孝明天皇は6度も改元、幕末動乱期の「元号」事情

3月31日(日)6時0分 JBpress

孝明天皇

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(柳原三佳・ノンフィクション作家)

 間もなく、新しい「元号」が発表されます。まさに国民の注目が一斉に注がれる瞬間ですね。

 現在、「元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」(一世一元)とされていますが、じつは、明治になる前までは「天皇の皇位継承」に関係なく、さまざまな理由で元号がコロコロ変わっていた、ということをご存知でしょうか。


江戸時代、改元は頻繁に行われた

 この連載のテーマである「開成をつくった男、佐野鼎」は、文政12年(1829年)に駿河国(現在の富士市)で生まれました。そして、明治10年(1877年)、伝染病のコレラに罹患し、49歳で、東京で亡くなりました。

 まさに、幕末から明治維新の激動の時期を生き抜いた人物なのですが、彼の一生を振り返ってみると、なんと元号が以下のように10回も変わっていることがわかります。

① 文政
② 天保
③ 弘化
④ 嘉永
⑤ 安政
⑥ 万延
⑦ 文久
⑧ 元治
⑨ 慶応
⑩ 明治

 こうしてみていくと、佐野鼎という人物がいかに激しい動きの中で生きてきたかがよくわかりますが、これだけ頻繁に変わると、本人でもなかなか覚えきれなかったかもしれませんね。

 さて、ここで注目すべきは、③の弘化から⑨の慶応までの7つの元号はすべて「孝明天皇」という一人の天皇の在位中のものということ。つまり改元は6回もなされているということです。

 なぜ、こんなことを行ったのか? それは、冒頭にも書いたように、江戸時代までは一世一元制、つまり一人の天皇にひとつの元号という制度ではなかったからです。当時は大きな事件や災害などが起こった場合に元号を変えることでリセットしたり、甲子、戊辰、辛酉といった干支の周期にちなんで改元するという中国の習わしに従っていたため、必然的に回数が増えてしまったのです。

 それにしても、一人の天皇の在位中に6回の改元とは・・・。それだけ幕末のこの時期は政情が不安定だったともいえるでしょう。

 例えば、安政年間には「安政の大地震」や「黒船の来航」、万延には、大老の井伊直弼が江戸城下で暗殺されるという「桜田門代の変」や内裏の火災などが、そして慶応年間はいうまでもなく、「禁門の変」をはじめ、各地でさまざまな騒乱が発生し、武士の世が終焉を迎えたのです。


万延元年使節団が江戸を発ったときはまだ安政だった!?

 さて、『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著・講談社)は、1860年1月、佐野鼎が随員として参加した「万延元年遣米使節」がアメリカから迎えに来た軍艦・ポーハタン号に乗って、江戸湾を出港するシーンから始まります。2年前の1858年に結ばれた「日米修好通商条約」の批准書(条約)を、アメリカの首都・ワシントンで大統領と直接交わすことがその目的でした。

 厳密にいうと、彼らが江戸を発った1860年1月の時点では、まだ元号は「万延」ではなく、「安政」7年でした。この年の3月3日、まさにアメリカとの条約締結問題をめぐるいざこざがきっかけとなって「桜田門外の変」が発生、1860年3月18日に、元号が安政から万延に変わったのです。ですから「万延元年遣米使節」という呼び名は、正確に言えば、「安政7年の正月に出港した、万延元年遣米使節」ということになるでしょうか。

 佐野鼎は、洋学者としては名を馳せていたものの、武家社会では下級の身分でした。念願かなって、なんとか幕臣の“従者”という立場で使節団に加わった彼は、アメリカ側が差し向けた軍艦を乗り継いで、約9か月かけて地球を一周しています。

 これは、『開成をつくった男、佐野鼎』の口絵や裏表紙にも使われている佐野鼎が書いたとされる「地球略図」です(*写真がご覧になれない場合は、JBpressの記事をご覧ください)。

 この世界地図だけでなく、佐野鼎は「萬延元年訪米日記」なる詳細な日記も書き残していました。活字になったものが、昭和21年に金沢文化協会から出版されています。なんとかその古書を手に入れた私は、目次に並ぶ文字を見て圧倒されました。

「横濱港を出でて太平洋に浮かぶ」
「ホノロロ港よりメールス島に至る」
「サンフランシスコ府に赴く」
「パナマ港よりアスペンヲール街へ」
「ニウヨルク港口より引返してパトマツク河を遡上す」
「ワシントン府に上陸してウイルライト・ホテルに入る」
「分析に因る日米金銀貨の比較」

 続いて、ヒレドルヒア、ポルトガランデー、ローアンダ、喜望峰、アンジヨポイント、バタービア、香港、といった外国の地名が次々登場するのです。

 タイトルには「訪米日記」とあるものの、彼が足を踏み入れたのは、アフリカ、インド洋、アジアの国々にまで及んでいることがわかりました。

 このとき、すでに加賀藩に砲術師範として召し抱えられていた佐野鼎は31歳。彼はどうしても遣米使節団に参加し、異国を自らの目で見たかったのでしょう。加賀藩の史料には藩主から許しを得るまでのやり取りを記した興味深い記録も残されていました。

 丁髷を結い、大小の刀を携えた侍が、初めて異国に足を踏み入れ、西洋の最新文明に触れる、それはまさにカルチャーショックの連続だったに違いありません。


1年にも満たなかった「万延」の元号

 港に迎えに現れた豪華な馬車。矢のように早い蒸気機関車に乗ったときの衝撃。シャンデリアが吊るされた西洋式のホテルで、初めて使った水洗トイレやシャワー。熱帯で振る舞われた氷入りのオレンジジュースの美味しさ。ワシントンやニューヨークで受けた市民たちの大歓迎。美しいドレスを身にまとった西洋婦人たちのキッスの嵐・・・。

 日記には各地で見聞きした出来事や、珍しい習慣、風俗について生きと、具体的に記されていました。

 また、長崎海軍伝習所でオランダ人から最新の航海術などを学んでいた鼎は、その知識を生かし、航海中の船位、天候、風向きのほか天文学に関する事柄を毎日緻密に記録していました。大砲などの武器や最新の軍事施設等についても鋭く観察し、記述しているのにも驚かされました。

 幕末期の元号のひとつである「万延(萬延=まんえん)」は、日本における外交史の中で、ぜひとも記憶にとどめておきたい重要なキーワードだといえるでしょう。

 ちなみに、「万延」は、翌1861年2月19日に「文久」へと改元されたため、わずか11カ月間でした。江戸時代の元号は全部で35あるのですが、そのなかでは最も短かったということになります。

 さあ、間もなくお披露目される「平成」の次の元号、果たしてどんな時代になるのでしょうか。

筆者:柳原 三佳

JBpress

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