五輪のトランスジェンダー重量挙げ選手に見る韓国の社会的包摂

8月15日(日)6時0分 JBpress

(田中 美蘭:韓国ライター)

「コロナ禍」の中での開催という面で注目を集めた東京五輪。だが、コロナ禍だけでなく、競技における「性的マイノリティー(LGBTQ)」という面でも社会に一石を投じた。トランスジェンダーとして出場を果たしたニュージーランドの選手を巡る論争である。

 今大会では、LGBTQを公言して出場する選手は142人とされ、これまでで過去最多と報じられていた。その中でも、特に注目されていたのは、女子重量挙げにニュージーランド代表として出場したローレル・ハバード選手であろう。

 現在43歳のハバード選手は、ニュージランドで長く重量挙げの選手として長く活躍してきたが、元は男性だった。30代の時に心の体の性が一致しない「性同一性障害」の診断を受け、2013年に性転換のためのホルモン療法を実施、名前も替えた。そして、今回、女性としてオリンピックの出場が認められたのである。

 当然のことながら、ハバード選手の出場に関しては開催前より賛否両論、あえていえば否定的な声が多く上がっていた。特に聞かれたのが、「性別を変更したからといって、生まれついての体格や身体的能力は本来の性別によるところが大きい。記録などの「公平性」が保たれるのか」「明確な規制が必要だ」「こうした世の中の意見を『差別』ではなく『区別』と受け止めることも必要」といったものである。

 残念ながら、ハバード選手自身は本番の舞台ではその実力を発揮することなく、スナッチで3回の失敗を犯し、「記録なし」で予選を敗退した。自身の問題で話題を集めたことによるプレッシャーや重圧が大きかったのだろう。

 もっとも、競技後のインタビューを見ると、その表情と言葉からは清々しさを感じさせた。今大会で競技生活を終え、現役から退くことを示唆しているハバード選手は、今回の自身のオリンピック出場についての胸の内を次のように明かした。

「(自分のオリンピック出場が)歴史的な出来事として扱われるべきではない」


トランスジェンダーの重量挙げ選手が問うもの

 前述した通り、世間の反応を鑑みれば、トランスジェンダーの出場が大々的に認められるようになれば、競技の平等性を巡る問題が提起されることは間違いない。今後も、さらなる議論や熟慮を要する問題となるだろう。

 ただ、インタビューの最後にハバード選手が述べた「スポーツに限らず、様々な困難や葛藤を抱えている人々でも自分らしく生きるチャンスがあるということを知ってほしい」という言葉は、一人の人間として非常に重みのあるものだった。

 それはハバード選手自身の人柄のみならず、ハバード選手の母国であるニュージーランドが持つ寛容性が関係しているようにも思われる。

 筆者もかつて、ニュージーランドで数年間、暮らした経験を持つ。その際に、自身の性的指向や性自認、あるいは生物学的な子供ではなくステップファミリーで育ったことなど、日本人の感覚ではプライベートに属する話を初対面の相手にもオープンに語っているのが印象的だった。

 様々な反応を承知の上でハバード選手がオリンピックという舞台に挑戦した背景には、国や国民の寛容性もあったのではないだろうか。競技後の表情を見ていると、そのように感じた。

 今回のハバード選手に限らず、ジェンダーの問題はオリンピックをはじめとする国際大会で取りざたされるだろう。LGBTQや多様性が世界のスタンダードになりつつある中、韓国でもそうした事例が出ることは否定できない。

 スポーツ界ではないものの、韓国でも芸能人がLGBTQであるとカミングアウトするケースはしばしばある。今年4月のソウル市長選挙では、トランスジェンダーを公言した候補が立候補し、話題となった。

 元来、韓国は儒教の影響により保守的とされる。その韓国でLGBTQを公言する人間が出始めたことに対して、「韓国も変わりつつある」「多様性が受け入れられるようになった」という声も聞かれるが、一概にそうとは言い切れない。むしろ、こうした流れが社会の分断や対立を深めつつあるのだ。


「小田急線刺殺事件」と「江南通り魔事件」の共通点

 特に、性別を巡る対立は近年、深刻さを増している。今回のオリンピックの女子アーチェリーで金メダル3冠を達成した安山(アン・サン)選手も、髪型が「ショートカットである」という理由だけで、SNS上で「フェミニスト」「男性嫌悪者」など意味不明で理不尽な攻撃にさらされたことは記憶に新しい。

 女性が活躍の場を広げていくにつれて、これまで受けたセクハラなどの被害に声を上げ始めるようになった。対する男性は、女性の活躍や動きに「男性が虐げられている」「逆差別だ」といった反発の声を上げる。男女間嫌悪が深まり、時として深刻な事件にもつながっている。

 先日、東京の小田急線内で起きた刺傷事件で、容疑者は社会への不満とともに「勝ち組の幸せそうな女性を殺したかった」と供述した。この事件について、社会学者の上野千鶴子氏は、2016年に韓国で男が雑居ビルのトイレで面識のない女性を刺殺した「江南(カンナム)通り魔事件」を引き合いに出し、類似していると指摘した。やはり、この事件でも容疑者の男は「過去に女性に無視をされた恨み」という動機を述べている。

 男性から一方的に嫉妬される女性もまた、韓国社会が現実には「男性社会」であることに苦しんでいる。今年、韓国では海軍と空軍に所属する女性兵士が「上官からの性被害」を苦に相次いで自殺している。

 LGBTQについても、軍隊で兵役に就いていた性同一性障害の男性兵士が休暇期間中に性転換手術を受け、「女性」として兵務に戻ったところ除隊を命じられたという事例がある。最終的に兵士は裁判で争っている。

 前述のトランスジェンダー候補などが注目されているが、韓国社会が受容しているわけでも理解が深まっているわけでもない。まだまだ話題性など興味本位で捉えられている。

 こうした歪みが相互理解どころか溝を深める結果となり、結局はLGBTQや女性の人権が疎かにされている。それが韓国社会の現状だろう。


「他者との違い」を言い出せない韓国社会

 SNSが普及し、その匿名性で不特定多数が自由に自分の意見を述べる場が増えたものの、特定のターゲットを見つけては一方的に攻撃したり、自分の意にそぐわない意見を叩きつぶそうとしたり、とデメリットが目立つ。

 韓国では、芸能人がSNSによるトラブルに巻き込まれ精神を病み、あげくの果てに自殺を図ることが少なくない。芸能人に限らず、スポーツ選手においてもSNSの影響やメンタルヘルスについて、考えていかなければならない段階だ。

 現在の韓国の状況を見れば、前述のハバード選手のようなケースが韓国で起きれば、ここまで受け入れられることはなかったように思う。マスコミや市民団体の影響が大きく、本心を言いたくても言えない、言わせない、「他者と異なること」で萎縮してしまうような空気があることは否めない。

 他者への敬意や理解よりも、あえて対立の火種を作ろうとする流れがある限り、韓国の性的マイノリティーの問題が前進していくことは困難であろう。

筆者:田中 美蘭

JBpress

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