マレーシアはなぜ金正男暗殺事件の被告を釈放したか

3月15日(金)6時14分 JBpress

金正男氏が実行犯2人に暗殺された現場の国際線出発ロビー(クアラルンプール国際空港第二ターミナル、2019年3月、筆者撮影)

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 マレーシアで起きた「金正男暗殺事件」の真相は、北朝鮮が描いたシナリオ通り、迷宮入りすることが確実な情勢となった。

 言い換えれば、こうなる結末(北朝鮮は訴追されない)を予測していたからこそ、実行に及んだといえるだろう。

 自ら手を汚すことなく、あえて「友好国」の第三国の人間を厳選して訓練し、「化学兵器テロの実行部隊」として友好国の最前線に送り出す。

 インドネシアとベトナムの女性被告は、「テレビのいたずら番組の撮影と思っていた」と無実を主張する、冷戦時代さながらの「殺人ゲーム」に世界は震撼した。

 その勝者と見られる北朝鮮は、何の罪に問われることなく、同事件はまるで何もなかったように歴史的に封印される見通しだ。

 11日、マレーシア高裁は、金正男氏の顔に神経剤VXを塗った殺人の罪で起訴されていた実行犯、インドネシア人のシティ・アイシャ被告(当時、インドネシアにすでに帰国)を釈放した。

 一方、14日、同高裁は同罪で起訴されていたベトナム人のドアン・ティ・フォン被告の弁護側の起訴取り下げ要求を却下、公判続行を決めた。

 しかし、11日、14日とも公判は開廷されず、「心身ともに衰弱しており、医師の判断が必要」(高裁)との判断で、初の被告人質問の公判は、結局、4月1日に再延期された。今後、実際に、公判が行われるかは微妙なところだろう。

 フォン被告の爪には化学兵器VXの痕跡が残されていたことや、アイシャ被告の釈放でマレーシアや国際社会からマレーシアの司法制度の独立性に非難が強まっていたことが、公判続行に影響したと思われる。

 しかし、マレーシア政府の「差別的司法判断」は、ベトナムとの外交問題に発展しており、フォン被告が情状酌量で釈放される可能性もある。

 暗殺を指揮した北朝鮮の工作員がすでに逃亡している中、事件の真相を明らかにしていくのは、もはや難しいと言わざる得ない。

インドネシア・ジャカルタでジョコ・ウィドド大統領(中央)と面会するシティ・アイシャさん(右、2019年3月12日撮影)。(c)BAY ISMOYO / AFP 〔AFPBB News〕

 暗殺事件は、2017年2月13日、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の異母兄、金正男氏が、朝9時頃の1日で最も混雑するマレーシアのクアラルンプール国際空港(第2ターミナル。「エアアジア」など格安航空専用空港)で勃発。

 2017年10月に始まった公判で、弁護側は「両被告が殺意を持っていなかった」と無罪を主張する一方、検察側は「VXガスの毒性を熟知していた訓練された暗殺者」と有罪に自信をのぞかせていた。

 これを受け、高裁は「殺意があった」と判断し、今月11日には、弁護側の被告人質問などが始まる予定だった。

 しかし、被告人質問を前に優勢に立ち訴追に意気込んでいたはずの検察側が急遽、起訴を取り下げるという、前代未聞の事態となった。

 急転直下で「殺人罪」から「無罪放免」となった背景に、インドネシアのジョコビ大統領とマレーシアのマハティール首相の間での「司法取引」があったとみられている。

 昨年5月に政権交代して再度、首相に返り咲いたマハティール首相。

 汚職や腐敗政治撲滅を公約に掲げ当選した中、最大の案件が、政府系投資会社「1MDB」の負債を肩代わりするなど、中国の後押しを受け腐敗し切ったナジブ前首相の立件だった。

 当時、米国の司法省やFBIが、1MDBの公金流用で購入された疑惑のあった超豪華ヨットがインドネシアのバリ島沖に停泊していることを発見。米国政府は、インドネシア政府に米国への返還を求めた。

 しかし、インドネシア政府が保留したため、マレーシアの公金流用で購入されたとされ、マネーロンダリングなど汚職の証拠物件だったのを背景に、マハティール首相は昨年6月末、首相就任初の公式訪問先としてインドネシアを訪問。

 その際、「ジョコビ大統領から、(今年4月17日投開票の大統領選を見据え)アイシャ被告の釈放を要求され、豪華ヨットの引き渡しと交換で司法取引が成立した」(マレーシア政府筋)という。 

 さらに、死刑の廃止を目指しているマハティール政権だが、現行の国内刑法では「故意の殺人には死刑が宣告される。有罪になればASEAN(東南アジア諸国連合)友好国のインドネシアやベトナムとの外交問題に発展する」との見方もあった。

 一方、前回首相を引退する直前の2003年に、念願だった北朝鮮との両国の大使館開設に漕ぎ着けたのが反米のマハティール首相だった。

 今回の暗殺事件で同大使館を閉鎖しているが、2009年には世界で初めて北朝鮮双方とのビザなし渡航を実現させた。

 政敵であるナジブ前首相が閉鎖した大使館を復活させ、自らのレガシー復権もしたたかに計算した上、「北朝鮮との関係を改善させ、大使館の再開を進めたい」と昨年の就任後、再三表明している。

 「今年中にも(大使などの職員派遣による)双方の大使館の再開を願っている」(与党幹部)ともみられ、その政治的モメンタムを演出するためにも、北朝鮮に“恩を売る”形で、被告を釈放したもようだ。

 その結果、国際社会から北朝鮮が責任を追及されるリスクが軽減されるため、「釈放」という形で、金正男の暗殺事件の落としどころを図ったといえる。

 さらに、2月11日に開始するはずだったナジブ氏の初公判がナジブ弁護団の反撃で延期を強いられている。

 また3月2日の州選挙補選ではナジブ氏がかつて率いたBN(国民戦線)に敗退、マハティール首相の求心力にも限りが見え始めてきた。

 こうしたことから、「首相としての政治力や外交力を国内向けにも、再認識させる必要に迫られていた」(政治アナリスト)ともみられている。

 核やミサイル問題で孤立化する北朝鮮の数少ない友好国であることから、マレーシアは北朝鮮の要請で、これまで六か国協議などの会議や米朝の非公式会談の舞台にもなってきた。

 一方、北朝鮮関連の企業が外貨を稼ぐ「ハブ」と化し、マレーシア国内の企業が国連の制裁対象のリストに挙げられてきた暗部も抱える。

 今回の金正男暗殺事件では、マレーシア当局は「キム・チョル」の偽名旅券で正男氏を入国スルーさせるなど、隣国インドネシアとともに「北朝鮮人の出入りに寛容な国」(西側外交筋)で、テロの温床国家として認識されている。

 北の工作員の姿が頻繁に見かけられる国でもあった。

 さらに今回の暗殺事件では、「韓国の情報機関、国家情報院が事件発生数時間後にすでに事実を掌握していた」とされる一方、マレーシア政府の対応が後手に回り、空港が閉鎖されることもなく、首謀者の4人の北朝鮮工作員は中国経由で逃亡したと見られている。

 犯行実行場所そのものにマレーシアが「選ばれた謎」も紐解くことができる。マハティール氏も以前、「暗殺を実行するのに便利な国だった。北朝鮮にとっては、ビザ免除は特別な待遇だった」と海外メディアの取材で認めている。

 そもそも、北朝鮮が活動拠点を東南アジア地域に拡大する最初のきっかけは、2005年の米政府によるマカオの銀行の金融制裁だった。以来、親北のマレーシアなどに秘密口座を開設するようになった。

 こうした歴史的背景がありながら、日本のメディアは連日、金正恩体制を「悪の枢軸」「テロ支援国家」と厳しく非難する一方で、マハティール首相やインドネシアのジョコビ大統領を「卓越した外交手腕」と称える報道が目立つ。

 さらには、「何も知らなかった」と主張し、化学兵器テロで無実の民間人を結果的に抹殺した被告すら英雄視するかのような報道が見られる。

 今回の事件では、2人の被告が正男氏の顔に猛毒のVXを塗ったことで、正男氏が死亡した事実は揺るがなかったため、1年半に及ぶ裁判の最大の争点は、「2人の被告が正男氏の殺害計画を知っていたかどうか」だった。

 釈放されたアイシャ氏は、「正男氏の暗殺ではなく、テレビ撮影と聞かされていた」と主張していたが、仮に主張が認められても、筆者は「過失致死などの罪は免れないだろう」とみていた。

 しかし、罪が問われることもなく「無罪」を宣告されるまでもなく釈放され、事件の真相は葬り去られてしまった。

 マレーシア検察と裁判所は今でも、起訴取り下げと釈放の理由を明らかにしていない。

 こうした状況に加え、インドネシア政府がジョコビ大統領が釈放要求をマハティール首相に働きかけていたことを公表し、マレーシア国内ではマレーシアの司法独立への懸念が高まっている。

 三権分立と法の支配は選挙公約で、政権交代後、マハティール氏自身が国民に見本を示し、その実行を固く約束してきた政権方針だったからだ。

 そのため、「アイシャ被告の釈放は、マレーシア政府が外交圧力に屈したため」との批判や非難の声が上がっている。

 こうした批判に対してマハティール首相は、「釈放決定は『法の支配』に沿ったもの。起訴の取り下げを認める法律を適用した。詳しい理由については知らない」と述べ、インドネシアとマレーシア間でいかなる「司法取引」があったことも否定した。

 しかし、「理由なき釈放」はマレーシア国民だけでなく、国際社会に、さまざまな疑念を与えてしまう。

 しかも、VXガスは、「神経剤」「神経毒」と言われる猛毒。日本のオウム真理教がテロに使ったサリンと同じ種類で、化学兵器禁止条約で禁止されている化学兵器だ。

 それを用いた朝の混雑極める空港でのテロ行為は、一歩間違えば他の罪のない旅行者を巻き沿いにする大量殺人事件に発展した危険性もある断じて許されない犯罪行為だ。

 事件当時の2月27日付韓国の中央日報には、次のような韓国国防省の見解が紹介されている。

 「マレーシア当局が逮捕した容疑者らはFTF(外国人テロ戦闘員=Foreign Terrorist Fighter)で、北韓の工作員がマレーシアへ飛び、第三国人を雇って空港で(金正男氏を)殺害した」

 「(神経性毒ガス)VXを使用し、他の民間人や空港施設を2次被害に陥れることも恐れなかった。これはFTFがしていることと同じだ。『北韓をテロ支援国に再指定(2008年に解除)すべき』という米国と韓国政府は同じ考えである」

 FTFは過激派組織「IS(イスラム国)」が全世界の若者を集めてテロリストにしているのを受けて登場した用語。

 国連安全保障理事会の定義では、「テロを準備計画、実行、参加する目的で、本人の国籍国以外の国に移動する個人を意味する」。

 その上で、「中国との関係が悪化すると知りながら、金正恩が金正男を殺害したのは、金正恩が『偏執狂的な性格』だからだ」と分析。

 今回の金正男暗殺事件の「理由なき釈放」の代償を背負わされるのは、マレーシアだけでなく、日本も含めた国際社会全体であるという危機感を持つべきかもしれない。

(取材・文・撮影 末永 恵)

筆者:末永 恵

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