にゃんこスター・アンゴラ村長が「顔や生まれ、変えられないものを蔑む笑いは古い」と画期的発言! でもネットや女芸人は

12月11日(月)23時0分 LITERA

『キングオブコント』で沸かしたにゃんこスター(Twitterより)

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 先日『M-1』(テレビ朝日系)ではとろサーモンが優勝したが、いまもっともお笑い界を席巻しているお笑いコンビといえば、にゃんこスターだろう。


 スーパー3助とアンゴラ村長の11歳差男女コンビ。大塚愛の「さくらんぼ」をバックになわとびを跳ぶというシュールなネタを披露し、コンビ結成わずか5カ月かつ事務所に所属していないフリーの状態でいきなり『キングオブコント2017』(TBS)準優勝。アホっぽく見えていたアンゴラ村長は、実は早稲田大学卒でIT企業に勤務中、さらに『キングオブコント』の数日後に2人は付き合っていると告白するなど、ネタに始まりコンビ結成の経緯、キャラまで何かと型破り。そのため2人がテレビに登場するたびに、ネット上では「おもしろい」「おもしろくない」、あるいはアンゴラ村長の容姿について「かわいい」「かわいくない」と賛否が入り乱れ激論が飛び交っている。


 また「一発屋」「フリートークが弱い」とも言われ、たしかに"空気の読めない天然"なのか確信犯なのか判別が難しいところだが、既存のお笑いの定型とか予定調和とは違う何かをもっていると思わせる、本質をつくような発言もときどきある。


 最近もアンゴラ村長のこんな発言が話題になっている。


「顔とか生まれとか、変えられないものを蔑む笑いは、もう古い」


 この発言が飛び出したのは、11月29日放送の『1周回って知らない話』(日本テレビ)に、平野ノラ、尼神インターら先輩女芸人とともに出演した際、尼神インターの狩野誠子がアンゴラ村長に"かわいいかわいくない問題"をつっこんだときのことだった。そのやりとりを、以下におこしてみよう。


●尼神インター誠子の「あんたそんなにかわいくない」にアンゴラ村長は


誠子「かわいい女芸人出てきたって言われてますけど、アンタそんなでもないで!」
アンゴラ「でも、なんていうか、顔とか生まれとか、変えられないものを蔑むっていうのは、ちょっともう古いっていうか」
誠子「なんやねん! なんやねん! うるさいねん!」
3助「ボクの取り合いかな?」
東野幸治(番組司会)「違う(笑)。(にゃんこスターのふたりは)付き合ってるやん、別れが来たら解散なの?」
3助「勘弁してくれよ〜」
アンゴラ「それはもう、大解散」
鹿島渚(尼神インター)「芸人なめんなよ!! 別れたとしても、お笑いやっていかなあかんから、別れたとしても解散したらダメなんですよ」
アンゴラ「わたしは、解散するっていうのも人生をぜんぶ芸人してるなっていうので、ワクワクしてるんですよ」
東野「(渚の)考え方古い?」
アンゴラ「はい、白亜紀です!」
渚「解散するっていう答え方じゃなくて、『わたしたちは解散しないんです。別れないんです、なんでかって言ったら、それくらい愛が深いんです、宇宙ぐらい』とか、そういうワケわからんことで返してほしいんですよ。そういうキャラでやってるなら」
東野「平野さん、ママ気取りで聞いてますけど、若手がお笑い論を熱く語ってましたけど、どう思いますか?」
平野ノラ「わたしはぁ......半袖半ズボンの男は嫌だなって思います」


「顔とか笑いとか変えられないものを蔑む笑いは、もう古い」というこのアンゴラ村長の発言は、差別的言動が幅を利かせている現在の日本社会において、非常に画期的な主張だ。


 たとえば少し前に、フジテレビ『とんねるずのみなさんのおかげでした30周年スペシャル』で、とんねるずの石橋貴明演じる「保毛尾田保毛男」というゲイを揶揄したキャラクターに視聴者、LGBT団体などから批判が殺到し、フジテレビが謝罪するという一件が記憶に新しい。


 LGBTに対する偏見がいま以上に強かった30年近く前に人気を博したキャラクターである「保毛尾田保毛男」は同性愛者を差別する用語である「ホモ」を連発したり、その容姿も発言内容も、当時のゲイに対する偏見をそのままカリカチュアしたキャラクターだったため、LGBTに対する理解が進んだ現代の常識からすると多くの人が違和感を抱き、問題視された。


 一方で、お笑い芸人たちからはこうしたポリティカル・コレクトネやコンプライアンスについて「窮屈だ」「お笑いやテレビをつまらなくしている」といった批判や不満の声をあげる者も少なくない。たとえば松本人志はフジテレビが謝罪した10月16日にツイッターで「バラエティ番組はいわゆるスピード違反で叱られる時がある でも それはテレビを面白くしたい情熱だったりする。今のテレビを面白くなくしてるのは叱られることを恐れすぎのスピードださなすぎ違反だと思う」とツイートした。


●アンゴラ村長批判の背後に「ブスはブスらしく振る舞え」という思想


 だが、「保毛尾田保毛男」ほどではないにしても、「オネエ」という呼称をはじめ、性別適合手術を受けたタレントや女性を自認するタレントに向かって「おっさん」呼ばわりしたり、男性タレントに過剰に秋波を送らせるような演出、あるいは自身が「おっさん」「オカマ」と自虐したりとLGBTに対する差別的な演出やネタはいまだ跋扈している。


 いや、LGBTだけではない。セクシュアリティや容姿をいじるセクハラ的なネタや、いじめを彷彿とさせる先輩芸人の後輩芸人に対するパワハラ的なネタも、日本のお笑い、バラエティでは日常茶飯事だ。


 女芸人のブスいじりも、その典型のひとつだろう。


 おそらくこのときの尼神インターの誠子は、ネットで盛んに言われている悪口を本人にぶつけてマウントをとり、そしてアンゴラ村長から「ヒドーい」とかわいこぶるとか、「そっちのほうこそかわいくない」と言い返してくるなど、いずれにしてもブス・かわいい論争を繰り広げるような展開を期待していただろう。


 しかし、アンゴラ村長はそのブス・かわいい論争の土俵には乗らず、そもそも容姿を笑いのネタにすることは古いと、その土俵そのものをひっくり返したのだ。


 これは女芸人としては、ある意味"ありえない"リアクションだった。尼神インターに限らず多くの女芸人は、実際の美醜やモテ度とは関係なく、"ブス""デブ""非モテ"を自らネタにし自虐することが多い。そういうネタをやるというだけでなく、ひな壇や情報番組のコメンテーターやレポーターとしても、"ブス""非モテ"としてふるまう。そのことによって、好感度をあげ、社会的評価を高めるというのが、女芸人の一種の処世術、コミュニケーションスキルのひとつの成功パターンとなっている。


 女芸人だけではない。アイドルであるHKT48の指原莉乃も2014年に出版された新書『逆転力〜ピンチを待て〜』(講談社)のなかで、こう綴っていた。


〈おとなしい美人には意味がないって言いましたけど、親しみやすさのないブスって最悪だと思う〉
〈私の周りのみんなに「ブスって言わないでください!」と言ったとしたら、「ううん。別にいいけど、他に言うことないよ」と腫れ物扱いされかねないじゃないですか。でも「ブスでOKです!」と言っておけば、イジッてもらえるかもしれない。(中略)そうやって世の中に出てきたのが、指原という女です〉


 彼女たちは「ブスはブスらしく振る舞え」と言う。アンゴラ村長が「かわいい」「かわいくない」と物議を醸してしまうのも、おそらくこうした思想の延長線上にある。スーパー3助という彼氏の存在や、先輩男芸人たちがチヤホヤしているように見えるということ、アンゴラ村長のルックスが本当にかわいいかどうかということ以上に、おそらくアンゴラ村長が"圧倒的なルックスではないにもかかわらずブスとして振る舞わない"ことにあるのだろう。


●指原莉乃も陥った男性優位の外見至上主義の追認


 しかし、おかしいのは本当にアンゴラ村長のほうなのだろうか。筆者はアンゴラ村長も、尼神インターの2人も、指原も、「ブス」だとは思わない。そもそも、こういう場合の、美人(かわいい)かブスかの基準は、男性優位社会と外見至上主義のなかで画一化された基準にすぎないと考える。外見に限ってみても、個々人が個々人のどういう外見に魅力を感じるかは、もっと多様だ。


 ブスは性格が良くなくてはいけない、親しみやすくないといけないなどというのは、強烈な外見至上主義のなかで、「男性に選ばれるにふさわしい外見がもてなかった者」の生きる道として「気立てのいい女」になるという選択肢を、勝手に男たちが用意しただけにすぎない。自己主張せず、三歩後ろに下がり、男を立てて、気を配り、忍びがたきを忍ぶ......。


 女性に求められている「性格の良さ」とは、男性にとって都合のいいことばかりでなく、女性が女性に求めているのも「(男性の承認をめぐる争いのなかで)出し抜かない」というもので、それは結局男性優位の視線を追認するものでしかない。


 外見が重視されるアイドル界で、ブスがアイドルでもいいじゃないかと言うのならわかるが、指原が言っているのはそういうことではない。むしろ、男性視線にもとづいた外見至上主義を追認するものだ。


 だいたい「ブスって言わないで」と言ったら腫れ物になってしまうと指原は言うが、美人かブスという容姿の話以外に話せる話題がないなどという人間のほうこそ、人間的にも知性的にも話術的にもおかしい(残念ながらそういうおじさんが多いのも事実だが)。


 ブスとあらかじめ自虐することが自分を守る武器となったり、コミュニケーションを円滑にするという処世術やコミュケーションスタイルは、芸能界だけでなくメディアを通じて、一般人の世界にも広まっている。


 もちろん自虐という手段が提示されたことで、それまで疎外されてきた人たちが居場所を確保できたという功績もある。圧倒的に男性優位かつ外見至上主義の社会のなかで、それでも、自虐という手段でサバイブしてきた女性芸人や女性たちを責めるつもりはない。


 しかしテレビなどの大メディアのなかで大人気の女性芸人や指原がそのように振る舞うことは、「ブスはブスらしく振る舞え」というメッセージにもなり、諸刃の刃ともなり得る。それは世間のマジョリティの感覚を追認するものであり、差別と表裏一体だ。


 そういう意味で、今回のアンゴラ村長の発言はそうした既存のお笑いとは根本的に一線を画している。アンゴラ村長には差別やセクハラと決別した新しい笑いをつくり出してほしい。


 ただし課題もある。アンゴラ村長の言う新しい笑いが、本当に疎外されている人、ルサンチマンを抱えた人に届くのか、という問題があるからだ。


●アンゴラ村長の正論に女性は反発、意識高い系とお笑いの相性の悪さ


 実際、ネットの反応を見ていると、アンゴラ村長に対して反発する声のほうが大きい。むしろ誠子の「それほどかわいくない」発言のほうが、よく言った!と称賛されているくらいだ。とくに、彼女の発言が本来味方しているはずの層、女性からの反発が強い。


 疎外されている人や、自己肯定できない人は、ブスや非モテを自虐する女芸人のほうに感情移入し救われ勇気づけられており、アンゴラ村長の「顔とか笑いとか変えられないものを蔑む笑いは、もう古い」という発言は、むしろ上から目線とすらとらえられている。そういう意味では、アンゴラ村長はお笑い界の"意識高い系"なのかもしれない。


 "意識高い系"とお笑い芸人の世界はすこぶる相性が悪い。男尊女卑、弱者をいたぶる体育会的パワハラ体質からいまだ抜け出せない、反ポリコレ・前近代的な価値観が根強く残っているからだ。同じ芸能界でも、俳優や音楽の分野と比べても、その前近代性は顕著だ。


 そこでは、差別やセクハラを批判することは「つまらない」こととされ、支配者やマジョリティの用意した予定調和に歯向かうことは「空気が読めない」とされる。そしてこれは、もちろん現実の日本社会の映し鏡でもある。
 
 はたして、アンゴラ村長の考える新しい笑いは結実するのだろうか。アンチの反発の声も、フリートークでかわいいことを言うだけで受けなかったときの冷ややかな空気も、さほどダメージ受けてなさそうというか、気づいてなさそうにすら見えるマイペースな態度を見ていると、意外としぶとそうな気もするが......。
(本田コッペ)


LITERA

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