レコ大事件簿 五木ひろしと八代亜紀の「五八戦争」

12月24日(土)7時0分 NEWSポストセブン

様々なドラマが生まれた「レコ大」(公式HPより)

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 今年で58回目を迎える年末の風物詩、日本レコード大賞。しかし、今年11月には『週刊文春』が“レコ大の買収”を報じた。芸能プロ「バーニングプロダクション」が、2015年のレコ大の大賞である三代目J Soul Brothersが所属する「LDH」に、〈年末のプロモーション業務委託費〉の名目で1億円の請求書を出したというものだ。バーニングプロ社長の周防郁雄氏は芸能界の有力者として知られている。この報道を受けて一部では「中止すべきだ」との声もあったというが、2016年も例年通り開催される。


 日本レコード大賞が始まったのは、日本が敗戦から復興を遂げた1959年。「皇太子ご成婚」でテレビ受信契約が飛躍的に伸びた年だった。


 その前年、日経新聞の音楽記者・平井賢の呼びかけで、国民栄誉賞の作曲家、古賀政男や服部良一ら錚々たるメンバーが日本作曲家協会を設立。同年にアメリカで始まったグラミー賞にならったものだった。当初は会場も小規模で、年末の昼間に放送されていた時期もあった。


 1969年、大晦日夜7時から9時までの生中継を始めるとレコ大人気は急上昇。視聴率は10%台から30%台になった。


「あの頃はレコ大受賞者が紅白のオープニングに間に合うかどうかドキドキ。レコ大の会場の帝国劇場からNHKまで、出演者が移動する車をヘリで中継してたこともありました」(50代主婦)


 世代を超えて親しまれる大ヒットが生まれていた時代。「大賞が誰か」はお茶の間の注目の的だった。


 1972年の大賞候補は、沢田研二五木ひろし小柳ルミ子和田アキ子、ちあきなおみという豪華な顔ぶれ。なかでも小柳の『瀬戸の花嫁』と、ちあきなおみの『喝采』の対決が注目を浴びた。


「ちあきなおみさんが大賞を受賞した時のことは、今でも忘れられません。『喝采』は彼女が恋人の死という実体験を歌ったといわれていて、子供心に衝撃的でした。遠くを凝視しながら歌うその目が潤んでキラキラと輝き、鬼気せまる声が胸に突き刺さるようで…。ふと横を向いたら、隣で見ていた母がボロボロ泣いていました」(60代主婦)


 以降、レコ大は伝説的なシーンを次々と生み出していく。1975年、「今年こそどうしても大賞がほしい」と意気込んでステージに上がった布施明は、緊張のあまりにギターのコードが外れるハプニング。それでも『シクラメンのかほり』で見事に受賞した。



 1977年、沢田研二が『勝手にしやがれ』で大賞を受賞した時の視聴率は50.8%。レコ大の歴代最高記録だ。


「男性が化粧をするなんて…という声も計算ずくで話題を集めました。歌唱力もカッコよさも段違いで、サビの『アア〜アアアアア〜アア〜♪』に合わせて会場中が手を広げ、壮観でした」(芸能リポーターの二田一比古さん)


 翌1978年は史上初となる“ジュリーの2連覇”が有力視されていたが、記録的なミリオンヒットを連発したピンク・レディーが『UFO』で大逆転。初めてアイドル歌手が大賞を受賞した。


 五木ひろしと八代亜紀の「五八戦争」が話題を呼んだのは1980年。ともに苦労人で、10代の頃から銀座のクラブ歌手として旧知の仲だったが、


「五木は1973年にレコ大を獲っているので、八代が冗談交じりに『1回もらってるんだから今回はいいでしょ』と声をかけたんです。すると、日頃は温厚な五木が『うるさい!』と語気を荒らげた。それでメディアは『五八戦争』と大騒ぎになりました」(芸能レポーターの石川敏男さん)


 結果は八代亜紀が『雨の慕情』で五木を抑え、涙のレコ大初受賞となった。その年は松田聖子がデビュー。聖子は『青い珊瑚礁』で新人賞を獲得したが、最優秀新人賞は田原俊彦の『ハッとして!Good』に譲った。


 生涯に一度だけの新人賞も、多くのドラマを生んだ。1982年の最優秀新人賞はシブがき隊。「花の82年組」では、松本伊代、早見優、石川秀美、堀ちえみが新人賞を獲得したが、なんと中森明菜と小泉今日子が落選。しかし、明菜は1985年『ミ・アモーレ』、1986年には『DESIRE』でレコード大賞を2連覇。新人賞を逃した鬱憤を晴らしている。


 その明菜が、別の意味でレコ大を盛り上げたのが、1987年。


「近藤真彦が『愚か者』で大賞を受賞した瞬間、“キャーッ”と歓声を挙げ、自分が受賞したかのような拍手とともにボロボロと大泣き。当時、ふたりは交際しているといわれていたので、見応えがありました」(前出・二田さん)


※女性セブン2017年1月5・12日号

NEWSポストセブン

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