏話があった。2021年に出版された回顧録の中で、ストーンは、「僕を愛してくれと父に懇願しながら涙を流したのは彼だけだった」と、ディカプリオのオーディションを振り返っている。
その後、『バスケットボール・ダイアリーズ』(1995)、『太陽と月に背いて』(1995)、『ロミオ+ジュリエット』(1996)で若手の主演級俳優として成長を重ねるも、映画史上最高の興行成績を築いた『タイタニック』で、キャリアは思いもしなかった方向に変わることに。デ・ニーロのような実力派の役者を目指すディカプリオにとって、若い女性のアイドルにされたのは、まるで嬉しくないことだったのだ。「自分の顔がキーホルダーになっているのを見慣れることなんて絶対にないだろう」と、当時、彼は、居心地の悪さを語っている。
■キャリアに駄作なしのすごさ
インタビューも嫌いで、大きな発行部数を誇るまじめな雑誌の独占取材を受けても、環境問題については語るがそのほかのことは何も言いたがらず、記者が困っている様子が伝わってきた。この大スターが次に出るのはどの作品かとみんなが好奇心に胸を沸かせても、ディカプリオは気にせず、自分のペースでじっくりと吟味。それが比較的小粒な『ザ・ビーチ』(2000)だったことは、業界を驚かせた。
そして2001年には、『ギャング・オブ・ニューヨーク』で、憧れのスコセッシと初めてのコラボレーションが実現。世代が違うのに好みが似ていると認めるふたりはハリウッドの名コンビとなり、現在までに6本の映画を一緒に作っている。ほかにも彼は、スティーヴン・スピルバーグ(『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン 』)、クリント・イーストウッド(『J・エドガー』『リチャード・ジュエル』)、リドリー・スコット(『ワールド・オブ・ライズ』)、クリストファー・ノーラン(『インセプション』)、クエンティン・タランティーノ(『ジャンゴ 繋がれざる者』『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』)、アレハンドロ・G・イニャリトゥ(『レヴェナント〜』)など、俳優が組みたがる名監督と次々に仕事をしてきた。これだけ多くの映画に出ながら、駄作と呼ばれるものがないのは、それだけ選べる立場にあるということでもあり、選ぶ目を持っているということでもある。
だが、長いキャリアの中では、良くないこともあった。詐欺罪で逮捕されたジョーダン・ベルフォートの回顧録を映画化した『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(2013)について、ベルフォートの被害者の家族から、自分たちの悲劇をコメディタッチで華やかに描いていると非難されたのだ。さらに、この映画の1億ドルの製作費を出してくれたプロデューサーが、マレーシアの公金を着服していたことが発覚。ディカプリオ自身に罪はないとはいえ、それまでこのプロデューサーと仲睦まじくし、一緒に贅沢を楽しんできたのは、イメージにおいて決してプラスではない。
そんな彼は、仕事と関係ないところでも、多くの話題を提供してきた。とりわけ、お盛んなロマンスだ。
■若いモデルとのロマンスもそろそろ終わる?
25歳以下のモデルをとっかえひっかえするのはもはや有名で、イギリス人コメディアンのリッキー・ジャーヴェイスに、「『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は上映時間が長いので、プレミアに恋人を同伴していったら、映画が終わる頃には(ディカプリオにとって)恋人が歳を取りすぎていた」とジョークのネタにされたほど。事実、ディカプリオは若いモデルが“タイプ”だ。最初のモデルの恋人は、1994年に交際した、3つ下のブリジット・ホール。『ロミオ+ジュリエット』のプレミアには、同い歳のクリステン・ザングを同伴した。付き合った女性が数いる中で、ジゼル・ブンチェンとは6年、バー・ラファエリとはくっついたり離れたりしながら5年、23歳下のカミラ・モローネとは5年続いた。それらの交際は結構真剣だったのかもしれないが、婚約の噂が出たことはない。
しかし、50の大台に乗ったことで、もしかしたらさすがに変わるのではないか。プレイボーイで鳴らしたウォーレン・ベイティは53歳で初めて結婚、バツイチながら長いこと遊びまくったジョージ・クルーニーも同じく53歳で再婚しているのだ。もう十分楽しんだと思うのかもしれないし、子どもが欲しいとも感じるようになるのかもしれない。53歳が年貢の納め時であるならば、あとわずか3年。最高のタイミングでディカプリオの前に現れるのは、どんな女性だろうか。(文・猿渡由紀)