インカ帝国の公式ドリンク「チチャ」の酸っぱい末路——高野秀行のヘンな食べもの

12月12日(火)17時0分 文春オンライン


イラスト 小幡彩貴


 アンデスのトウモロコシ酒「チチャ」ほど輝かしい歴史をもつ酒は世界的にも珍しい。少なくとも紀元五、六世紀にはもう儀礼用の酒として生産が始まっていたらしい。


 十六世紀、スペイン人が初めて到来したとき、インカ帝国はエクアドルからチリに及ぶ大帝国だったが、その「公式ドリンク」もまたチチャだった。トウモロコシは支配者層が所有し、チチャを作って儀礼で神に捧げ、自分が飲み、そして領民に振る舞っていたという。


 そんな由緒正しい酒なのだが、しかし。私がクスコに着いたとき、町にチチャの気配はなかった。ホテルのスタッフやタクシーの運転手に訊いても、「どこかにあるはずだけど……」などという曖昧な答えばかり。今や、町で飲まれるのはビールやワイン、ピスコ(ブドウの蒸留酒)であり、チチャを飲む人は少ないらしい。一方、田舎に行けばどこにでもあるという。現在、チチャは支配者層以外の人が作って飲む酒に転落している模様だ。


 そこでクイ・ファーム(食用モルモット農場)へ行くとき、雇った車で走りながら気をつけて見ていると、クスコから十数キロ離れた集落で、赤いビニール袋のようなものを先につけた長い棒が揺れているのを発見した。


「チチャリアだ!」



チチャリアの赤い旗


チチャを飲ませる店をチチャリアと呼び、赤い袋が目印なのだ。たいていはただの民家である。私はドライバーと一緒にその中の一軒を訪れた。


 ちょうど、昼休みで、地元のおじさんたちも五、六人やってきて、一つしかない大きなテーブルのベンチに並んで座った。


 テーブルの脇には大きなタライにトウモロコシが水に浸してあった。インカ帝国時代、チチャは処女がトウモロコシを口で噛んで発酵させていたが、その後は徐々にトウモロコシを発芽させ、その酵素を用いて発酵させるというビール醸造と同じ方法に移行したという。このタライのトウモロコシは発芽の準備をしているところなのだろう。


 それにしても、トウモロコシといえば、ふつう黄色をイメージするが、ここでは黄、赤、紫と色とりどりで、高地の強い日差しを受けてキラキラと輝いていた。



発酵中のチチャ



チチャ用トウモロコシ


 民家(店)のおばさんがプラスチックの容器にたっぷり入ったチチャを運んできた。おじさんの一人が薄黄色の液体を五百mlほどのグラスに注ぐと、グイッと一気飲み。すぐさま再びグラスに酒を注ぎ、隣のおじさんへ。その人も一気飲みして、グラスを戻す。


 おおっ、辺境酒の作法だ。容器が少ないせいか、あるいは仲間意識を高めるせいか、世界の多くの辺境地域(田舎)では酒を飲むとき、一つの杯を一気飲みしてどんどん回す習慣がある。心和む雰囲気だ。


 すっかり嬉しくなった私はおじさんたちの横へ一緒に座らせてもらい、チチャをグイッとあおったら……。


「なんじゃ、こりゃ?!」



 むちゃくちゃ酸っぱい。アルコール分も感じない。レモン汁を飲んでいるようだ。とても一気飲みなどできないが、ドライバーが「早く行こう」とさかんにせかす。時間あるのになんだよと思っていたら、理由はすぐに判明した。隣のおじさんたちが、「俺らに一杯ずつおごれよ」と迫ってきたのだ。会ってからまだ十分もたってないのに。



チチャを飲む高野


 酒は酸っぱいだけでうまくないし、地元の客にはおねだりされる。しかもそこを出た後は、頭痛に襲われた。私はそのとき、まだ高山病にかかっており、そういうときに酒を飲むとひどい頭痛になるのだ。つまり、多少はアルコールが入っていたという証明なのだが、なんとも“酸っぱい”チチャ初体験であった。



青天の下、チチャをあおるおじさんたち



(高野 秀行)

文春オンライン

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