夫のがん宣告と学級崩壊の嵐で、定年を前に教員を退職。看取った後、知人に誘われモンゴルで日本語教師に。第二の人生をスタートさせた結果【2023編集部セレクション】
2024年12月31日(火)12時30分 婦人公論.jp
イラスト:ネコポンギポンギ
2023年下半期(7月〜12月)に配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします。(初公開日:2023年12月31日)
*****厚生労働省が発表した令和2年雇用動向調査結果によると、「介護・看護」を理由に離職した人は2017年に約9万人、18、19年には10万人を突破していました。また、男女・年齢別にみると、女性の割合がどの年代でも高くなっており、特に55歳以降で増える傾向があります。人生の選択はさまざまですが、子育てや仕事に一区切りついた人生の後半、どう過ごすかによって、毎日の生活の満足度が変わってくるかもしれません。長年音楽教師をしていた森 好子さん(仮名・愛知県・無職・79歳)は、夫ががんで余命宣告を受けたことから、定年目前に中途退職を決めて——。
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学級崩壊と寝耳に水のがん宣告
4歳上の夫ががんで余命40日と宣告された。私はためらうことなく、34年続けてきた教師の仕事を辞め、看病に専念することに。
今まで家庭より仕事を優先してきた。授業やテストの準備、成績処理など、山ほどある仕事をこなすのに精一杯で、夫を思いやることがなかった。寝耳に水のステージIVの宣告で我に返り、56歳で中途退職を決めたのは夫への贖罪の気持ちがあったからだ。
それに、当時勤めていた中学校は、学級崩壊の嵐が吹き荒れていた。生徒たちは音楽教師である私にも、「てめえ!」「死ね!」と、胸を突き刺す言葉を投げつけてくる。
ある日、自宅の郵便受けに切手のない手紙が放り込まれていた。「おまえは最低の教師だ」。そんな言葉から始まる手紙を最後まで読むことはできなかった。また、音楽教室が荒らされたことも。壁に貼られた音楽家の肖像画が破られ、床にはゴミがまき散らされていた。
折れそうな心を支えたのは、まじめに仕事をしてきたという誇りだった。しかし、何度辞めたいと思ったことか。夫の看病は、退職の大義になる。あと4年で定年だったが、未練はなかった。
6ヵ月の闘病期間を経て、夫は定年目前の60歳で旅立った。退職後は悠々自適に暮らすはずだったのに。人生何があるかわからない。やりたいことはやれる時にやっておかなくては……。耳元で誰かが囁く。
そんな折、たまたま書店で『日本語ジャーナル』という雑誌の表紙が目にとまった。「日本語教師になって世界に羽ばたこう」という文字が躍っている。気がつけば、その雑誌で紹介されていた日本語教師養成講座の門を叩いていた。入学金はなんと30万円。
急な成り行きに娘は驚いていたが、一番驚いたのは自分自身だ。二度と教師などするまいと固く誓ったはずなのに。
思い切って異国の地へ
日本語教師養成講座で2年間学んで資格を取った後、モンゴルの大学の教授から仕事の誘いがあった。かつて彼が日本留学していた時、モンゴル語を教わっていたことがあり、私が日本語教師を目指していることを伝えていたので声がかかったのだ。モンゴルなら、こびりついた教師の垢が落ち、しがらみからも解放され、新しい自分に出会えるような気がして即座に決断した。
そして半年後、ウランバートル空港に降り立つと、モンゴルの空はどこまでも蒼く澄み渡り、私を歓迎してくれるようだった。不安と期待を抱えて赴任先の国立大学を訪ねたところ、「明日から来てください」とのこと。そしてそれ以外の説明は何もない。教室は?学生は?教科書は?モンゴルの大草原にポンと放り出されたようだ。
音楽教師時代、8回の転勤を経験しているが、日本ではまず職員会議で自己紹介をしたら、仕事の分担表に基づき詳しい説明を受ける。歓迎会が開かれ、新任に対する濃やかな配慮があった。それがモンゴルには一切ない。
1日目にして考え方の違いの洗礼を受けたが、モンゴル人が不親切ということではなかった。モンゴル語が話せない私のために、日本留学から帰ったばかりのテンゲルという優秀な女子学生を助手としてつけてくれたのだ。
日本語学科の1年生の授業は、「あいうえお」を学ぶことから始まった。私が黒板に書く文字を、学生たちは食い入るように見つめる。こんな眼差しに囲まれて授業をしたのはいつ以来だろう。私は異国の地であることを忘れて熱中した。言葉が通じなくても、身振り手振りを使ったり、絵を描いたり、歌を歌ったり、まるで幼稚園の先生のようだった。
ある時、学生から質問された。「センセイ、マツタコ、シリマスカ?」
なんだか妙な取り合わせだと思いながら、私は黒板に松とタコの絵を描いた。
「これが松で、これがタコ」私の説明に学生は怪訝な顔。後でわかったことだが、モンゴル人は「か行」の発音が苦手。「マツタカコ(松たか子)」と言ったつもりが「マツタコ」になってしまったらしい。
こんなちぐはぐなやりとりが続いたが、学生たちは廊下で会えばにっこり笑って挨拶してくれるし、授業の資料や宿題のノートなどの荷物を進んで運んでくれた。モンゴル人は老人を大切にするので、高齢教師の私を尊敬してくれているのだ。手探りの毎日でも、学生の顔を見れば頑張ることができた。
ただ、彼らはおおらかな半面、約束を守らない、宿題を忘れる、遅刻が多いなど、いい加減なところがある。宿題などの大事な連絡は、日本の高校に通っていた帰国子女のソヨルマーに通訳してもらったが、きちんとやってくる学生は半数ほど。催促されれば持ってくる者もいるが、3分の1は未提出というありさま。対策として直接電話する作戦も実行したが、それでも頑として提出しない強者には参った。
私はショック療法を取ることにした。感情に訴えるのである。馬用の本物の鞭を用意し、授業が始まると、教卓を思い切り鞭で打ちながら宣言した。
「これから君たちの怠け心を鞭で打つ!約束は守れ!モンゴル人の誇りを持て!」
もちろん体罰をする気はない。突然のことに驚きぽかんと口を開けている学生を尻目に、私は肩をいからせて教室を出た。学生が反感を持つか、反省するかの賭けだった。学生たちを信じて職員室で辛抱強く待つ。
すると30分後、学生たちが神妙な顔でやってきた。
「センセイ、ゴメンナサイ。コレカラハマジメニヤリマス」
これで解決と思った瞬間、私の目から大粒の涙が溢れ、声を上げて泣いてしまった。
全力でぶつかり合った私と学生たちの間には特別な絆が生まれ、その後13年間モンゴルで教師を続けることができた。彼らの中には、日本語スピーチコンテストで入賞し、日本留学を果たして日本語教師となった学生もいた。
もし、モンゴルで教師をしなかったら、夫の看病を口実に退職した自分を許せなかっただろう。新天地での挑戦は私を教師として再出発させ、自信を取り戻させてくれたのだ。
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