人間には仲間がいる──「国境なき医師団」を取材して

10月12日(木)16時45分 ニューズウィーク日本版

<「国境なき医師団」(MSF)を取材する いとうせいこうさんは、ハイチ、ギリシャ、マニラで現場の声を聞き、今度はウガンダを訪れた>

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ユンベから首都カンパラに戻る

あとは帰るだけだった。

ユンベという町にある、アフリカ人利用者の多い宿屋のまだ開いていないフロント前で早朝6時に待ち合わせたが、ドライバーのボサがなかなか出てこなかった。

5時半から待っていたという『国境なき医師団(MSF)』広報の谷口さんが現れたからまだしもだったが、自分たちはその日中に首都カンパラへ行き着けるものかわからなくなった。なにしろ11時間はかかるから、遅れは帰りの飛行機にも影響する。

不安になっていると、MSFの四駆で駆けつけるボサの姿が見えた。降りてくる彼に聞くと、泊まった部屋がなぜか頑丈な鉄扉で外から鍵をかけられ、出られなかったのだという。ボサの部屋は急な追加予約だったからホテルスタッフが部屋に誰もいないと勘違いしたのか、まさか金を払わずに逃げてしまう客からの自衛策なのか、いずれにしても本人にとってはなかなかハードなものだった。

「あれで火事が起きたらどうするんだ?」

ようやく起きてきた宿の男に向かって、ボサは激しく抗議した。

「死んでしまうじゃないか」

しかし、宿の男は無表情に聞いているだけだ。

首を横に振ってボサは四駆に乗り込んだ。来た道をまた長時間、俺たちは移動するのだ。

途中、8時にアルアでサモサとコーヒーを朝食にした。テレビにはBBCが映っていて、フランス大統領選で中道派マクロンと極右のルペンが候補として選出され、最終決戦に向かうと伝えていた。その決戦は2週間後だった。

ひとつ間違えばフランスが移民排斥に移行し、その影響は中東、アジア、アフリカにも及ぶ。その緊張感を俺はウガンダ北部の小さな町でひしひしと感じた。世界はいやがおうもなくつながっているのだった。

そこから9時間ほど、中途で行きと同じガソリンスタンドに寄り、ジャガイモを潰したものでゆで卵を包んだ軽食を試してみたりしながら、あるいはボサがマンゴーを道端の村人から買ったり、米を倉庫から購入したりするのを見ながらひたすら道を行った。

後部座席にほぼ寝ころんだままでいても、疲労は蓄積された。窓から見える景色に時おり注意していると、最後の1、2時間ほどは低い山や丘の連なりになった。つまり首都は高地にある国土の中でも高台を利用して作られているのだった。そこからは敵もよく見えただろうし、緑も多く、風も吹き渡った。

道端でマンゴーの房を買うボサ。



宿舎からオフィス棟へ

最初の日に訪問したMSF海外派遣スタッフの宿舎に着いたのが、夕方。すでに懐かしく思う不思議さを感じながら、宿舎前のポーチの小さなソファに座ると、2時間前にフランスから着いたばかりという女性スタッフがいて、互いに微笑みながら握手をした。名前を名乗りあっただけで、あとは黙って夕暮れの首都を眺める。谷口さんはノートパソコンで東京と連絡を取るため、与えられた部屋に帰っていた。

俺自身はたいしたことをしていないのに、フランス人スタッフに対して軽い同志の感覚が湧いてきて、それが誇らしかった。ウガンダにいる目的が自分のためでないことが、充実感を強めているのがわかった。彼女も俺も誰かのために、生きているのだった。

宿舎には黒猫2匹がうろついていた。ドアに「必ず閉めて。猫が入るから」と書いてあった。2匹はどうやら親子らしかったが、どちらもスリムで若々しかった。

猫もまた夕暮れに見とれていたから、結局4つの生命体が首都カンパラの空を見ているのだった。俺は2匹も同志のうちに数えた。

その日は3人用の部屋に俺1人でゆうゆうと寝た。他のスタッフはみな、居住区に移動して活動をしているらしかった。

取材最終日

翌4月25日9時、宿舎に隣接するオフィス棟へ移動した。ウガンダでのMSFの本部である。3階建ての1軒屋。事務スタッフは8時から17時の勤務になっているそうで、2階に数人の薬剤師がいた。

最も上の階に、初日俺たちを迎え入れてくれたジャン=リュックがいた。活動責任者の部屋の中で、ジャン=リュックは再会を喜んで満面の笑みを浮かべた。

MSF広報部として谷口さんはそのジャン=リュックにインタビューを始めた。それぞれの活動地での派遣スタッフや患者たちの声を、広報部は常に発信する役割がある。

あれこれとウガンダ独自の問題点や進展の具合など述べる中、ジャン=リュックがしっかりとこう言ったのが特に印象的だった。

「活動が楽しいと感じる限り、僕は現場にいるよ。キャリアを上げようとはまるで考えない。現場を離れて何が面白いんだい?」

それはいかにも彼らしい仕事のしかただし、人生の楽しみ方そのものだった。

そうだろ?というようにジャン=リュックは肩をすくめ、両手のひらを上げた。

俺もにやりと笑って大きくうなずいた。

「エピセンター」

本部とエピセンターの前。


玄関まで階段を下がり、同じ建物の奥にある「エピセンター」にも行ってみることにした。

小さな部屋の前のポーチに出てくれたのはマリリン・ボネットという茶色い髪の背筋の伸びた女性医師で、紺のパンツに濃い水色の襟ぐりの広いシャツを着こなし、大きめの金属製の美しい首飾りをつけていて、端的に言ってとてもかっこいい人だった。

エピセンターは1987年にMSFが設立した科学・疫学研究機関で、感染症の発生と流行、その原因について科学的証拠を提供することを目的としているそうだ。そういう第三者機関による正しい解析がなければ、適切な対応が取れないのは当然だろう。



特にウガンダで研究が進んでいるのはマラリア、HIV/エイズ、アフリカ睡眠病などで、最後のアフリカ睡眠病はサハラ以南のアフリカに多い風土病で、患者・医療者の負担を軽くする検査法と新薬の開発が課題だという。

少し枯れた声の、意志の強そうなマリリンによれば、そうした病を「顧みられない熱帯病 (neglected tropical diseases)」と呼ぶのだそうで、罹患するのが貧しい人であるケースがほとんどであるため製薬会社にうまみがなく、なかなか治療が進まないのだ。したがって確かな効果があり、安価でもある薬剤をどう作ってもらうかのロビイングもまた、MSFの大きな仕事のひとつなのである。

さらにくわしく言えば、もしそのような薬が手に入ったとしても、現地でそれを使うスタッフの技能と知識が問われており、少しでもそれが低いと薬本来の効果が出なくなる。ゆえにスタッフトレーニングが欠かせないのだそうだ。

もちろんマリリンたちエピセンターも他機関と連携して統計を行っており、医療調査のための資金調達も協力しあっているという。人道支援団体はそれぞれ、自分たち組織の強いところをつなげ、弱いところを補い合って苦難に陥った人々に手を差し伸べているのだ。彼ら自身が完全で強いわけではないのである。

マリリン博士と俺。

マリリン自身のことも俺たちは聞いてみた。

するともともとMSFに参加したのが1998年で、MSFがノーベル平和賞を取る前の年。数々の活動を経て、彼女マリリン医学博士は2003年エピセンターに移り、そこで薬剤耐性結核、髄膜炎、黄熱病などの研究をしながら、MSFがノーベル賞の賞金で設立した「必須医薬品キャンペーン(製薬会社に薬価の引き下げや新薬・診断ツールなどの開発を促す)」と共に活動を行ってきたのだそうだった。

と同時に、彼女たちは病気が蔓延する地域の人たちの啓蒙も行わねばならないという。なぜならば、例えばHIV/エイズもいまだに「悪魔の病気」と考えられて治療に考えが至らない場所があり、それは土地の宗教、伝統に埋没して漫然と死を待つことになってしまうからだ。

「それともうひとつ大事なのは」

マリリンはそう言った。

「MSFは数年から数十年という活動が多いでしょ。でもエピセンターはもっともっと長くデータを取っていかなければならない。だから次の世代をその場所で育てるのも大事。私もエンバラにある大学で教鞭を取って、ウガンダの学生たちにトレーニングをしているんです」 

その土地で自助が出来るようにすること。

それ自体はまさにMSFが常に掲げている方針だった。哲学を共にし、活動はそれぞれの専門分野で特化するというのがMSFとエピセンターのあり方なのだろう。

俺はマリリンの話を聞きながら、あらゆる適材適所があることに考えを及ばせていた。彼女は医学博士であり、教育者の風格があった。ユンベの宿舎では水と衛生を学んで企業を離れたファビアンが地域に安全な水を供給すべく力を注いでいた。ドライバーのウガンダ人ボサは長年MSFに勤めて組織を愛し、食料補給にまで気を遣っていたし、アメリカ人レベッカは特に女性の人権について今日も心を痛めながら諦めずに活動していた。

それはマニラのスラムでも、ギリシャの難民キャンプでも、ハイチの医療機関でも同じことだった。

会社を定年になってから、ずっと望んでいたMSFでロジスティック(資材供給・機材修理などなど)の役を担うことになったカールも、拷問で心身ともに痛めつけられた人々をなんとか癒そうとしていたシェリーも、私は聖人君子じゃないと言いながらスラムの人々にワクチンを届けようとしていた菊地寿加さんも、みな自分が出来ることを努力とともに行っていた。

生き甲斐のある人たちだった。

その分、満足はしていなかった。

世の不条理に下を向くことも出来たが、なぜかそれをしなかった。

おそらく仲間がいるからだ。



下を向いていればその時間が無駄になる。

我々は出来ることをするだけだ。

そういう先人からの教訓みたいなものが、彼ら自身を救っているように思った。

前回、苦難をこうむる彼らは俺だと書いた。そう考えると、自然に彼らのために何かをしたくなるのだった。

今回の「彼ら」はMSF側の人間のことだった。

彼らMSFのスタッフたちもまた、自分たちと「苦難をこうむる人々」を区別していなかった。つまりそれぞれが交換可能で、彼らは俺で、俺は彼らで、彼らは彼らなのだ。

それが人道という考えの基本中の基本で、何も難しいことはないと俺はマリリンのエピセンターから宿舎側に歩いて行きながら思った。

トンテンカンテンと近くの建築中のビルからなぜかトンカチの音が続いた。俺はまだポーチにいたフランス人スタッフの横に座って首都の様子に耳を傾けた。トンカチの音はもっと遠くからも聞こえてきて、ウガンダが貧しい国のひとつとして発展を目指していることの日々の努力のようだった。

俺はマニラの時と同じく、自分の幼い頃の下町の雰囲気を強烈に思い出した。あの頃、毎日のようにトンテンカンテンと釘を打つトンカチの音が町中でしていた。あちらこちらでどんどん家が建っていた。

戦争で焼けたあと、バラックが建ち、それを建て直している音。あるいはよりよい家を建てる高度成長期の音だった。同じ音は関東大震災のあとにも東京に鳴り響いただろう。

俺はウガンダの首都にいながら、同時に数十年前の東京にもいた。

俺は彼らで、彼らは俺だった。

この国が平和で、人が豊かに暮らせるといい。と、俺はごくごく単純な願いをもった。

そして、願いが単純であることを嘲笑させたくないと思った。

達成は実に難しく、人が苦しみ続けることを、俺は『国境なき医師団』の活動を見ることで身にしみて知っていた。

俺は以下の事実を教えてくれた、すべての人に感謝する。

人生はシンプルだが、それを生きることは日々難しい。

けれど人間には仲間がいる。

互いが互いに共感する力を持っている。

それが素晴らしい。

これを自分が書いている気がしない。

あの「誰か」が書いているのかもしれないし、それでもかまわないと思う。

宿舎でまかないの女性から提供される食事。これをみんなで食べるのだ。

<終わり>

いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

いとうせいこう

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