皇室を国民にとって身近なものに変えた美智子さまの歩み

12月11日(月)16時0分 NEWSポストセブン

閉鎖的だった皇室の姿を変えていった美智子さま

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 天皇の生前退位が報道されて久しいが、ついに2019年4月30日をもって退位されることが決定した。皇后・美智子さまも退かれることとなる。美智子さまは、日本ではじめて民間から皇太子妃そして皇后となられた。半世紀以上歩んでこられた道は、どんなものだったのだろうか。


 美智子さまは、雲の上の存在だった皇室を身近なものへと変えられたといわれている。 結婚翌年の1960年2月、浩宮さま(現皇太子)がお生まれになると、美智子さまは「自分のお乳で育てたい」として、皇室に1000年以上続いた乳人(めのと)と制度を廃止された。


 それから4か月後に完成した東宮御所には、美智子さまたっての希望で約3坪の調理室が設けられた。皇室ジャーナリストの神田秀一さんが語る。


「当時の皇室では、乳人制度の廃止や御所に台所を設置して皇太子妃が料理をするなど前代未聞でした。伝統を重んじる皇室の中には美智子さまの“改革”に批判の声を上げる人は少なくなかったはずです」


 非難を浴びながらも美智子さまは前例なき道を歩まれた。毎朝5時に起床し、御所の庭を40分ほど散策した後、大急ぎで割烹着を着て台所に立ち、浩宮さまのお弁当を作られた。 そのお弁当について、日本の家庭料理の第一人者であり、美智子さまと親交の深い辰巳芳子さん(93才)は過去に本誌にこう明かしている。


「お弁当を開けられたお子さまたちは、お弁当を通して、お母さまとの絆をお感じになりながらお育ちになったと思うのです。また、女官さんは『そのお弁当は思わず見とれてしまうほど、きれいでした』とおっしゃっていました」


 料理研究家のほりえさわこさんが言う。


「皇太子妃でありながら、お子さまがたのお弁当を作られる姿は、皇室の慣例に流されるのではなく、子供を育てるひとりの親として、母の深い愛情を感じました。その姿が世の女性たちに子供にとって食育がいかに大切かを伝えるメッセージとなったのでしょう。美智子さまが切り開かれた『食育』は、現代の母親にとっても目指す理想の形となっています」


 料理だけでなく、子育てにおいても美智子さまは多くの女性に影響を与えられた。浩宮さまが生後7か月の時、公務で渡米を控えた美智子さまは、侍従や看護師に子育て方法を記したノートを残された。それは、浩宮徳仁親王の「徳」の一字から『ナルちゃん憲法』と名づけられた。



〈自分で投げたものは、なるべく自分で取りに行かせるように〉

〈お食事は山盛りより軽くよそい、「な〜い」になったらたくさんほめてあげてください〉


 こんなふうに優しい言葉で書かれたおよそ50項目に及ぶ子育てノートに感銘を受けたのは、美容家の佐伯チヅさん(74才)だ。


「『1日1回くらいはしっかりと抱いてください。愛情を示すためです』という項目から多くを教わりました。『抱いてください』とは、『ハグしてください』ということ。それまで日本には“ハグする”という概念はなかったと思います。美智子さまによって、“ハグする”ということを日本人は知ったわけです。


 当時、私と同じように美智子さまから“ハグ”を学んだ女性は多いはず。彼女たちはみんなわが子を抱きしめ愛を伝え、親子関係をはぐくんだ。残念ながら私には子供がいませんでしたので、夫への愛情表現としてハグをしていました。夫がひげを剃っている時に後ろから抱きついたり。そのおかげでいつも仲がよくて、けんかをしたことがありませんでした。言葉がなくとも愛情は伝わるのだと強く実感しました」


 特別な道具や知識は必要なく、誰でも簡単にわかり、実践できるナルちゃん憲法は多くのママたちの育児バイブルとなった。


 1965年に礼宮さま、1969年に紀宮さまがお生まれになった後は、美智子さまの作ったお弁当を持ってお出かけする紀宮さまや、礼宮さまをカメラで撮影する美智子さまの姿が連日報道された。


 お忙しいご公務の日々を過ごしながらも子供たちに惜しみない愛情を注ぐ“ワーキングマザー”ぶりに励まされた女性も数多くいた。女優の中村メイコさん(83才)もその1人だった。


「学校行事に参加されたり、動物園へ行かれたり、母としての美智子さまのお姿を頻繁に拝見しました。私たちの生活とは違う、皇室ならではのお約束事とか、お立場上のお悩みがおありになったと思いますが、皇太子殿下を支え、お子さまたちを立派に育てるお姿を見ると『私も頑張ろう』と…。私も、子供の幼稚園や学校の行事は早めに知らせてもらうようにして、仕事を調整して必ず参加していました」


 当時は専業主婦が当たり前の時代。まだ少なかった働く女性たちは男性社会の中で、肩身の狭い思いをしながら、男性に負けないように闘い、さらには家庭も両立させるため、寝る間も惜しんで働き続けた。


 皇室という慣れない環境下で苦しみながらも母としての役目を果たそうとされる美智子さまの姿は、多くの女性の励みとなった。


 陛下との夫婦関係も日本中の妻の「お手本」となった。障害児の援助を通じて美智子さまと深い交流のある『ねむの木学園』園長の宮城まり子さん(90才)は、おふたりの夫婦愛が心に残っている。



「最初にお会いした時から仲のいいおふたりでした。肢体不自由な子供たちの描いた絵の好みについて、天皇陛下が『いいね』『かわいいね』とおっしゃると、美智子さまが『私はこれもです』と返される。何歩か下がって慎ましいたたずまいでありながら、妻が自分の意見をそっとお伝えになることのできる関係性が素敵です」


◆決して平坦ではなかった道のり


 夫に寄り添いながら、芯が強く進歩的な妻であり母である。そんな戦後を生きる日本人女性のお手本となるような存在が、美智子さまだった。


 両陛下のご関係を物語るのが1984年4月の銀婚式記念会見だ。「お互いを採点なさるとしたら何点くらいですか」との問いに、天皇陛下が「点をつけるのは難しいが、努力賞を」とおっしゃると、美智子さまはこう返された。


「私もお点ではなく、差し上げるとしたら『感謝状』を」


 この言葉に深く感銘したのは佐伯さんだ。


「ああ、こういう表現の仕方があったのか、と聞いているこちらまで品格が上がるような感銘を受けました。配偶者への思いを表現するには、『感謝状を差し上げたい』と言えばいいのだなと、お手本を示してくださった」


 だが、そこに至るまでの道は決して平坦ではなかった。


 一般的に見れば、これまで紹介したように美智子さまの“改革”は好意的に受け止められたが、慣例主義の皇室内部では“逆風”が吹き続けた。


 乳人制度を廃止すれば「伝統をなし崩しにする」と批判され、料理をすれば、「皇太子妃殿下ともあろうかたが台所に立って料理を作るとは」と非難される。やむことのない批判に、ご成婚パレードで見せた美智子さまの笑顔は次第に消えた。1960年秋、訪米前の記者会見では苦しい胸の内をこう明かされた。


「難しいと思うこともあるし、つらいこともあります。いつになったら慣れるのか、見当がつきません」


 その後も1986年に子宮筋腫を患い、1993年にメディアのバッシング記事によって精神的な苦痛から失声症となられた。前出の中村さんは、美智子さまの苦悩と自分の人生を重ね合わせる。


「声が出なくなられたと知った時は私も倒れそうなくらいショックでした。美智子さまのご公務と一緒に考えるのはおこがましいけれど、どこへ行ってもカメラの目があるストレスは、筆舌に尽くしがたい。私は結婚後、20本以上あった生放送レギュラーを半分以下に減らしましたが、それでも家庭との両立は大変でした」


 時に苦しみながらも美智子さまが尽力されたことが少しずつ“菊のカーテン”と呼ばれ、閉鎖的だった皇室の姿を変えていった。佐伯さんが言う。


「美智子さまが私たちに見せてくださった新しい皇室の姿は、陛下にとっても理想的なものだったのではないでしょうか。自分が経験することのできなかった家庭生活や子育てをしたいという願いを、全部美智子さまがかなえてくださったように思えてならないのです」


撮影/雑誌協会代表取材


※女性セブン2017年12月21日号

NEWSポストセブン

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