金儲け念頭で企画実行されたアウシュヴィッツ

8月20日(火)6時0分 JBpress

広島に原爆が投下された8月6日、米ワシントン州シアトルで行われた追悼の精霊流し(2019年、写真:ZUMA Press/アフロ)

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 日本の夏というのは、8月に入るとにわかに広島、長崎原爆の話題が報道され、そこでは原爆が明確な人災であるという明白な事実は基本的に触れられず、8月15日の「終戦の日」に向けて<平和の大切さ>を説くようなテレビ番組やメディア報道が流されます。

 しかし、8月も下旬ともなれいば、夏休みが終わりそうだが子供の宿題は終わっていないとか、熱闘甲子園的なスポーツ報道なり何なり、要するに「普段の報道」に戻って、喉元過ぎると猛暑を感じるがごときパターンを繰り返しているように思います。

 しかし2019年は微妙にきな臭い国際情勢が続くなか、日本列島は暑い夏を迎えています。

 そこで、8月15日は過ぎましたが、地球の反対側で起きた戦争事犯を冷静に見つめ直すことで、暑さを忘れる内容を準備してみました。

 よく「ナチス・ドイツの狂気」と言います。いたいけな子供たちまで容赦なく命を奪った、アウシュヴィッツのガス室は「狂った」行為だったのでしょうか?

 長年指摘し続けていることですが、ナチスの行為は徹底して合理的に計画、実行されており、その実態は「狂気」ではなく「非人間的な合理性」というのが正確と思います。


なぜ人は「原爆の狂気」と呼ばないのか?

 原子爆弾の製造は、単に発狂しただけでは不可能な、高度な物理や化学の新知見がフル活用されています。

 また、その投下は、第2次大戦終結後の来るべき冷戦における東側との駆け引きなどを念頭に、徹底して計算ずくで決定され、様々な「効果測定」もなされた、実験であったことが、すでに広く知られています。

 およそ「正気の沙汰」ではありません。

「あいちトリエンナーレ」で、政治的なコノテーションを含むコンテンツを「感情に対して感情をぶつける」と芸術には素人の人たちが誤解して、とんでもない事故や事件を引き起こしたりするのも目にする2019年の夏。

 一切の感情を滅却した、理詰めで考える「ホロコースト」問題の整理を、欧州の現場からお送りしたいと思います。


ナチスの財源確保策「ユダヤ人排斥」

 1933年世界大恐慌で経済がめちゃくちゃなドイツで、国家社会主義ドイツ労働者党=ナチスは民主的な選挙によって圧倒的勝利を収め、党首のアドルフ・ヒトラーは首相に就任しました。

 ナチスの主張は分かりやすいヘイトで、ユダヤ人を目の敵にするものでした。それは単にやり玉に挙げるとか、仮想敵を作って勢力を結集するとかいった以上に、具体的な利害にも直結する「秘策」でもありました。

 もともと「外国人」であるのに、銀行業などで富裕層を形成していたユダヤ人の財産を奪うのです。

 現在の日本でも、高齢層が貯蓄を手放さずちっとも景気が・・・なんて話を耳にすることがありますね。

 第1次世界大戦のドイツでは、しっかりため込んでいるユダヤ人が、分かりやすいスケープゴートになりました。

 一方に、第1次大戦の敗戦国として莫大な賠償金を課され、働けど働けどインフレの波に追いつかず・・・というドイツ国民がありました。

 他方、戦後の社会経済の混乱期にも金融を握っていた「もともとは外国人」しかも「イエス・キリストを殺害した民族」であるユダヤ人(いや、イエスそのものがユダヤ人なわけですが、このあたりを宗教は問わないことになっている)の富裕層は、ドイツ大衆にとって「どれだけ叩いても構わないサンドバック」のような役割をあてがわれました。

「ユダヤ憎し」というプロパガンダは、やがて

「第1次世界大戦はユダヤ金融が仕かけた陰謀である。よって彼らが戦争を営利の愚として蓄めこんだ財貨は犯罪によって得られた不法なものである。ユダヤ人の財産はすべて没収のうえ、国外追放が適切な措置である」

 というトンデモないストーリーに仕立て上げられ、国権を握ったサイドがそれを「正義」としてしまったのだから、たまったものではありません。


なぜ小さな子供の命まで奪ったのか?

 いま私はこの原稿を、ユダヤ系オランダ人の親友で、ベルゲンベルゼン強制収容所のサバイバー、映画監督で詩人のフランク・ダイアモンドのスタジオで書いています。

 2020年にはミュンヘン工科大学、アンネ・フランク財団、アムステルダム自由大学との共催行事としてフランクを日本に招聘して、一連のイベントを計画していますので、また告知の折があると思いまます。

 ここではナチスのユダヤ人排斥は基本的に「ユダヤ金融の資産をかすめ取る」<強盗政策>のために企画、実行されたという観点がベースになっている。

 フランクのお爺さんは、苗字から分かるかと思いますが、ダイアモンド加工業で財を成したユダヤの名門でした。

 ちなみにおじさんのピーター・ダイアモンドは戦後の欧州楽壇を牛耳った大プロデューサで、その奥さんでピアニストのマリア・クルチオ門下からはマルタ・アルへリッチ、レオン・フライシャー、内田光子さんなど20世紀後半〜21世紀を代表する莫大な数のピアニストを輩出しています。

 そのピーター・ダイアモンドもアムステルダムの家の屋根裏に潜んでいた時期があり、マリアはピーターに食べ物を運んで命をつなげさせていた。

 決して「アンネの日記」だけが特殊なのではありません。

 さらにアンネ・フランク姉妹が送られて最終的に命を落とした「ベルゲンベルゼン強制収容所」のユダヤ人評議会のトップに、フランクのお爺さんが据えられていたのです。

 理由は簡単で、もう少し戦局が安定していたら、フランク一家のダイアモンド工場を強制収容所に作りたかったんですねナチスドイツは。

 ホロコーストは徹底して、営利最優先の奴隷制工場であったという、前回も記した基本的な事実を再確認しておきましょう。

 工場の現場では、小さな子供など足手まといになるだけですから、工場の効率的な可動を念頭に置く強制収容所には子供は長く置かれませんでした。

「アンネの日記」の著者アンネ・フランクは亡くなったとき15歳、お姉さんのマルゴーは19歳(私の母と同い年にあたります)で「小さな子供」というには当たらず、ナチスは彼女たちが働ける間は、しっかり軍需工場で奴隷労働に投入しています。

 しかし、早晩使いものにならなくなってきた子供たちは、適当に「始末」しておく必要があった。なぜなら、彼女たちの親の財産を、ナチスが略取していたからにほかなりません。

 戦争の敗色が濃くなると、多くの強制収容所で「証拠隠滅」ならびに<生存者の「隠滅」>・・・皆殺しということです・・・が発生しました。

 一番明確な理由は、子供たちが本来の財産所有権を持っていることにあります。後になって面倒な請求をされるより、ここで始末しておいた方が面倒が少ない。

 ここにあるのは「狂気」といったものではなく、非常に明確かつ冷静な計算、許されがたい「犯罪」の事実にほかならず、そこから目を別の場所にそむけるべきではないのです。

 日本国内の犯罪史にも、類似の動機から財産相続権者にあたる子供が犠牲になる事件は多数存在しています。

 ナチスが用いた「民族問題の<最終解決>」という表現は、ドイツに限らず、明らかに同様の動機・・・後で面倒な反撃に出られないよう、奪い尽くし根絶やしにする狙い・・・から実行されたものが少なくありません。

カティンの森の大虐殺
ソ連とナチスの罪の醜い擦りつけ合い

 よく知られた例は、スターリン指導下のソビエト連邦が「ポーランド」という国そのものをなかったことにしかけた「カティンの森」の大虐殺(1940)でしょう。

 このケースではスターリン体制下のロシアが、ポーランド軍捕虜を「後々面倒なことにならないように」、さっさと大量に虐殺したというものですが、埋められている死体を見つけたのは、なんと進攻していったナチス・ドイツ軍でした。

 ナチスのゲッベルス宣伝相は、この事実は駆け引きに使えると直感・・・徹底してろくでもないことを考える男です・・・「カティン」はソ連とナチスが互いを誹謗中傷するカードと化し、戦争終結後も冷戦の45年間、ソ連は言い逃れに終始します。

 結局、冷戦崩壊後の1992年、新制ロシア政府による<ソビエト政権の最高機密文書>公開の第1号として、スターリンやべリアなどの署名の入った2万5700人に及ぶポーランド将兵の射殺計画書、1940年3月5日付のソ連共産党政治局による射殺命令、実際に2万2000人ほどが射殺された報告書などが出てきます。

 それらは蛮行があってから52年も経った後で、当事者はもちろん、その子供など多くがこの世を去った後、やはり政治的なカードとして表に出てきたものでした。

 スターリンの判断は、およそ「狂気」とは程遠い、冷酷な損得計算に基づく「確信犯」で、およそ「責任能力を問えない精神を病んだ人間の仕業」などではありません。

「要らないものは消す」「無用なリスクの元になりそうな芽は早めに摘んでおく」

 私たちが真に警戒せねばならないのは「戦争の狂気」ではなく「戦時の異常心理に基づく非人間的な合理性、冷酷な計算」にほかなりません。


熱くなって肝心なポイントを忘れるな

 今年5月3日に亡くなった数学者の志村五郎さんは、戦争に駆り出された日本の若者たち、つまり学徒兵の青春と人生を2度奪った、スターリン以下ソビエト・ロシアのシベリア抑留を終生にわたって糾弾し続け、これはなかなかなことだと思う旨を添えて本連載でも紹介しました。

 この件は私自身にも骨がらみの問題で、私の父親はまさに学徒兵の一人として満州に投入され、戦後はシベリアに抑留、収容所=ラーゲリで強制的に労働させられ、3回の冬をなんとか乗り切って日本に帰ってくることができました・・・。

 そこで「物語」が終わってしまうのです。

 少なくとも、1972年に46歳で死んだ父は、生前それ以上のことを言わなかったし、本人が言いたくないこともあったと思いますが、それ以上に、奴隷労働させられていた当人は、何をさせられているか。知る由もなかった。

 今私たちは、原爆投下後になっていきなりことを起こしたスターリンの参戦や北方領土の略取(戦後の計画的な移民なども含め)、日本兵をPOW=戦争犯罪者であると一方的に決めつけ、シベリアに抑留して働かせたことのすべてが、主として東シベリア油田開発という、露骨な営利のために行われた、計算づくの非人間的な行為であったことを知っています。

 徴用工その他の問題を目にするとき、個人としての私は、「うちの樺太の資産を返せ!」「いまさら日ロ共同の東シベリア油田どーたらでなく、うちのおやじの人生と生命、父が死んでからの我が家の生活を返せ」と、はらわたが煮えくり返りそうになることも、ひょっとしたらあるかもしれません(苦笑)。

 しかし、です。それをそんなふうにぶつけても、何も帰ってこない。むしろ、あらゆる感情を滅却した、徹底した理詰めの追求が、こういうときには最も強力かつ容赦ない追及に直結することも、冷静に認識するわけです。

 感情に対して感情で呼応するのは赤ん坊がすることです。

 ヒトラーやスターリンですら、冷静かつ冷酷な計算ずくで物事を進めていた。

 そうした人でなしを徹底してナマスに斬るには、理性と意志の透徹が、最強無敵の、武器ならざる力になることを、若い諸君にもよく知ってもらいたいと思うのです。

 このように骨格となる議論を整理したうえで、前回もご紹介したナチスドイツの「通過収容所」の現実、ならびに、終戦後も続いた、各国にとって微妙な歴史などについて、お話したいと思います。

(つづく)

筆者:伊東 乾

JBpress

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