私たちは「聖人君子の集まり」じゃない!

4月12日(水)17時30分 ニューズウィーク日本版

<「国境なき医師団」(MSF)を取材する いとうせいこうさんは、ハイチ、ギリシャで現場の声を聞き、今度はマニラを訪れた。そして日本人スタッフ 菊地寿加さんに、なぜMSFに参加し、どんな日常を送っているのかを聞いた>

これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 」
前回の記事:「マニラのスラムの小さな病院で」

菊地寿加(すが)さん

「わたしは4月末からこっちへ来て、本来ならもう任務を終えて帰ってるはずなんですけど、子宮頸癌のワクチンが手元に届くのに時間がかかってしまったので、まだステイしてるんです」

と国境なき医師団(MSF)の日本人看護師・菊地寿加(すが)さんは言った。場所はマンションから歩いてすぐのフィリピンレストランで、俺たちは夜の8時過ぎに玄関で待ち合わせて、薄暗い道を歩いてきたのだった。11月23日のことだ。

けっこうきちんとしたレストランだったので、特に俺は挙動不審になった。なにしろ2日間、スラムめしで暮らしていて早くもその生活に馴れてきていたからだ。背は小さいが元気あふれる女性、寿加さんも同じように店に少しおろおろしつつ、しかしフィリピンの典型的な料理を注文したあとは気さくにインタビューに応じてくれる。

冒頭の言葉はその中で出たもののひとつだ。

「届かないっていうと?」

「今は手元には届いてんるんですが、認可が思うように下りないので使うことが出来ないんです。医薬品の輸入にとにかく時間がかかります」

「あ、マネージャーとして困ってるわけですね」

「そうです。医療チームの予防接種マネージャーとして。よくご存知ですね」

そこで広報の谷口さんが説明する。

「いとうさんは何度か我々MSFへの取材をして下さっているので組織図も理解されています」

「あー、なるほど」

さらに寿加さんは言った。

「あと少しですべての認可がおりるはずなんですけど、あと1週間で12月じゃないですか?」

「はい」



「そうするとフィリピンの人はもう休暇モードなんです。クリスマスの月だから。なにしろカソリックの国ですし、こちらでは9月からクリスマスの用意が始まるんで」


そういえば、マニラの空港からマラテ地区へ向かう最初のタクシー内で、すでにワム!のクリスマスソングが流れていたのを思い出した。11月にずいぶん気が早いと思っていたが、あれはフィリピン的には季節にぴったりの選曲だったのだ。そして、あの頃はまだジョージ・マイケルも生きていた、とこの原稿を書きながら俺は感慨にふける。

「おまけにフィリピンの税関はリストをかなり細かく出さないといけないので、ますます時間がかかります。ノルウェーからフランスのロジステック・センターを経由してマニラに運ぶはずだったんですが、色々ともつれまして。その間にもワクチンの消費期限は迫ってくるのでこっちはヒヤヒヤで」



すでにビールの乾杯は済んでいたかと思う。寿加さんはビール好きなので笑顔も漏れていたはずだ。しかしそれは寿加さんがタフなだけで、状況はなかなかに厳しかった。

「なんで、当初のミッション期間は過ぎたのですが、現地チームの要請もあって、いったん日本に帰って、また戻ってくることにしました」

タフな女性

そのタフさがどこから来るのか、俺は見慣れぬフィリピン料理がテーブルに届くのを横目にあれこれ質問を続けた。いつの間にか、レストランの中に濃いキャラクターの音楽家がトリオであらわれ、各テーブルで歌を聴かせ始めていた。やはり歌舞音曲にたけた人々の国だ。演奏は民謡らしきものから世界のポップスまで多様だった。

音楽の中で聞いた話によると、そもそも寿加さんは数年前インドへ着任するはずがビザが取れず、常にMSFが展開している南スーダンへ行き、1 ヶ月半のミッションを行った。北東部のメルートが任務地だったそうだが、そのうち戦闘地域が拡大してMSFの診療所が続けられなくなり、国連の基地に4日間避難、そして国外に退避した。もともと3ヶ月の予定だったミッションは、1ヵ月半に切り上げとなったらしい。

ストレスがかかる任務のあと、MSFは必ずスタッフに心理ケアの機会を与える。寿加さんの場合、ナイロビに送られてカウンセリングを受けた。なにしろMSFの診療所を開いていたときには、川の向こうから常にドーンドーンと爆弾らしき音がし、その診療所からさえも現地の患者が逃げて行くのを見るという壮絶な日々だったようだ。さらに、国連基地でも土嚢に囲まれた気温50度にもなるコンテナで避難生活を送り、武力衝突の銃弾がそのコンテナをかすめていくこともあったという。

「でも1ヶ月半しかいられなかったんで、もう一度メルートへ戻りたいって訴えたんですけど、現地の医療チームリーダーからは無理だとの返事で。ちなみに今でもその時に一緒だったメンバーとは交流が続いていて、彼らに会いにスペインに行くんです」

寿加さんはぎゃははという感じで笑った。やはりタフなのだ。

MSFに参加するまで

もともとは小学校の時にニュースでルワンダの大虐殺を知り、MSFに入りたいと思った人だった。高校時代はどんな仕事でも英語は身に着けておきたいと、米国オレゴン州のポートランドへ留学した。偶然にもそれはMSFマニラオフィスのリーダーであるジョーダンの故郷だから縁のようなものだ。大学では美術史を専攻したが、途中で自分が本当に何をしたいかわからなくなり、考えた末に大学を中退した。



進路を見つけられないまま、インドで放浪の旅をした。人生は長い。自分は何が出来るだろうか。そう思ううち、コルカタのマザーテレサのもとへたどり着いていた。そこには日本人の看護師がたくさんいて、自分も医療系の資格が欲しいと思った。

おまけに私が選んだ看護学校は学費が安かったのだと寿加さんはまた笑った。それで大学を中退し、看護学校に入り直した。やがて築地の国立がん研究センターで働くことにもなった。そもそも自分はMSFに参加したかったのだとその頃にはわかっていたのだろう。

寿加さんはもう迷わなかった。

彼女は国境なき医師団の一員になった。

「南スーダンの任務のことは母親にずっと言えなかったんですよ。そんな危ないところに行ってるのかって言われちゃうと困るんで」

「ああ」

「でも久しぶりに家に帰って酔っぱらってる時、ぽろっと話しちゃって」

「あはは、そうなんですか!」



「あなたは小さい頃から国境なき医師団に入るんだって言ってたわよって、やっぱりそういう道に行ったのねって、MSFに入った時にすでにそう言われてました。理解はしてくれてると思います。心配はもちろんですが」

日本人の機能

それからは谷口さんと二人で、日本人スタッフはどのようにMSFで機能しているかの話になった。

例えばアフリカの活動地ではスタッフの出身国や言語の背景などから、ヨーロッパ系、アフリカ系が各々自分たちだけで集まってしまう場合があるので、その真ん中にいるように心がけているし、日本人はそれを期待されているのだと思うと二人は言った。ほとんどの場合日本語を話す人はチームに一人で、相対的に自己主張が激しくなくなるから、逆に調整機能としてうまく働けるのだという。

日本が平和で外に軍隊を出さないというのも、国際社会で日本人が調整的な役割を果たすのに大きく役立っていたという個人的な感想も聞いた。すでに武器使用を許された部隊の南スーダンへの駐屯が海外でもニュースになっていたタイミングだった。実はこれには他の時間に別の外国人スタッフからも惜しいという声が聞こえていた。

そこに例の音楽家トリオが来た。俺たちが日本人だとわかって、彼らは『昴』を片言の日本語で歌った。我はゆく、あおじらくホーのままて、我はゆく、さらまスバルよー。

その歌詞の中で聞いたのだが、寿加さんは思ったことをすぐに口にしてしまうのでよく注意されるとのことだった。それでアフリカ人に胸ぐらをつかまれ、助けに入ったヨーロッパ人も背の高いスタッフだったので彼らの間で宙を舞っていたらしい。それでも寿加さんは黙らなかったのだろうと思った。他人のこちらから見ればコメディそのものの図だ。



だがそれも日本人で徒手空拳で女性で小さいからこそ成り立つのではないか、とも俺は考えていた。そうでなければ宙を舞うどころか単純に殴りあいになっている。とても殴れないほど弱いからこそ、宙に放り投げるしかなかったし、助ける者も出た。それは実に醒めたリアリズムだ。そのバックで歌は続いていた。ああ、ひつの日か、たれかがくのみちを。

聖人君子ではなく

ぴかぴかの頬をしてニコニコと微笑みながら、寿加さんがこんなことも言っていたのを思い出す。

「これが4回目のミッションですけど、やりたかったことがやれてます。自分で決める裁量も大きいし、プレッシャーを越えた達成感もあるし、わたしは迷いなく活動を続けると思います。ただし......」

「ただし?」



「MSFを聖人君子の集まりみたいに見ないで欲しいんです。こんな風にいつもビール飲んで、文句たらたら言って、悪態ついて、それでも働いてるんです。だいたい、『国境なき医師団』ってなんか四角い感じじゃないですか?」

「そう、いかにもマッチョみたいな、ね」

と女性である谷口さんも言葉を加えた。

「そうそう、でも海外ではMSFなんですよね。もっと丸いって言うか、日常的と言うか、そういう活動だし、集団なんです」

なるほどその通りだと思った。女性的で、しかも活動的。そういう面をMSFの中に見なければ、結局力の強い者が支配する世界は変わらない。確かに俺はハイチでもギリシャでも"丸いって言うか、日常的と言うか"、そんな女性たちを見てきたし、ミッションにはそのしなやかな力が不可欠なのだった。

寿加さんはそれから、フランス語の勉強を始めるつもりだと言った。MSFではフランス語が共通語の活動地も多いからだ。寿加さんはどんどん前進していた。とどまるつもりがなさそうだった。

俺はそのきらきらした、しかも飲んだくれた人の笑い声の生々しさも備えた素敵な力に憧れを感じたし、爽快さも感じた。

楽しくなって三人で宿舎のほうへ帰る道すがら、日本なら小学校低学年くらいの二人の少年が俺の右腹のあたりにすっと近寄るのに気づいた。彼らは寿加さんたちに気づかれないように小さな声で「マネー」とささやき、手を出した。俺は「ノー」と言って首を振った。

しかし彼らは同じ右腹のあたりできょろきょろあたりに視線をやりながら、なおも俺についてきた。刃物を出されたら困るな、と思った。俺は刺されたくなかったし、子供にお金を渡すことで彼らに達成感を覚えて欲しくなかった。もつれる雀たちみたいに、手を出す子供たちはしばらく俺につきまとった。

この国でやっていくのはやっぱりタフなことだ、と俺は遠くに目をやりながら子供たちを恐れ、同時に無視しながら思った。

暗がりにあの男がいて、こちらを見ていた。

子供たちをやり過ごしたあとの道に輝いていたネオン

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いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

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