合意なきEU離脱はイギリスの経済的な自殺行為

10月16日(火)16時30分 ニューズウィーク日本版

<ハード・ブレグジットなら英経済は大混乱をきたし、外交関係の不透明感が増す——強硬離脱の勝者は誰か>

少なくとも理論上は、どのEU加盟国も穏便に、つまり経済的な混乱を招くことも近隣諸国との良好な関係を損ねることもなくEU離脱できる。

イギリスにも、まだ穏便な離脱の道は残されている。テリーザ・メイ英首相とEUの指導者たちが離脱協定で合意し、経済的なダメージを抑え、今後も政治的な強い結び付きを維持していける可能性はまだある。

だが、そうならない公算が高まっている。イギリスがEUに特別扱いを要求していることが主因だ。EUはそれに応じようとしないし、おそらく応じられないだろう。合意なき離脱となれば経済ばかりか、イギリスという国家の統一までも危うくなりかねない。

今のイギリスはEUの単一市場の一員であり、通関手続きの必要も関税もない。ロンドンに拠点を置く企業は、ベルギーのサプライヤーから、国内のサプライヤーからと同じように簡単に仕入れを行うことができる。イギリスの製造業者はEU域内に広がるサプライチェーンに組み込まれることによって「ジャストインタイム」の生産を行うことができる。

例えばイギリス南西部のウィルトシャーにあるホンダの工場では36時間分の部品在庫しか持っていない。EU域内のサプライヤーに発注すればいつでも24時間以内に部品が届くからだ。イギリスの食品業界も同様で、通関手続きがないので港には冷凍・冷蔵設備も要らない。

しかし離脱条件で合意できなければ、こうした恩恵は一夜にして消える。イギリスへの輸入品は全て通関手続きを踏む必要が出てくる。だが検査設備も、手続き完了まで食品を保管する設備も整っていない。ヨーロッパ大陸に最も近く、大陸との間の貨物の大半を扱っているドーバー港への通関設備の新設や、EU域外からの貨物を扱っているその他の港の設備拡張には何年もかかるだろう。

ドーバー港の取扱貨物量は年間トラック約260万台分。これほど大量の貨物をチェックするとなれば膨大な時間がかかるだろう。さらには交通渋滞を引き起こし、生産活動や食品供給の遅れは広範囲に及ぶ。通勤・通学やヨーロッパへの旅行者の足にも影響が出そうだ。

EUの法的枠組みから外された多くのイギリス企業は、これまで享受してきたEUでの営業許可を失うだろう。例えばイギリスの製薬会社や化学会社はEU域内で販売できなくなる。新たに個別の交渉が必要になり、混乱による損失は避けられない。



ジョンソン前外相(中央)らの強硬派は合意なき離脱を辞さない構えだ Dan Kitwood/GETTY IMAGES

あらゆる業界を直撃する

またイギリスの航空会社はEU域内への乗り入れができなくなる。英〜EU間の路線は別途交渉するとしても、イギリスは「欧州単一空域」を外れるため、EU域内の都市を結ぶ路線からの撤退を余儀なくされる。現在パリ〜ローマ、アムステルダム〜リスボンなどの多くの路線を持つイージージェットなどは損失を被りそうだ。

サービス部門も大打撃を受けるだろう。イギリスの金融機関は、EU全域での営業を可能にしている「単一パスポート」の権利を奪われるだろう。既存契約の法的扱いがどうなるかも分からない。それが金融、デリバティブ(金融派生商品)の清算や決済に影響を及ぼす。これらの扱いは、EU内ではロンドンに特に集中している。

イングランド銀行(英中央銀行)によれば、合意なき離脱で影響を受けそうなデリバティブ取引は約38兆ドルに上る。その中には、ユーロ建て金利スワップの約90%が含まれているという。

経済的混乱でイギリス通貨ポンドは対ユーロで急落する。対ドルでも40年来の安値となり、インフレや国民の生活水準の低下を招くだろう。

そうなれば、イングランド銀行は通貨防衛とインフレ抑制のために利上げをするか、景気を刺激するために低金利を維持するかの選択を迫られる。ポンド安による急激なインフレは一時的とみて後者を選ぶかもしれないが、難しい選択だ。

不動産市場にも打撃となる。特に大幅な利上げが行われた場合の影響は大きい。利上げが回避され、資金調達コストが上昇しなかったとしても、先行き不透明感からイギリスの不動産は敬遠され、不動産価格はおそらく下落するだろう。

合意なき離脱はイギリス経済に大打撃を与える。それは間違いない。問題は景気減速の程度と回復の時期だが、早期の回復は難しいと思われる。

化学製品や医薬品などの取り扱いについては合意に至るだろうが、それでも関税は重荷になる。ホンダは部品にかかる輸入関税がイギリスで最終組み立てを行う自動車の製造原価を10%ほど押し上げると予想している。しかも、EUへ輸出すればEU側で関税がかかる。

EUからの輸入品に対する関税をゼロにすればいい、という議論もある。だがWTO(世界貿易機関)のルールに従えば、国や地域によって関税率に差をつけることは許されない。つまり、仮にイギリスがEU域内からの輸入品に対する関税をゼロにすれば、その他の国からの輸入品についても関税をゼロにしなければならない。一方でイギリスの輸出品に対する関税は残るから、イギリスの競争力が損なわれる。そんな「片務的自由貿易」は受け入れ難い。

そうなるとイギリスは(EUとの間で期限内に合意できなかった)自由貿易協定を世界中の国々と個別に結ばねばならない。ただし、そうした自由貿易協定にはサービス貿易が含まれない可能性が高い。だがイギリスの輸出額のおよそ半分はサービスであり、EU市場から締め出されれば手痛い打撃を受ける。



一方、国民の生活に最も大きな打撃を与えるのは投資の減少だ。投資協定がなければ、諸外国の企業はイギリスへの投資意欲を失うだろう。自動車やロボットなど、外国製の部品を大量に必要とする産業では特にそうだ。通貨安で人件費が相対的に下がっても、輸入時に生じるコストは相殺できない。製造コストに占める人件費の割合は下がり続けているからだ。

またインフレが進めば消費は鈍るから、企業は投資を控えるだろう。結果として生産性の向上は期待できず、従って労働者の賃金も上がらない。

合意なしの離脱は、イギリスに住むEU市民300万人の法的地位にも不確実性をもたらす。移動の自由がなくなれば大陸から働きに来る人が激減し、人手不足で経済成長が鈍る。

離脱の夢は破れる定め

EU離脱の支持派は、イギリス政界の右派にも左派にもいる。ただし支持する理由は、まるで異なる。

右派に言わせると、企業活動を縛るEUの各種規制から解放されればイギリス経済は活力を取り戻す。だがOECD(経済協力開発機構)によると、イギリスは今でも物品やサービス、労働に関する規制が最も少ない国の1つだ。それに、休暇の取得に関するEUの規定は廃止できても、今さら労働者から休暇の権利を奪うことはできない。休日を減らせば生産性が上がるという証拠もない。

一方、左派に言わせるとEUは新自由主義者の集まりで、労働者を犠牲にして資本家に奉仕する組織であり、社会民主主義的な富の再分配に反対している。しかし富の再分配というなら、EUの中核を成すドイツのほうがイギリスよりも進んでいる。公共部門の雇用も、イギリスよりフランスやスウェーデンのほうがずっと多い。

EUを離脱すれば国内の造船業界などに補助金を出し、イギリスの製造業を復活させられるという主張もある。しかし部品の輸入が高くつく状況で英国内に製造業の雇用が戻るとは思えない。サプライチェーンが寸断されれば、英国内の製造業はさらに縮小するだろう。

合意なき離脱はEUにとっても痛手だろうか。短期的な混乱を別とすれば、影響は軽微だろう。個々の加盟国の対英貿易額は全体の約8%前後だ(イギリスは対EU貿易が44%)。今までイギリスから輸入していた品物を、別のEU加盟国から調達することは難しくない。

例外はアイルランドだ。同国の経済はイギリスと密接に結び付いている。EU加盟国からの輸入品も、多くはイギリス経由で入ってくる。また合意なき離脱となれば、英領北アイルランドとの国境の管理が厳しくなる。北アイルランド紛争が再燃する恐れもある。

EUが最も打撃を受けそうなのは金融分野だ。合意なき離脱が現実になればヨーロッパの資本市場は寸断され、域内企業にとってはロンドン市場へのアクセスが困難になる。とりわけ先物やデリバティブの取引にロンドンは欠かせない。

また合意なき離脱の場合、EUとイギリスの関係が悪化するのは避けられない。イギリスは欧州防衛に関与する意欲を失うかもしれない。最も親米的な国イギリスが去ったヨーロッパの防衛に、アメリカが今までどおり本気で関与する保証もない。

合意なき離脱はEU内のパワーバランスも崩すだろう。ドイツの支配的な地位が一段と強まるのは必至であり、結果として域内でドイツに対する反発が強まる。せめて合意の上の離脱であれば、今後もイギリスが安全保障などの面で一定の影響力を行使できるが、合意なしではそれもあり得ない。

この崖っぷちから、引き返す時間はまだある。しかし引き返さなければ厳しい現実が待っている。合意なきEU離脱に勝者はいない。いるとしてもロシアくらいだ。

<本誌2018年10月16日号掲載>



[2018.10.16号掲載]
サイモン・ティルフォード (トニー・ブレア研究所チーフエコノミスト)

ニューズウィーク日本版

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