<コラム>ブーゲンビリアの花咲くアモイ租界地にあった日本総領事館を訪ねて

6月16日(日)15時10分 Record China

厦門島はブーゲンビリアの花が一年中咲き、街角は欧州の雰囲気がする。

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厦門島はブーゲンビリアの花が一年中咲き、街角は欧州の雰囲気がする。その意味で山東省青島にも似ている。明代1387年(洪武20年)、厦門城が築かれて「厦門」という地名が初めて使用された。厦門城は周囲420丈(1270m)で4つの城門があり、城楼もあった。清代には拡張されて600丈(1800m)になった。厦門城は現在の中山公園の西にあたり、厦門市公安局がその中心地になる。古城西路や古城東路は城壁があった跡で中山路と交わる場所に南門があった(写真1)。厦門城は倭寇対策を目的に築かれ、西の海岸線に100を超える小城が築かれた。

明末清初1650年(永暦4年)、鄭成功は厦門を本拠地とし“思明州”と命名して反清活動を行ったが、1680年(康熙19年)ついに清朝に占領された。1684年(康熙23年)から対外貿易を再開、廈門は中国人商人による東南アジア貿易の拠点として繁栄、また台湾の開発が進むにつれて台湾との貿易も増大した。

1841年(道光21年)、アヘン戦争時にイギリス軍により占領され、翌年の南京条約によって諸外国に開港、その後は茶葉の積出港として海外に知られるようになった。1844年にイギリス租界が、厦門島西岸の水操台と南較場(現在の避風塢付近)に作られた。その後、1852年以降は現在で言えば海岸線を走る鷺江道に沿って、南から中山路・昇平路・大同路・開元路付近の海岸沿いに“海后灘イギリス租界”ができあがった。現在の鷺江賓館は、当時の中心地にあたる中山路と昇平路との中間にある古いホテルで、1878年に匯豊銀行や交通銀行が付近に作られた。開元路の北に東西幹線路である厦禾路があるが、当時は海であった。厦禾路の北にある篔簹(員当)湖は淡水湖であるが、当時は内港と呼ばれる入江だった。

日本は日清戦争後の1895年(明治28年)下関条約によって重慶・蘇州・杭州・沙市の開港と専管租界開設準備と工場建設など商工業活動(第六条四項)の承認を得て、1896年「日清通商航海条約」や専管租界条約によって上海・天津・漢口・蘇州・杭州・重慶・厦門(アモイ)・沙市・福州での租界開設を認めさせたが、厦門(アモイ)・福州・沙市は住民の反対などで実現できなかった。上海は共同租界地内に押し込まれ日本専管租界とはならなかった。

1896年9月、鼓浪嶼(コロンス島)の1/3とその対岸の厦門島虎頭山(現在の鴻山公園)周辺の22万坪を日本専管租界とする“厦門日本人専管居留地画定”を結んだが、1898年には住民運動(虎頭山租界事件)により日本人租界地は実現しなかった。鼓浪嶼(コロンス島)にある日本領事館(鹿礁路24号)はこの時に造られた。現在は改装中であるが、最近まで厦門大学職員寮として使われていた。(写真2)は領事館建家と正面入口付近である。東門前には石碑が置かれ、その説明書から2階建・地下1階の建屋面積2930m2で、2階には和室も作られた。1928年には2棟を増築し、警察本部と寄宿舎となった。警察本部には地下監獄が作られ、終戦まで抗日志士が軟禁されたという。1937年に総領事館に昇格、付近には英国領事館やドイツ領事館跡などもあった。

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