ソレイマニ暗殺と山口組抗争の類似点

1月10日(金)6時0分 JBpress

ヤミ市はヤクザが取り仕切っていたケースが多く、写真の新橋は関東松田組が睨みをきかせていた。この新橋のヤミ市を在日朝鮮人グループが襲ったとき、その盾になったのは松田組だったという。1946年2月13日撮影(写真:近現代PL/アフロ)

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 冬休み、親子向けに数理教育のトピックスを準備していたのですが、年末のカルロス・ゴーン容疑者の日本脱出に続いて、年初にはイランのスレイマニ暗殺と事件が続き、おっとりしたサイエンスの話題を提供する間もなく3学期が始まってしまいました。

 本当はそちらに重心を置きたいところですが、「穏やかな話題」が難しい状況のようなので、ヤクザの殺人抗争の話題を記したいと思います。

 米国によるソレイマニ将軍暗殺関連の記事と並んで、1月7日、指定広域暴力団「山口組」と「神戸山口組」が「特定指定抗争暴力団に指定されたとの報道がありました。

 多くの読者には「山口組」と「神戸山口組」の違いなど、分からないことが多いと思いますので、そこから始めたいと思います。

 現在の山口組は6代目にあたるので、区別する上で、本家に当たる方を指して「6代目山口組」(分裂した方が「神戸山口組」)という表記がしばしば用いられます。本稿でもそれを踏襲します。

 もとは1つの組織でしたが、設立100年目を迎えた2015年に、前の代にあたる「5代目山口組」で最大勢力を誇った「山健組」を中心とする勢力が分裂、「神戸山口組」を名乗るようになりました。

 さらにその「神戸山口組」が2次的に分裂し2017年に「任侠山口組」を称するようになってから、「3つの山口組」が鼎立しています。

 本稿の目玉は、山口組の歴史ではなく、やくざの「でいり」にあってどのような手法がとられているか、「鉄砲玉」の使い方を検討しようと思います。

 その前に最低限の足取りを押さえておきましょう。


「山口組」の源流探訪

 神戸に本拠を置く「山口組」は1915年に設立された組織で、当初は港湾労働者を束ねるのがなりわいでした。初代山口春吉の息子、山口登が1925年に跡を継ぎ、港の荷役に加えて相撲、浪曲、歌謡曲などの興行事業を拡大。

 1940年には、吉本興業を含む浪曲利権で、山口県下関市に本拠を置く老舗のヤクザ組織、「籠寅組」に襲撃されて重傷を負い、それがもとで戦時中の1942年に亡くなっています。

 籠寅組は戦後、「合田一家」に改められ、現在も下関市を中心に活動していると伝えられます。

 首相のお膝元のはずですが、老舗の暴力団を一掃できないものでしょうか。

 さて、ヤクザも徴兵され本土は空襲、暴力団が活動できるような状況ではない時局が続きましたが、1945年8月15日の終戦で状況が大きく変わります。

 焼け跡に闇市という別の動きが起こることで、戦前からの、手本引きなど賭博をなりわいとする「博徒」と、露天商であるテキヤの両者が、これを仕切るようになり、戦後の「近代ヤクザ」の原型が生まれることになったのです。

 そんな1946年、4年間のブランクを経て「3代目」を襲名したのが、よく知られた「田岡3代目」です。

 田岡以前の山口組は、単なる神戸の一地方港湾ヤクザで、組員も30人ほどしかない小さな組織にすぎませんでした。

 それを一代にして日本最大の暴力団組織に成長させた田岡は、進む道が違っていたら、別の世界でも大成した可能性のある不世出の人物であったと言えるでしょう。

 田岡3代目が山口組を全国組織に育てた背景は非常にシンプルです。「ネットワーク化」にほかなりません。

当初は一体だった
芸能、スポーツとやくざ興行師

 ごく単純に言うなら、田岡は「興行ヤクザ」として、マスメディアが全国に売り出した「スター」の興行権を握り、興行が打ちたければ傘下につけ、そうすれば儲けさせてやるといった、確固たるビジネスモデルをもって、ヤクザのシノギを組み立て直しました。

 山口組の芸能部門であった「神戸興行社」は、戦後歌謡界最大のスター、美空ひばりを「育て」日本一にしました。

 また、勃興期にあった「テレビ」メディアで国民をくぎづけにした「プロレス」の中でも「力道山」の興行を握っていた。

 ざっくり言って「スポーツと芸能」という、今の日本でも変わることのないポップメディアを押さえていた。

 全国区に育ったこれらのタレントを送りこめば、寺銭の儲けが期待できます。

 もちろん、高度成長期の日本で発生した現実のヤクザ抗争はこうしたストーリーだけで語れるものでないのは、「仁義なき戦い」として知られる「広島戦争」など、様々な現実から周知の事実と思います。

 とはいえ、「全国ネット化」に成功したことで「広域暴力団」となった。

 昨年の日本では「反社会勢力」の定義はないなど、ありとあらゆる、グズグズのなし崩しが観測されましたが、やくざと興行、とりわけスポーツ/芸能とはそもそも発祥の根が同じ側面があります。

 昨年はまた、芸能人と反社会勢力の交友といったことが問題になりましたが、かつてはイナセな兄ちゃんが、映画会社の大部屋俳優から用心棒を経てギャングに転身、といったキャリア・パスも普通にありました。

 様々な意味で人的交流を皆無にするのは、そもそも無理のある話かもしれません。

 さて、全国区のタレントという「アメ」とともに、傘下に収めるにはさ様々な暴力装置「ムチ」も必要になります。

 3代目山口組で全国侵攻の急先鋒となった集団として「柳川組」「菅谷組」などが知られ、彼らは互いに覇を競って侵攻を続けます。

 そんな3代目の信任が最も厚かったのがナンバー2の「若頭」を務めた山本健一組長で、彼の率いた「山健組」は、長らく山口組の保守本流と見做されていました。

 しかし、田岡3代目の没後、後を追うように山本健一組長も亡くなり、本命だった4代目が空席となったことから山口組は分裂してしまいます。

 4代目を継いだ竹中正久組長が暗殺されるなど、10年近い抗争を経て「5代目」を継いだのが、山健組組長を継いだ渡辺芳則組長でした。

 しかし、彼が跡目を継いだ1989年以降、暴対法などの整備によって、暴力団にとってはシノギがしにくい環境が形成されていきます。

 渡辺5代目時代、一世を風靡したのが「山健組」で「山健にあらざれば山口組にあらず」などと言われるまで、勢力を拡大します。

 しかし同時に、5代目山口組では宅見若頭射殺事件などの様々な問題が発生、それらの詳細はここでは省略しますが、結局5代目時代の山口組は分裂と停滞を繰りしつつ、「山健組への反発」から、渡辺5代目とほぼ同年配である当代の篠田健市6代目が(一説にはクーデターとも言われますが)、跡目を襲うことになります。

 そのようにして成立したのが「6代目山口組」でした。

 これに対して、前政権の中枢にあり、山口組的には摘流にあったのが山健組という対立の構図になっていました。

 これが、6代目山口組になって10年目、山口組としては100年目にあたる2015年に両者が分裂し、両者ともに弱っているというのが、現在に至る大まかな流れと考えて外れないと思います。

 暴対法その他の締めつけによって、今日ではヤクザ全般が生存しにくい状態にあり、全国に広がっていた勢力は縮小、衰退しつつあるというのが、過不足ないところです。

 読者の中には、なぜ私がヤクザ事情に詳しいのか、いぶかしく思われるかたがあるかもしれません。

 それは、5代目山口組時代、宅見若頭が狙撃暗殺された頃以降、オウム真理教裁判に関連して私がコンスタントに小菅の拘置所に通うようになったことが背景にあります。

 現在の、宇宙基地のような拘置所ではなく、まだ木造だった頃、最初に接見に行ったときに見た派手なネクタイのヤクザは非常に印象的で、全く知らなかった彼らの生態に興味を持ち、調べるようになったのが、もう25年近く前になります。

 幸か不幸か、いまだヤクザの知り合いはありませんが、仕事でご一緒するようになった宮崎学さんなどとのご縁から、もう少しリアルな実情を知るようにもなり、今回のような記事も準備している次第です。

 以下では、全国制覇を進めていた高度成長期、イケイケだった頃の山口組など暴力団の拡張政策がどのように実施されたのか、モデル的に考えてみましょう。


鉄砲玉を送り込む:「紫川事件」への道程

 広域暴力団組織が、新たな地域に進出しようとする際、いくつかのパターンが考えられます。

 従来そのエリアをシマにしていたヤクザや半グレを、配下に収めるというのは一つの方法で、これは同化吸収、系列化という傾向といっていいでしょう。

 これに対して、とりわけ関西以西で顕著なのが、全く新たな場所に乗り込んで行くという、かなり乱暴な方法です。

 いわば、殴り込みをかけるようなもので、旧来からの「縄張り」を重視する東日本では比較的少ない現象かとも思われます。

 このタイプの進出では、文字通り、アウェーの土地に子分が乗り込んで行くことになります。具体例でお話しましょう。

 1963年9月10日、山口組系菅谷組は、北九州市小倉に構成員の芦原章男を送り込み「芦原興行社」を設立。

 こともあろうにその場所は、真向いに、地元の工藤組系の「前田プロダクション」があるという立地で、明らかな営業上の「殴り込み」です。

 工藤組は山口組の当時の若頭、地道行雄に抗議、地道は工藤組に「代紋入り芦原興行社の看板」を下ろすと約束しますが、実際には、物理的に看板を外しただけで、地元での営業は一貫して継続します。

 翌月、両組織は歌謡賞や力道山興行などを打ちますが、導火線に火が着いたような状態ですから衝突は時間の問題でした。

 まず10月29日、地元の工藤組が芦原興行社に殴り込みをかけ組員に暴行。

 これで「先に手を出したのはそっちだ」という大義名分が立ちます。1か月後の11月28日、山口組系菅谷組員2人が、前田プロダクションの前田国政組長を北九州市内の歓楽街で射殺します。

 山口組としては、わざわざ相手と対立しそうなところに出て行って、まず先に手を出させておき、それを理由に敵のトップの命を奪ってしまう・・・という「手法」を使っているのがよく分かると思います。

 ちなみに、この「前田組長殺し」の報復として、12月8日に工藤組組員が、菅谷組員と間違えて、別の山口組地道組系安藤組組員を川原の石で撲殺してしまいます。

 この手の話題としては広く知られる「紫川事件」と呼ばれる殺人事件で、この事件を機に北九州では暴力団追放のキャンペーンが大きく立ち上がることになりました。


ペルシャ湾の鉄砲玉とならないために

 この抗争にはまた、山口組内でも地道組と菅谷組の間で対立があったわけですが、これをなだめたのが、一世代下にあたり、山健組を立ち上げたか立ち上げないか、という頃の若き日の山本健一組長であったことも伝えられます。

 さて、ここまでヤクザの事例でお話してきたのは、国際政治の例を挙げて、何かと誤読があることを避けるためです。本稿の本題はイラクやペルシャ湾にあります。

 火種のあるところに、わざわざ関係のないものが出て行く、というようなことがあると、面倒に巻き込まれる可能性があります。

 しかし、一度巻き込まれてしまえば当事者で、被害が出れば、それに対する攻撃など暴力の応酬も「正当化」されてしまう。

 米国大統領選挙の年になると「すわ、イラク戦争か?」という話が恒常的に出るわけですが、全く無関係な土地の大国での権力奪取を念頭に、何の罪もない紛争地域の国民が危険にさらされ、戦闘行動に駆り出される兵士たちも命を失ったり、重いPTSD(心的外傷後ストレス障害)を病んだりという悪循環が、21世紀に入ってこのかた、延々と繰り返され続けています。

 間違っても日本は、このような面倒に巻き込まれることがないよう、強く願わざるを得ません。

 また、日本のことに限らず、このような局地戦の政治利用そのものの醜悪さを改めて指摘しないわけにはいきません。

 そうしたコントラストとして、暴力団同士で実際にあった抗争の例を引きましたが、当該事件から60年近くを経て、いまだ山口組は存在しており、昨年から銃器を用いた抗争事件が相次いでいます。

 極めて危機管理能力の低い、現在の米国共和党政権の右往左往を見ていると、ほとんどチンピラの喧嘩と変わらない水準の悪手の連続を見るようですので、両者を対照してみました。

(つづく)

筆者:伊東 乾

JBpress

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