劇的変化を遂げたウラジオストクは愛と憎しみの町

9月20日(金)6時0分 JBpress

9月5日、ロシアのウラジオストクで開催された第5回東方経済フォーラムのパネルディスカッション。一番左が安倍首相、次がインドのモディ首相、ロシアのプーチン大統領、モンゴルのバトトルガ大統領、マレーシアのマハティール首相(写真:新華社/アフロ)

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 先日、東方経済フォーラム取材のためのウラジオストク出張を終え、モスクワに戻ってきた。同フォーラムには安倍晋三首相も4年連続で出席しており、経済界の大物の姿も多く、ロシアにいながらにして日本の要人と会える絶好の取材機会である。

 フォーラムは、市中心部から車で40分ほど南に行ったところにあるルースキー島の中で行われた。ルースキー島に位置する極東連邦大学のキャンパスがメイン会場であり、記者たちは、大学敷地内のホテルに寝泊りする。

 フォーラム自体は3日間あるのだが、2日目の日露首脳会談が終わると、とたんに人がいなくなる。

 そこで仕事が少ない3日目は島に閉じこもるのをやめ、マリインスキー劇場の別館を訪れて日本人バレエダンサーの取材をした。日本人が9人も活躍している国際色豊かな劇場だ。

 せっかくなので市内で昼食をとろうと、中心部に向かった。バス代は、どこまで乗っても23ルーブル(約40円)だ。

 おんぼろバスの中でふと、自分がワクワクしているのに気づいた。あと1週間くらい、ウラジオストクに残りたいとさえ思った。

 仕事をほぼ終えた開放感もあるかもしれないが、私にとってこの気持ちは、思いがけないものであった。

 なぜなら私にとってウラジオストクとは、「黒歴史」の舞台であり、自分の人生から消し去りたい存在だったからだ。

 生まれて初めて行った海外こそ、ロシア・ウラジオストクだった。

 2004年の夏、大学3年生だった私は、北方領土問題への関心がきっかけで、アルファベットしか読めない状態なのに、1か月の短期語学留学という形で現地に乗り込んだ。

 留学は大失敗に終わった。

 短期とはいえそこまで無謀な留学をしてしまった(できてしまった)のは、当時の早稲田大学と極東大学(現在の極東連邦大学)の協定による。

 早稲田から極東大へは、ロシア語が全くできなくても、簡単な志望動機を書くだけで留学させてくれ、授業料と寮の宿泊費は大学側がカバーしてくれるという太っ腹な制度があったのである。参加者は全部で十数人だった。

 早稲田の文学部には、露文専修という、知っている人は知っている有名な学科があり、多くの参加者はそこから来ていた。

 私がいたのは文芸専修というアウトローの集まりであった。念のため、私以外の参加者は、ちゃんと留学の成果が出ていたことを断っておきたい。

 留学ビザを取るには現地大学からの「招聘状」が必要だが、この招聘状が届いたのが出発間際。航空券はもう買ってしまってあり、日程は変更できない。

 ビザを緊急発行してもらうため大使館に3万円ほど払った。学生には痛い出費だ。

 大使館がビザ代を稼ぐためにわざと招聘状を遅らせたのではないかとぼやく人もいた。しかし現地に着くと、お金で解決できない問題が次から次へと沸いて出た。

 市内の中心部の寮で、我々は7階の部屋をあてがわれた。階段の「1階分」の距離が日本の階段の2倍あったので、体感的には14階分を登っているのと同じだ。もちろんエレベーターなどない。

 寮は上階に行けば行くほど「スラム」と呼ばれており、階ごとに雰囲気も設備も全く違っていた。

 7階は、日本人がギリギリ住める最低ラインだったと思うが、中国人留学生からは「7階に住む日本人は見たことない」と言われたので、本当に最低レベルだったのだろう。

 寮の3階には富山大学からの留学生が住んでいた。3階は、かなり序列が上だ。

 部屋に入らせてもらうとかなり快適だった。今から思えば協定の内容などいろいろ事情があったのだろうが、我々は「早稲田がケチっているに違いない。富山大のように予算を割くべきだ」と短絡的に考え、皆で大学の悪口を言っていた。

 私はチャレンジ精神だけはあったので、誰よりも早く自炊し冷凍野菜でスープを作ったが、水あたりして39度の熱を出し、激しい下痢にもだえながら3日間寝込んだ。

 ようやく体調が回復し授業に復帰した頃にはお湯が止まった。それから3週間、帰国するまで一度もお湯が出なかった。

 冬に欠かせないセントラルヒーティングシステムの整備のため、夏場に一定期間お湯が出なくなるのは全ロシアに共通の現象だ。

 今年、モスクワの自宅でも、まる2週間出なかった。しかし当時はそんなことも知らなかったので、寮の設備が悪いせいだと思い込み、私は人に会うたびに「お湯が出ない」と訴えていた。無知とは恥ずかしい。

 時々、日本語のできるロシア人学生がボランティアで市内観光に連れていってくれた。

 特にありありと思い出すのは、ルースキー島に行ったことだ。冒頭で書いたように、ルースキー島は今では東方経済フォーラムの会場であり、世界のVIPが集う場所だ。

 しかし2004年当時は草ぼうぼうで、全く整備されておらず「険しい裏山」という表現がぴったりの場所であった。

 いつもどおり「観光へ行く」と言われただけで、具体的な行き先を告げられないまま(あるいは私が分かっていなかっただけかもしれないが)出発した。

 私の服装はTシャツとジーンズに、韓国人市場で買った部屋履きふうのビニールサンダルというものだった。

 日本から持ってきたスニーカーはすでに履いていなかった。少し外出しただけでも、土ぼこりと排気ガスで靴が真っ黒になってしまうためだ。

 市内とルースキー島をつなぐ橋が建設されたのは2012年ウラジオストクAPEC(アジア太平洋経済協力)会議の直前であり、当時は船で行くしかなかった。

 船が着いてみると、草むらと崖しかない。崖を無我夢中で登ってフラフラになり、ついに崖から落ちかけたところを別団体の中国人留学生が助けてくれた。

 両腕は、私の背丈ほどもある草のせいで傷だらけになった。ようやく崖を下りたところで疲れ果て、眠りこけてしまった。

 ちなみに今年のフォーラムの全体会合スピーチで、安倍首相は「モディ首相、マハティール首相、バトトルガ大統領、プーチン大統領、自分と、5人揃うのがウラジオストクだという、そのこと自体に感興を覚える」と述べたが、それを同時中継で聞いていた私も、別の意味で、激しく感慨を覚えていた。

 5人もの国家首脳が立っているところは、もしかしたら私が昼寝していた場所かもしれないのだから。

 留学中は「旅の指さし会話帳」を肌身離さず持ち歩いていた。

 会話帳には、ここ「以外」のどこかへ!というキャッチフレーズがついている。私は、全くそれと同じ心境で、ウラジオストク以外ならどこでもいい、とにかく脱出したいという気持ちで、帰国する日を指折り数えながら毎日を過ごしていた。

 そんな調子だから何の成果も出なかった。

 毎回の授業で先生が呼びかけてくれる「大事な私の生徒の皆さん!」というフレーズがあったのだが、授業最終日になっても、その呼びかけの言葉が分からなかったくらいである。

 ウラジオ生活のショックで、日本に戻ってからはパタリとロシア語の勉強もやめてしまった。

 この記事を書くにあたって10年以上ぶりに母校のホームページを見たところ、夏の短期留学の行き先に、ウラジオストクという文字はどこにもなかった。

 それもそうだ。モスクワでさえ定員が埋まらないのに、ウラジオどころではない。あるいは私のような学生が多くて、事業の意味を見出せなくなったのかもしれない。

 長々と負の体験を綴ったが、何が言いたいかというと、今のウラジオストクなら、「それくらい適当な心構えで行っても大丈夫」ということだ。

 今、極東連邦大学へ留学するなら、私が過ごしたスラム風の市内の寮ではなく、ルースキー島の快適な寮に滞在できる。

 勉強に疲れたら、笑顔の店員がいる日本語メニューのあるカフェで気分転換することもできるし、新鮮な牡蠣や帆立で栄養補給してもいいし、一流のバレエやオペラだって格安で鑑賞できる。

 物価はとびきり安いうえに円高ルーブル安で、お金の心配をすることもない。もう夢のようである。

 生活上のストレスがなければ、その分のエネルギーを勉強に注げる。今の留学案内は、留学の案内だか旅行パンフレットだか分からないようなカジュアルな体裁になっている。

 きっと私以上に、軽い気持ちで行ってしまう学生もいるだろうが、それでも何かしらの成果は得られるだろう。

 後日談だが、二度とウラジオストクへは行かない、と決意した悪夢の留学からちょうど1年後の2005年に、政府主催により「日露修好150周年記念回航事業」が行なわれた。

 日本人学生50人の参加者はいったん確定していたが、「北方領土問題に詳しい学生も乗船させた方がよい」ということで特別推薦され、私は飛び入りの51人目となった。

 行き先はよりによってウラジオストク。ロシア人学生100人がウラジオストクで乗船し、日露の若者が函館を経由して下田へ向かった。

 船内では北方領土問題に関して議論した。悲しくも、北方領土問題について話しているのに、私の主張を通訳してくれたのは日本語堪能なロシア人学生だった。

 話を現代に戻そう。市内で優雅に昼食を終えた私は、ルースキー島に戻るのが面倒になり、ベンチに座って海風に吹かれながら原稿を書くことにした。

 2時間ほど経ってふと気づくと、アイスを食べている中国人に囲まれていた。

 アイスをリュックにこぼされてしまったのだが、ロシア人と違って盛大に謝ってくれたし、かつてルースキー島で親切にしてくれた中国人について思い出したこともあり、寛大な気持ちになれた。

 今のウラジオストクは韓国人旅行者が圧倒的に多く、韓国語表記しかない店もあるので、中国人に囲まれるのはちょっと新鮮だった。

 フォーラム会場では、ウラジオストク出身のロシア人で、今は日本に住んでいる人と知り合った。

「ふるさとが発展して嬉しいですか?」と聞いたが、「特にすごく発展したとは思いません。日本に早く帰りたい」と言われて拍子抜けした。

 やはり、驚異的に発展したのは市内中心部のごく一部ということなのだろう。

 この記事でずいぶんウラジオストクの劇的変化をアピールしたが、相変わらず市内の渋滞はひどいし、周辺の住宅地はまだまだこれからだということを付け加えておきたい。

 出張最終日、名残惜しい気持ちを抱えながら空港のカウンターに並んでいたら、荷物を運ぶコンベアが壊れて、スーツケースを預けるのに1時間半もかかった。

 カウンターの係員は全員、姿を消してしまった。自分の力ではどうにもならないことに対してクレームを受けたくない場合、ロシア人はしばしば雲隠れする。

 コンベアは復活せず、とうとうあきらめた係員が出てきて業務を続け、スーツケースは男性職員が手で運んでいた。

 この光景を見て、ここはやっぱりモスクワじゃないな、後ろ髪を引かれるくらいがちょうどいいのかも、と思ったのであった。

筆者:徳山 あすか

JBpress

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