《体に直接的に迫る生々しさ》片山慎三監督が最新作『雨の中の慾情』で描いた“夢の世界”

2024年11月30日(土)12時0分 文春オンライン

 つげ義春には、「夢」を感じられる作品が少なくない(※)。


 それは一義的には、現実には起こりえない出来事を描くという意味である。たとえば、代表作と目される「ねじ式」(1968年)を見てみよう。物語では、海辺でメメクラゲ(「××クラゲ」の誤植から生まれた言葉とされる)に左腕を噛まれ、医者による治療を求めて村をさまよう少年の足取りが中心に描かれる。しかし、その旅における少年の体験は、現実の風合いとは大きくかけ離れたものだ。狐のお面をかぶった少年が運転するおんぼろ汽車に乗ったり、金太郎アメを売る「ぼくが生まれる以前のおッ母さん」にふいに出会ったりもする。そして、治療はなぜか女性の産婦人科医によって行われなければならず、ようやく見つけた医者のもとで、少年は「シリツ」という名のまぐわいにふけるのである。


つげ義春が描く「夢」の世界


 また後期の作品「必殺するめ固め」(1979年)も好例だ。山村を歩いている若夫婦の前に元プロレスラーの痴漢が現れ、夫に対して作品のタイトルともなっている技をかける。すると夫は、するめいかが火の上で反り返るように体が巻かれてしまう。つまり、じっさいの人間の身体構造を考えれば、ありえないような形に体がひん曲がってしまうのだ。しかも、そのような状態になっても夫は死ぬことはなく、クモのように体を這わせてそのまま家へと帰っていく。


 あるいは、設定自体はありそうだとしても、登場人物がおもにはセックスの文脈において、常軌を逸したとしか思えない行動をとるという意味である。たとえば「夢の散歩」(1972年)。主人公の男はある日、傾斜のある道を通ろうとしたところ、そこにあったぬかるみに足をとられそうになる。自身は何とかその場を切り抜けるものの、続いてやってきた幼い子どもを連れた女性は、足をとられるのみならず、パンツがずり落ちて尻が丸出しになる。そこで男は何の脈絡もなく背後に近寄り、そのまま女性との性交におよぶのだ。


 また、宿における混浴の温泉の中で、客である主人公が聾唖の女主人に襲いかかる「ゲンセンカン主人」(1968年)や、人目のあるであろう街中で、主人公がいきなり妻の陰部を舐めようとする「夜が掴む」(1976年)なども同様だ。こうした作品では、舞台はまさに「性の無法地帯」とでも呼ぶべき様相を呈している。



©2024 「雨の中の慾情」製作委員会


 絵コンテのままで発表された「雨の中の慾情」(1981年)は、ひとまず後者の、常軌を逸した行動が目立つ作品の系譜にある一作といっていいだろう。強い雨の中、屋根のあるバス停でたたずんでいる男女。やがて雷が強くなる。男は金物を身に着けていると危険だと女に告げ、時計や指輪のみでなく、下着も脱ぐことを要請する。自らもいつのまにか全裸になる男。男は、バス停にも雷が落ちる危険性を語り、女を連れて田んぼ近くのくぼ地に逃げ込む。そしてお約束のというべきか、男は女の背後からペニスを突き立て、性行為に及ぶ。


 はじめは拒むそぶりを見せていた女も、やがて興奮に満ちたような喘ぎ声をあげる。そして事がすみ、雨が上がったあとは、ふたりは性器を結びつけたまま、泳いでバス停へと帰っていく。最後には、彼らは何事もなかったように服を着てバスに乗り、雨上がりの虹を見るのである。


 多少の細部の説明は端折っているが、漫画「雨の中の慾情」の全体像は、おおむね上記の説明で概観できる。つまり漫画については、筆者はほぼ「ネタバレ」をしてしまっていると言えるが、映画『雨の中の慾情』(2024年)については、必ずしもそうとは言えない。なぜなら映画『雨の中の慾情』はつげ義春の原作に想を得ながらも、そこから大胆にイマジネーションを膨らませた、独創性のみなぎる作品となっているからだ。


映画オリジナルの展開から想起されるのは…


『雨の中の慾情』の冒頭は、先述の原作の物語をほぼまるまる埋め込んでいる。すなわち、バス停で男女が出会い、雷への恐怖から裸になり、泥だらけになりながらも行為に及び……といった展開が数分ほどの短い時間で、雨の轟音とともに繰り広げられる。


 やがて雨があがり、虹が出るが、なぜか舞台は田んぼから滝壺の中に移っている。ふたりは全裸のまま、笑い声をあげつつ水をかけあっている。見方によっては、彼らはエクスタシーの絶頂に達したようにも思えるが、さてここからどうなるのか……となったところで、主人公・義男(成田凌)は目を覚ます。そう、これは義男が見た夢であったのだ。以降は原作を離れた、映画オリジナルの展開となる。


 義男はそのまま机へと向かい、自身が見た夢を漫画のコマに反映しようとする。部屋のなかにある、「ねじ式」のワンシーンを思わせるさまざまな目の絵からも、彼が絵や漫画を描く人間であることが推察できる。しかし、その作業は右腕のない大家・尾弥次(竹中直人)によって中断され、彼は否応なしに引っ越しの手伝いに駆り出される。そして、訪れた家の寝室には、福子(中村映里子)という女性が一糸まとわない状態でベッドに横たわっていた。思わずスケッチをはじめる義男。すると目を覚ました福子は、「触るんじゃなくて描くんですね」と、どこかいたずらっぽい表情を浮かべながら義男に声をかける。義男は、そこから福子に心を奪われ、彼女への想いを心に抱え続けることになる。しかし福子は、小説家を志す知人・伊守(森田剛)と付き合っているらしく——。


 ここまでが映画『雨の中の慾情』の「さわり」の部分だが、これから先の物語の筋の詳述は避けておく。いや、というよりも、そののちの物語は断絶や不合理が多く、何かしら筋の通った形で説明をすることは相当に難しいのだ。義男が伊守の企画によるPR誌の営業を手伝わせられるも失敗したり、かと思えば伊守が突然大豪邸の主人になっていたり、尾弥次が子どもたちの頭からエキスを吸い取る怪しげな仕事を主導したり、義男と福子が、自然の広がる湖畔にただ一つ置かれたベッドの上で性交にふけっていたり……。どのような文脈で、なぜそうなるのか、観客は明確な手掛かりを得られないまま、画面に向き合うこととなる。


 ただ同時に、このような世界に触れたことが、どこかであるような気もしてくる。論理性も脈絡もなく、さまざまな事物が目の前に現れるこの感触——。そう、「夢」の世界だ。ひいては、つげ義春が描く漫画の世界だ。


「論理や脈絡の欠落」と「細部の豊かさ」の両立


 冒頭で、つげ義春に「夢」と親和性が強い作品が少なからず見受けられることについて言及した。ただ、夢を「夢」たらしめるものは、その非現実性や、人物が常軌を逸した行動をとること以上に、そこに一貫した物語、また論理や脈絡が欠落していることにあるだろう。つげ義春の作品のなかには、しばしばそういった容貌の作品が見受けられる。


 その意味で、つげ作品のなかでもっとも「夢」らしいのは、「ヨシボーの犯罪」(1979年)であるといえよう。作品では、女を喰い殺した少年・ヨシボーが(その「喰い殺し」ぶりはぜひとも作品を読んでいただきたい)自身の「犯罪」の証拠を隠すために家を出発するが、物語は、その当初の目的をしだいに見失っていく。ヨシボーは隠し場所を探し、自転車であちこちを回るが、しだいに焦りは紛れ、むしろ自身の運転テクに酔いしれるようになる。そののち、古民家や温泉を見つけ、その存在を「みんなに教えてあげよう」と、もと来た道を戻ろうとする。そして、そこでふいに物語は終わってしまうのだ。結局、「犯罪」に使用した凶器の処分はどうなったのか……と、普通の物語であれば回収されるはずの伏線が回収されないままに終わることに、読者としてはやや消化不良のような感触を覚えもする。


 しかし、そのいっぽうで、「ヨシボーの犯罪」にあるのは、意味や文脈が規定されない細部の豊かさである。作中で、口を血まみれにしながら女を食べるヨシボーの姿や、幾重にも折り重なった布団の上に立つヨシボーの姿は、それ単体として強い魅力を放ち、作品を読み終えた後も、読者のなかに強く残り続ける。


 映画『雨の中の慾情』は、原作の「雨の中の慾情」のほか、同じくつげ作品の「夏の思いで」(1972年)、「池袋百点会」(1984年)、「隣りの女」(1985年)のエピソードを劇中に組み入れている。「夏の思いで」からは、主人公の目の前で女性がひき逃げをされるというエピソード、「池袋百点会」からはPR誌を企画するも頓挫し、営業として雇った男からは金を持ち逃げされるというエピソード、「隣りの女」からは、トラックに乗って「商売」に向かうというエピソードを中心に採用している。しかし、それらが劇の中で完全に溶け合っているかといえば、そうとは言い難く、前述のように、一貫したストーリーはかなり見えにくい。


 とはいえ、それは作品に「夢」の感触を付与するための、片山慎三監督や脚本を担当した大江崇允の戦略でもあるだろう。全体の謎めいた感触とは対照的に、本作の細部は非常に鮮やかな印象を残す。自身を「尻の穴まで舐める女」と名乗るときの福子の声の艶やかさ、ふいに銃をぶっ放す尾弥次の迫力、「鬼」が監獄と思わしき一室のなかで子どもたちにふいに襲いかかる姿などは、その意味や付随する感情を完全に飲み込めずとも、感覚的なものとして強く体に刻まれる。それは先述の「ヨシボーの犯罪」をはじめ、多くのつげ作品に通底するものだ。


『雨の中の慾情』のなかに刻印された片山作品の生々しさ


『雨の中の慾情』には、つげ義春の「夢」作品における特色の多くが含まれている。現実世界からかけ離れていること、セックスへの傾斜を中心に、登場人物が常軌を逸した行動に走ること、そして、論理や脈絡を欠いた、しかし目の前に展開される豊かさに心を奪われること——。「原作の映画化」を物語の単なるトレースと見るならば、『雨の中の慾情』の物語は、あまりにも原作のそれとはかけ離れている(原作は19頁と短いため、別な物語を付与することの必然性はあるにせよ)。しかし同時に、少なからぬつげ作品の核となる「夢」の感触は、『雨の中の慾情』のなかに確かに受け継がれている。『雨の中の慾情』はいわば、原作をいったんは離れた独創性を付与することで、つげ作品の核を逆説的に継承した、稀有な一作となりえているのである。


 また、そのような達成は、監督である片山慎三の力量があってのものであることも、ここで付言しておきたい。ふりかえれば、片山慎三の作品は、いつも「身体」に肉薄した生々しさを観客の前にさらけだしてきた。『岬の兄妹』(2019年)であれば、自閉症の女性・真理子がやくざに犯されるも、自身の置かれた状況をよく把握できず、本来なら絶望的な性行為の中で笑い声をあげる場面や、その兄・良夫が不良に襲われるも、とっさに脱糞し、ウンコを武器に窮地を切り抜ける場面。『さがす』(2022年)であれば、死を望むALSの妻の願いをかなえようと首に手をかけるも、行為を完遂できずに夫・智が慟哭する場面。短編『そこにいた男』(2020年)であれば、俳優・翔が浮気相手であった紗希に包丁で刺され、瀕死の状態で、全裸のままで部屋を這いずり回る場面……。いずれも画としての切迫感は鮮やかで、観客自身の体に直接的に迫ってくるような、生々しい魅力に満ちている。


 そうした生々しさは、『雨の中の慾情』のなかにも確かに刻印されている。これまでの片山作品は、貧困や自殺幇助など現実社会に巣食う問題を物語の軸に据えてきたが、幻想譚のような色も強い、かつての作品とはやや趣を異にした『雨の中の慾情』のなかにも、片山作品に流れるエキスは見事に継承されることとなった。


 なお、本稿では言及を避けてきたが、映画の前半における「夢」の感触は、後半において大きくその姿を変貌させることとなる。つげ義春と片山慎三のエキスが合わさった夢の水流は、どこへとたどり着くのか。こちらについては、映画館でこれから体感する観客のための、大きな楽しみにとっておきたい。


(※)じっさいにつげ義春は、少なからぬ作品が自身の見た夢に想を得た内容であることに言及している。本人の「夢日記」(『つげ義春大全 別巻1』〈講談社〉などに所収)を読むと、たとえば「外のふくらみ」(1979年)は1968年12月、「必殺するめ固め」は1972年7月4日、「ヨシボーの犯罪」は1973年5月10日に見た夢がベースになっていることがわかる。


(若林 良/週刊文春CINEMA オンライン オリジナル)

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