紅白歌合戦「女たちの熾烈バトル」全秘話(3)<直撃3・中村晃子>

12月14日(木)5時57分 アサ芸プラス

 抜群のプロポーションと男の目を引くルックスで、独特のポジションを築いた中村晃子(69)。唯一、出場した68年の紅白は、リベンジの舞台でもあった。

──68年はグループサウンズが全盛の時代。ただ、人気絶頂のザ・タイガースもザ・テンプターズも「髪が長い」を理由に紅白とは無縁でした。

中村 そうだったわね。でも私も長らく「NHK出入り禁止」だったの。

──えっ、それはどういう理由で?

中村 へそ出しで歌ったから(笑)。以来、マネージャーがどれだけ売り込みに行っても、NHKの歌番組には出させてもらえなかった。

──当時のジャケット写真を見ても、60年代とは思えないくらい最先端です。

中村 そう! 私、ジーンズをはきだしたのも、いちばん早かった。ただ、開通したばかりの新幹線に乗ったら「ジーンズで新幹線に乗るとは何事だ!」って怒られたけど。

──その延長線上に「へそ出し」もあったんですね。

中村 日本の女優さんでは、そういうことをやる人がいなかったのね。私はフランスのミレーユ・ダルクって女優に憧れて、74年に出した「薔薇の囁き」では、お尻の割れ目が半分くらい見える黒いドレスで歌ったのよ。

──覚えています! もう、放送コードに引っ掛かるんじゃないかという過激な衣装で(笑)。今年8月28日に亡くなったミレーユ・ダルクは、アラン・ドロンのパートナーとしても有名でしたね。さて時計の針を戻して、67年に発売した「虹色の湖」がチャート3位の大ヒットとなり、翌68年の紅白に初出場。いわゆる「1人GS歌謡」と呼ばれたビートの効いた名曲でした。

中村 これは「へそ出し」でも「お尻の割れ目見せ」でもないよ(笑)。この時はミリタリールックだったわね。当時のGSの男の子たちと同じような衣装。

──歌手として紅白に出場するのは悲願でしたか?

中村 私は女優から来ているから、歌手になるなんて思ってもみなかった。ただ、母親はオペラ歌手だったので、それは喜んでくれました。母には戦争で歌手活動が中途半端に終わったという思いもあったので。紅白には父と母が会場に招待され、その前で歌ったことは記憶に残ってる。

──48年生まれですから、20歳の初出場です。

中村 私が? ああ、そうか。仲がよかったいしだあゆみちゃんと同じ昭和23年生まれってことになってたんだ。でもね‥‥本当は3歳サバ読んでて、出た時は23歳だったの。

──まあ、芸能界にはよくあることですよ。紅白の初ステージはいかがでした?

中村 始まる前は呼吸が苦しくなるくらい緊張したけど、いざ歌ってみれば。逆に突っ走れちゃう。右も左もわからない田舎娘だったから、そこがよかったんじゃないかな。

──残念ながら紅白はこの年の1回きり。その後、ドラマ挿入歌としてチャート4位まで上がった「恋の綱わたり」(80年)もチャンスだったんでしょうけど。

中村 うーん‥‥もっと歌がうまければ1位になってただろうし、紅白も狙えたかもしれないけど。

──いやいや、女優の歌心にあふれた佳曲でしたよ。また大胆な歌をぜひ聴かせてください。

アサ芸プラス

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