佐久間良子 デビュー当時は「いつか辞める」が口癖だった

12月1日(土)16時0分 NEWSポストセブン

佐久間良子がデビュー当時の思い出を語る

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 映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづった週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』。今回は、東映の社員にスカウトされて女優になった佐久間良子が、デビュー時の思い出について語った言葉をお届けする。


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 佐久間良子は高校在学中の一九五六年、通学時に東映の社員の目にとまったことが役者の世界に入るキッカケとなる。両親は猛反対し、当人も乗り気ではなかったが、東映側の日参もあり「一年間だけ」とニューフェイス特別枠として東映に所属する。


「ニューフェイスといっても正規ではないので、みなさん方と一緒に試験や審査を受けることはありませんでした。ニューフェイスで入ると東映からの委託生として俳優座で半年間ほど勉強することになっていまして、パントマイムやバレエを習いました。


 ただ、私も含めて学校の延長みたいな意識で、勉強というよりは遊びながらでしたから、本当に楽しい日々でした。私は人と争うのが嫌で、そうやってみんなと一緒に楽しんでいたので、同期の中で私だけすぐに抜擢されたのですけれど、みなさん温かく応援してくださって。


 同期の中にナベちゃん……山城新伍さんね、それから曽根晴美さんに室田日出男さんがいました。みんなそれぞれ個性のある方で。みなさん、早くに亡くなってしまって残念でなりません」


 五八年のアニメ映画『白蛇伝』での作画用モデルを経て女優デビュー、すぐに年十本以上の映画にヒロイン役で出演するようになる。


「一人の新人を売り出すために何が何でも名前を売ろう、ということでした。芝居が上手いとかはどうでもよくて。毎週のように新しい映画が公開されていましたから、それに出続けることで名前を知ってもらおうというのが東映の考えでした。


 嫌で嫌でしょうがなかったです。というのも、好きで入った道じゃないでしょう。しかも撮影所に行くとスタッフの人たちが『どんな新人が入ってきたんだろう』とジロジロ見てくるんです。それで撮影所の入口のところで五、六分ためらうこともありました。


 随分と馴染めませんでしたね。当時は『いつか辞める』というのが口癖でした。でも、周りが怖くて辞められなかったの。当時の撮影所は大泉の畑の中にポツンと建っていて、撮影は夜の九時過ぎまであるんです。あの暗くて寒い一本道を帰る時はいつも、『なんで私はこんなことをしなくちゃいけないんだろう』と思っていました」



 大泉の東京撮影所以外にも太秦の京都撮影所で作られる時代劇にも出演していた。


「当時の東映は男性路線で、私の役は主役の男性の妹や恋人の役でした。大体二本はかけもちで。朝九時から昼まで一本目に出たら午後は別の作品とか、もうグチャグチャでした。それが五時に終わったら会社の車に乗せられて東京駅に行って、今度は夜行電車で京都です。八時間くらいかけて朝に着いたら、今度は時代劇。大変でした。


 新人で与えられる本がたくさんあるので、当時は役作りなんて余裕はありませんでした。相手役の名前を別の映画の恋人役と間違えて叱られたこともありました」


●かすが・たいち/1977年、東京都生まれ。主な著書に『天才 勝新太郎』『鬼才 五社英雄の生涯』(ともに文藝春秋)、『なぜ時代劇は滅びるのか』(新潮社)など。本連載をまとめた『役者は一日にしてならず』(小学館)が発売中。


■撮影/藤岡雅樹


※週刊ポスト2018年12月7日号

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