史上初の「二冠」ならず……かまいたちがM-1で放った“大仕掛け”と、それでも優勝できなかった理由

12月27日(金)11時0分 文春オンライン

 一見同じようなものに思える漫才とコント。だが、プロの芸人に言わせると、それらは全くの別ものらしい。技術的にも求められる力が異なり、別の種目と考えた方がいいぐらいの違いがあるというのだ。


 漫才のベースは「会話」であり、芸人が本人として演じる。一方、コントは「芝居」であり、芸人が特定の役柄を演じる。漫才を専門にする芸人はしばしば「コントで自分以外の人間を演じるのが照れくさくて仕方がない」などと言い、コントを専門にする芸人は「役柄なしで素の自分としてどう話せばいいか分からないので、漫才の方が難しい」などと言う。


本気で「二冠」を目指していた“かまいたち


 実際、漫才とコントを両方やる芸人は少ない。機会があればそこそこやるぐらいの人はいても、それぞれの分野で突出した結果を残している例はほとんどない。現時点では、漫才の大会『M-1グランプリ』とコントの大会『キングオブコント』の両方を制した芸人は存在していないのだ。



かまいたちの山内健司(左)と濱家隆一(右) ©M-1グランプリ事務局


 そんななか、今年の『M-1』で前人未到の「二冠」を本気で目指していたのが、かまいたちだった。彼らは2017年に『キングオブコント』で優勝している。だが、その年は準優勝した「にゃんこスター」が一躍ブレイク。必ずしもかまいたちにスポットライトが当たったとは言いがたい結果に終わっていた。


 一方、かまいたちは『M-1』にもずっと挑み続け、今年で3年連続の決勝進出を果たしていた。『M-1』には「結成15年以内」という芸歴制限があるため、彼らにとっては今年が最後の挑戦になった。


サンドウィッチマンとの違いとは?


 かまいたちが非凡な才能の持ち主である証拠として、漫才ではコントと全く別のスタイルを用いている点が挙げられる。


 例えば、サンドウィッチマンも漫才とコントを両方こなす芸人として知られているが、彼らの漫才は会話の途中でそれぞれが役柄に入るコント形式の漫才(通称「漫才コント」または「コント漫才」)である。コントを専門にする芸人が漫才を演じるときには、この形式が一般的だ(ちなみにサンドウィッチマンは2007年の『M-1』で優勝しているが、2009年の『キングオブコント』では準優勝に終わり、やはり「二冠」を逃している)。



 だが、かまいたちはコントに入らない純粋な「しゃべくり漫才」を演じている。しゃべくり漫才では素の話芸のクオリティが問われるため、これで『M-1』に挑戦し、3度も決勝に進んでいるというのは、本当に驚異的なことだ。


 かまいたちはもともとネタの面白さに定評があるコンビだった。個性の強いキャラクターを演じるコントや、1つの設定で押し切るコントなど、上質なネタを幅広く持っていた。山内健司、濱家隆一が2人とも器用であるため、ネタによってボケとツッコミを入れ替えられるというのも強みだった。



 これまで『M-1』の決勝でかまいたちが見せていたのは、山内が理詰めで相方の濱家を強引にねじ伏せるという漫才だった。山内が神経質で理屈っぽいキャラクターを演じると、マルチ商法の販売員やカルト宗教の教祖のような凄みが出る。2017年と2018年はこのスタイルで決勝に進んだものの、優勝することはできなかった。


前回大会から明らかに進化した“漫才スタイル”


 2018年から『M-1』で審査員を務めるナイツの塙宣之は、著書『 言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか 』(集英社新書)の中で「三角形の理論」を提唱している。漫才では、ボケとツッコミと客席がそれぞれつながっている「三角形」を描くのが理想的だというのだ。要するに、2人の会話だけで完結せず、観客を巻き込むのが大切だということだ。



 著書の中で塙は、2018年の『M-1』で見せたかまいたちの漫才は三角形ではなく「点」になっていると評した。かまいたちの漫才では、山内が力強く持論を述べるだけのワンマンショーになっている。濱家はそこにツッコんではいるが、掛け合いになっていないので、そこで笑いが来ない。そのため、漫才としてはあまり評価できなかったというのだ。


 本人たちが塙のこの指摘を知っていたのかどうか、知っていたとしたらそれをどう受け止めたのか、というのは分からない。ただ、今年の『M-1』では、かまいたちはネタの形を変えてきた。塙が指摘したような山内の“独りよがり感”が消えて、ツッコミの濱家の存在感も際立ち、観客を自分たちの世界に引き込めるようになっていた。


ツッコミの濱家に観客が共感できたのはなぜか?


 1本目のネタは最近の彼らの最高傑作である。漫才の序盤で、山内が「USJ」を「UFJ」と言い間違えてしまう。濱家にそれを指摘されても、山内は頑なに自分が言ったとは認めず、むしろ間違えたのは濱家の方だと突拍子もない主張をする。これまでにも山内が理詰めで常識に反するような主張を押し通す漫才はあったが、ここではさらにその上を行き、明らかに無理のある主張を貫こうとしていた。



 山内は一分の理もない自説を堂々と主張して、一歩も引かない。それどころか、濱家の方が理屈に合わないおかしいことを言っているような振る舞いをしてみせる。挙げ句の果てには、濱家の言うことを無視して話し続け、その様子を不審に思った濱家が定位置から移動すると、それが見えていないかのように山内は誰もいない空間に向かって猛然としゃべり続ける。


 この段階で、濱家は山内から遠く離れて、観客の方を向き直り、山内のおかしさを訴える。山内の押しの強さに濱家が力負けする瞬間だった。本来ならツッコミはボケを“訂正”しなくてはいけないのに、それをさせてもらえないぐらい山内の勢いがすさまじく、最終的には濱家が観客に泣きつく羽目になっていた。



 これまでのネタでは、山内が非常識ながらも理屈が通っている主張を展開していたので、ツッコミの存在感が弱かった。観客がボケにもツッコミにも共感しづらいネタだったのだ。


 その点、今年のネタでは、山内の主張が明らかに理屈に合わないものだったので、それに対する違和感と恐怖心を濱家と観客が共有することができた。おかしいのは山内だと誰もが分かっている。それなのに、山内は力強く空虚な主張を続けている。観客は心の中で山内にツッコミをいれ、翻弄される濱家にエールを送る。2人と観客の間で関係が結ばれ、漫才の理想の三角形が作れるようになっていた。


「観客に挙手をさせる」というタブーに挑んだ


 今年のかまいたちは例年になく高く評価された。10組中の2番手という不利な出番ながらも、すべての審査員から高得点を付けられて堂々のファイナルステージ進出を果たした。


 ファイナルステージで2本目に彼らが演じたのは、山内が『となりのトトロ』を見たことがないと自慢するネタだ。もう見てしまった人は“見たことがない状態”にはなれないので、これほどすごいことはない、と山内は豪語する。これはどちらかと言うと従来型のかまいたちの「理屈漫才」だ。だが、理屈一辺倒にならず、細部に本筋と関係のないボケを挟んだりすることで、1つのテーマで最後まで引っ張っても勢いが落ちなかった。



 そして、最後には「観客に挙手をさせる」という大仕掛けも用意していた。このように観客に直接話しかけて行為を促すのは、作品性が問われる『M-1』のようなコンテストでは一種のタブーとされている。だが、かまいたちはそれを承知であえてこの手法を導入したに違いない。実際、ここで手を挙げさせることでこの漫才はきれいに完結する。これは従来型の漫才に「新しさ」を加える画期的な発明だった。


 勢いがあり、オリジナリティがあり、キャラが立っていて、技術力があって、新しさもある。かまいたちという芸人の能力は、まるでコーンフレークのパッケージに書かれた栄養成分表示のごとく、大きな五角形を描いていた。


なぜ、それでも優勝できなかったのか?


 だが、それでも彼らは優勝できなかった。かまいたちの前に立ちはだかったのが、決勝初出場のミルクボーイだった。ミルクボーイは1本目の漫才で衝撃を与え、2本目でもその形を見せた。テレビで見ていた私の印象では、2本目の漫才ではミルクボーイとかまいたちはほぼ互角ではないかと思っていたが、審査結果としてはミルクボーイが7票中6票を獲得する圧勝だった。現場レベルではそれだけ絶対的な笑いの量に差があったということだろう。


 決勝でネタを2本見せる必要がある『M-1』は、助走と跳躍から成る走り幅跳びのようなものだ。1本目のネタで助走をつけて、2本目のネタでの飛距離を競う。かまいたちは最高の才能、最高の努力、最高の集中力で、助走とジャンプを鮮やかにきめた。オリンピックでいえば、確実に金メダルが取れるレベルの記録が出ていた。



 だが、ミルクボーイは、2本目のネタで跳び上がり、そのまま着地することなく大空へ舞い上がっていった。そのぐらい彼らのネタは、この日の観客に爆発的にウケていた。ミルクボーイは「助走」ではなく「滑走」をしていたのだ。


 万全の準備をして、完璧なパフォーマンスをしても勝てるとは限らない。それが『M-1』というお笑い界最高峰の勝負の残酷さだ。かまいたちは二冠の夢を果たせないまま『M-1』を卒業することになった。だが、芸人としてのその恐るべき能力の高さは、彼らのネタを見た多くの人に確実に伝わっただろう。



(ラリー遠田)

文春オンライン

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