欧州随一の親日国、ポーランドで語り継がれる日本の孤児救出劇

2月8日(金)7時0分 NEWSポストセブン

2002年、天皇皇后両陛下のポーランドご訪問時に、熱烈に歓迎する地元の人々 代表取材

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 ヨーロッパ随一の親日国といって過言ではないポーランド。両国の絆はソ連の共産主義の前にも揺らぐことがなかった。ジャーナリスト・井上和彦氏がレポートする。


 * * *

 バラの花が咲き乱れたワジェンキ公園には、ポーランドが生んだ偉大な作曲家フレデリック・ショパンの銅像が建ち、横にはピアノが置かれていた。これからピアニストによる野外演奏が始まるのだ。しばらくすると人々が公園に集まりだし、ショパンの流麗な楽曲が流れると、人々はその演奏に聴き入った。


 ポーランド人から愛され続けるショパンその楽曲の中でも「革命」はポーランドの悲哀の歴史を物語っている。この曲が生まれたのは、ポーランドがロシアからの独立を勝ち取るため武装蜂起した最中の1831年のことだった。


 ヨーロッパの中央に位置し、ロシアとドイツという大国に挟まれたポーランドは、隣接する大国に国土を分断され、あるいは戦場となって蹂躙されてきた。第二次世界大戦後は、意に反して共産主義独裁国家ソ連の陣営に否応なく組み込まれ、約半世紀にわたり共産主義の弾圧に苦しんだ。


 そんなポーランドは、ヨーロッパ一の親日国家であることをご存じだろうか。その理由の一つが、第一次世界大戦(1914〜1918年)末期の「シベリア出兵」時のある出来事にある。


 当時、ロシア革命に干渉すべく、日本、米国、英国、フランスらの連合国がシベリアに出兵した。日本は、兵力7万3000人と戦費10億円を投じ、約3000人もの戦死者を出した。だがその結果として、日本がシベリアで孤立した765人のポーランド人孤児を救うことができたのである。



◆君が代を歌った孤児たち


 ではなぜシベリアにポーランド人が? 19世紀、ロシア帝国の支配下にあったポーランドで独立を勝ち取るための、民衆蜂起が始まった。


 1830年の11月蜂起、そして1863年の1月蜂起でポーランド人が立ち上がった。だが、圧倒的軍事力を誇るロシア軍に制圧され、その結果多くのポーランド人が政治犯としてシベリアに送られたのだった。


 さらにその後の第一次世界大戦では、国土がロシア軍とドイツ軍の激しい戦場となったため逃れてきた人々が加わり、当時シベリアには15万〜20万人のポーランド人がいたという。


 戦後、ポーランドは独立を回復したが、大戦末期に起こったロシア革命によって祖国への帰国は困難となった。シベリアのポーランド人は、ロシア内戦の中で凄惨な生き地獄を味わわされ、多数の餓死者や病死者、凍死者を出したのだった。


 こうした惨状を知った極東ウラジオストク在住のポーランド人、アンナ・ビエルケビッチ女史らが「ポーランド救済委員会」を1919年に立ち上げ、「せめて親を失った孤児だけでも救わねば」と東奔西走した。当初は米国の赤十字が動くはずだったが、肝心の米軍が撤退となってはどうしようもなかった。


 そこで1920年6月、ポーランド救済委員会は地理的にシベリアに近く、また軍を派遣していた日本に救援を打診した。すると日本の外務省が日本赤十字社に救済事業を要請し、日本赤十字は、陸軍大臣の田中義一と海軍大臣の加藤友三郎に合意を得て救護活動を決定した。早くもその2週間後、ポーランド孤児らを乗せた輸送船がウラジオストクを出発し、福井県・敦賀港に到着したのだった。



 このとき、日本赤十字をはじめ、軍や警察、役場、敦賀市民は、孤児たちを温かく迎え入れた。食事や菓子でもてなし、病気の治療にあたるなど、手厚く養護したのである。


 こうして1922年8月までに救出されたポーランド孤児は765人を数えた。ポーランド政府の要請で、元気を取り戻した孤児たちは横浜港や神戸港から祖国へ帰還していった(*1)。


【*1:初期に日本に来たポーランド孤児は渡米し、米国在住のポーランド人たちに引き取られた。】


 ところが、船で日本を離れるとき、感動的な出来事がおきた。ポーランド孤児たちは「日本を離れたくない」と泣き出したのである。


 シベリアで極寒・極貧の生活を強いられてきた孤児たちにとって、日本はまさに天国だったのだ。孤児らは船上から「アリガトウ」を連呼し、「君が代」とポーランド国歌を高らかに歌い感謝の意を表して別れを惜しんだという。


◆阪神淡路大震災で恩返し


 祖国に送り届けられた孤児らは、ポーランド北部のグダニスク郊外の町、ヴェイヘロヴォの施設に収容されて養護された。その場所は現在、特別支援学校となり、当時孤児たちが過ごしたレンガ造りの建物がそのままの姿で使用されている。


 驚くべきは、廊下に日の丸とポーランド国旗をあしらった孤児救出のパネルが飾られ、100年前の出来事が今もしっかりと語り継がれていることだった。


 その中に私の興味を引いた一枚の写真があった。



 それは、ポーランドに帰国しこの学校で過ごした子供たちが結成した、日本の「旭日旗」をシンボルとした「極東青年会」なる親睦団体の写真だった。私はこの写真の存在を知っていたものの、やはり現地で見ると感慨もひとしおだ。


 こうして育った青年の中には第二次世界大戦時にナチスに迫害されたユダヤ人を命がけで救う者もあらわれたのである。


 そしてポーランド政府がポーランド孤児救援に対し、日本に恩返しするときがやってきた。平成7年と8年、ポーランド政府が阪神淡路大震災の被災児童らをポーランドに招待し、ワルシャワで4名のポーランド孤児との対面などを通じて子供らを励ましたのだった。


 これはポーランド科学アカデミーのスタニスワフ・フィリペック博士の尽力によるものだった。当時、駐日ポーランド大使館の参事官だったフィリペック博士は募金を呼び掛け、その資金で阪神淡路大震災による日本人孤児や被災者をポーランドに招待したのである。


 その動機についてフィリペック博士はこういう。


「私のおばあちゃんから、日本に感謝すべきことがあるといわれてきましたから、何か役に立てないかと考えたのでした」


 その後もポーランド政府は、平成23年に発生した東日本大震災で被災した岩手県と宮城県の子供たちを2週間もポーランドに招くなど、100年前のポーランド孤児救出劇への恩返しは続いている。


◆日本軍将校に勲章授与



 両国の絆は孤児救出の前、正確に言えば日露戦争(1904年)の頃から始まっていた。


 日露戦争開戦前、後の初代国家元首となるポーランド社会党の活動家であったユゼフ・ピウスツキは、日露戦争を機にロシアに対する武装蜂起を考えた。これに対して、ポーランド国民連盟の代表ロマン・ドモフスキは、武装蜂起には反対だが日本への支持を表明し連携を考えていた。


 ピウスツキらは、日本軍と共にロシア軍と戦う決意をもって「ポーランド軍団」の創設を提案し、またロシア軍の中のポーランド兵士の日本軍への投降、さらにシベリアにおける鉄道などへの破壊活動を日本に申し入れている。この当時の極東地域のロシア軍のおよそ3割がポーランド兵だったことから戦闘の重大局面におけるポーランド兵の離反は、ロシア軍にとって大きな痛手となったであろう。


 ピウスツキは、日本兵の士気の高さや将校の有能さを高く評価していたといわれ、彼が軍事功労勲章の委員会総裁だったときの1925年(大正14年)、目覚ましい戦功を上げた日本軍将校51名にポーランドの勲章授与を決定(授与は1928年)したのだった。


 ポーランドは、その後の敵味方に分かれた第二次世界大戦中も、水面下で日本と繋がりヨーロッパの情勢を報せてくれたという。


 そして今年2019年は、日本とヨーロッパ随一の親日国家ポーランドとの国交樹立100年の記念すべき年なのである。


 ワジェンキ公園の外には大きなユゼフ・ピウスツキ将軍の銅像が建っている。 私は、ピウスツキ将軍の前に立って深く頭を垂れ、未来の日ポ友好を祈念した。


【参考文献】/兵藤長雄著『善意の架け橋—ポーランド魂とやまと心』(文藝春秋)


※SAPIO2019年1・2月号

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