慈善活動中に事故死した英雄 ロベルト・クレメンテがラティーノに開いたメジャーリーグへの扉

12月27日(金)11時0分 文春オンライン

 日本のプロ野球がオフシーズンの現在、カリブ海にあるアメリカ自治領プエルトリコではウインターリーグのプレーオフ進出争いが真っ只中だ。2013年からラテンアメリカに飛び「中南米野球はなぜ強いのか」を考えてきた私と写真家の龍フェルケルは12月前半、5カ国目として同地を訪れた。



ラティーノにMLBへの扉を開いた偉大な男


 キューバの南東、ドミニカ共和国の東に位置するプエルトリコは中南米野球を語る上で極めて重要な地である。そう実感させられたのは、プエルトリコの“巨人”ことヒガンテスの本拠地に足を踏み入れた際のことだった。


 球場の正面入口へと続く上り階段は、まるでレッドカーペットが敷かれたかのように赤く塗られている。その下にある広場に、大きな男の像が鎮座していた。「P」と書かれたオレンジ色のヘルメットをかぶり、背番号21を背負った右打者は迫り来るボールを今にもかっ飛ばそうとしている。


 ロベルト・エンリケ・クレメンテ・ウォーカー──80年以上前、この町カロリーナで生まれた少年がプエルトリコで最も偉大な男になったことを讃え、「エスタディオ・ロベルト・クレメンテ・ウォーカー(ロベルト・クレメンテ球場)」とこの球場は名づけられた。



カロリーナのスタジアムでは巨大なクレメンテの像が待ち受けている ©龍フェルケル


「寛大な心を持ち、選手としても信じられないような成績を残した。プエルトリコのみんなが彼のことを覚えている。実際にプレーしているのを見たことはないけれど、ビデオで見て、彼のようになりたいと思ったよ」


 そう話したのは、横浜DeNAベイスターズに加入した2018年から2年連続で本塁打王に輝いたネフタリ・ソトだ。プエルトリコ出身のソトにとって、クレメンテは子どもの頃から英雄だった。



 野球に一定以上の興味がある人なら、その名を耳にしたことがあるだろう。1955年から1972年までピッツバーグ・パイレーツの右翼手としてプレーし、3000本安打を達成。ミート力、長打力、走力、守備力、送球力を備えた5ツールプレイヤーで、MLBで年間MVP1回、首位打者4回、ゴールドグラブ賞に12回輝いている。オールスターに15回出場し、中南米出身で初めてアメリカ野球殿堂入りを果たした。


「クレメンテが多くのバリアを打ち破ってくれた」


「ロベルト・クレメンテはプエルトリコの選手だけでなく、中南米選手に対してMLBへの架け橋となってくれた。彼が偉大な功績を成し遂げてくれたことで、我々には未来が開けたんだ」


 そう語ったのは、ヒガンテス・デ・カロリーナで投手コーチを務めるビクトル・ラモスだ。パイレーツ傘下のマイナーチームで捕手、投手としてプレーしたラモスによると、ラティーノにMLBへの扉を開いた者こそクレメンテだという。



 180.3cm、79.4kgと野球選手として決して恵まれた体格ではないなか、圧倒的なパフォーマンスを見せた。MLBの歴史で3000本安打を達成したのは32人しかいないことを考えると、その偉大さがよくわかるだろう。2016年にイチローが「3000-hit club」の仲間入りを果たした際、同じ右翼手のクレメンテの功績は日本でも見つめ返されたほどだ。


 クレメンテがMLB入りした1950年代、黒人選手は激しい差別を受けていた。1954年に入団したブルックリン・ドジャースではマイナーですごし、ジャッキー・ロビンソンのような活躍を見せることはなかったものの、翌年パイレーツに移籍するとその才能を存分に発揮していく。


「ロベルト・クレメンテが多くのバリア(障壁)を打ち破ってくれた。人種差別が最たるものかもしれない」


 前述のラモスは、先達に感謝の意を表した。


 当時のMLBでマイノリティだったクレメンテが尊敬を集めたのは、フィールド外の活動によるところも大きい。貧しい家庭で生を授かった彼は、社会貢献活動に積極的だった。1958年オフにはアメリカ海兵隊にも在籍している。



 自らの手で人生を切り開いた男の最期は、突然訪れた。


 史上11人目の3000安打でシーズンを締めくくった1972年。クリスマスを数日後に控えた12月23日に中央アメリカのニカラグアで死者1万人以上と言われる巨大地震が発生すると、クレメンテは翌日から救援活動を開始した。そして12月31日、チャーター機に大量の救援物資を積み込んで飛び立つと、エンジンの故障で飛行機はカリブ海に墜落──ラティーノに多くの希望をもたらした男は、帰らぬ人になった。


 享年38歳。あまりにも早く、悲しい最期に、MLBは最大限の敬意を示した。慈善活動を精力的に行う選手に贈っていた「コミッショナー賞」に、「ロベルト・クレメンテ賞」と“偉人”の名を冠したのだ。現在、この賞は年間MVPやサイヤング賞に匹敵する価値があるとされている。



プエルトリコに深刻な被害をもたらしたハリケーン


「ロベルト・クレメンテが中南米の選手たちに対し、未来への道を切り開きやすくしてくれた。彼のおかげで俺たちはアメリカに行くことができ、かの地のベースボールに身を投じてその世界の一部になれる。そうしてプエルトリコ人は野球への愛を深めていったんだ」


 そう話したラモスは普段、ドミニカ共和国にあるニューヨーク・メッツのアカデミーで明日のメジャーリーガーたちを指導している。ラモスはポテンシャルの塊であるティーンエイジャーたちを成長に導きながら、今季のウインターリーグが故郷で開幕する日を待ちわびていた。


「去年はエスタディオ・ヒラム・ビソーンでプレーしていたからな。ここ(エスタディオ・ロベルト・クレメンテ)はハリケーン・マリアに大きな打撃を受けたんだ」


 2017年9月にプエルトリコを直撃したハリケーン・マリアは、人口320万人のこの島に深刻な被害をもたらした。当初、プエルトリコ政府は死者64人と発表したが、米ハーバード大学の推計によると4600人にのぼる。全土で交通網が破壊され、長期間にわたる停電が発生した。


 アメリカ海洋大気庁によると、経済損失は900億ドル(日本円に換算して10兆円弱)。2017年5月に700億ドル(同7兆6600億円)の債務を抱えて破産申請を行ったプエルトリコに、天はあまりにも厳しい苦難を強いた。長らく物価高に悩まされてきた国民は、さらなる試練を課された格好となった(プエルトリコの経済問題の裏には惨事便乗型資本主義がある。詳しくはナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン:惨事便乗型資本主義の正体を暴く(上下)』や『楽園をめぐる闘い:災害資本主義者に立ち向かうプエルトリコ』を参照)。




近年、日本人選手も特別な思いでやって来ている


 ハリケーン・マリアの直撃から半年経っても、停電が続く地域もあったという。それでも野球の火を灯し続けるべく、2017-18年シーズンのウインターリーグは4チームによる18試合制と規模縮小して開催された。天然芝の球場は使用できず、人工芝のエスタディオ・ヒラム・ビソーンですべての試合が行われた(クリオージョス・デ・カグアスの本拠地エスタディオ・ソラ・モラレスは今も復旧中で使用できない)。


 だからこそ今季、ラモスはシーズン開幕を待ち望んでいた。


「今年の初め、エスタディオ・ロベルト・クレメンテを使用できるというニュースが入ってきた。このスタジアムでは、カロリーナのチーム(=ヒガンテス)とともに素晴らしい歴史が紡がれてきたんだ。カロリーナはいつもプレーオフに進み、優勝を争い続けた。俺は現役時代にサントゥルセでプレーしていたとき、カロリーナを倒そうと思ってここにやって来た。


 ロベルト・クレメンテの名が冠されたこのスタジアムには、そういう歴史がある。彼はこの国の歴史を象徴しているんだ。我々はそういう誇りを持ってプレーしている。そうしたプライドを他の何かと比べることなんてできない」



 目の前のハードルを乗り越え、未来を切り開いてきたプエルトリカンにとって、エスタディオ・ロベルト・クレメンテはアイデンティティの象徴とも言える聖地だ。そんな場所に近年、日本人選手も特別な思いでやって来ている。


 2016-17年シーズン、当時ソフトバンクの松坂大輔(現西武)が何かをつかもうとプレーしたのもこの球場だった。今季は11人の日本人選手がウインターリーグに参戦したなか、台頭が待たれる田中正義らソフトバンク勢がホームファンの声援を受けて戦っている。ビジターで訪れた面々には、復活へ試行錯誤するT-岡田(オリックス)や、今季のイースタン・リーグ二冠王である安田尚憲(ロッテ)がいた。



 半世紀前、ロベルト・クレメンテが開けたドアはプエルトリカンやラティーノはもちろん、ジャパニーズにも開かれている。大袈裟に言えば、カロリーナで生まれた偉大な男の活躍があったからこそ、日本人もベースボールの世界の一部になることができた。


 エスタディオ・ロベルト・クレメンテでは、そうした野球の歴史が今も紡がれている。


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(中島 大輔)

文春オンライン

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