外交文書公開で証明、天安門事件「秘された事実」

12月29日(火)6時0分 JBpress

(譚 璐美:作家)

 12月23日、外務省は1989年に中国で起きた天安門事件当時の外交文書を公開した。

 天安門事件とは、1989年6月4日、天安門広場で民主化を求めた学生や市民に対して中国政府が人民解放軍を出動させて弾圧した政治事件だ。


中国が歴史から抹消している「天安門事件」

 今でも中国政府は弾圧の事実を認めず、「暴乱事件」として正当化し、「六四」「天安門事件」などの言葉はネットで検索できず、厳しい言論統制の対象になっている。事件による犠牲者は、中国政府の公式発表では死者319人とされるが、西側国の推定では、800人から1200人が犠牲になり、ハンストの後遺症で多数の人々が、未だに意識不明に陥ったままだとされる。

 今回公開された外交文書では、日本政府が事件直後から「人道的見地から容認できない。

しかし、中国を孤立化へ追いやるのは、大局的見地から得策ではない」として、西側諸国が一斉に人権侵害による経済制裁へと動く中で、日本のみが中国批判の声を上げなかったことが記録されている。

 この文書の公表により、かつて私が取材して積み上げた事実関係が、今、はっきりと裏付けられたという確証を得るに至った。


民主化運動の「黒幕」はなぜ苛立ちを隠そうともしなかったのか

 天安門事件が発生した翌年、私は海外へ亡命した民主化運動の指導者たちを追ってアメリカ、フランスへ行き、50人以上に取材して、『柴玲の見た夢—天安門の炎は消えず』(講談社、1992年)を出版した。

 その取材中にひとり、実に不可解な反応を示した亡命者がいた。学生たちの民主化運動の「陰の黒幕」として中国政府から指名手配され、北京のアメリカ大使館へ逃げ込んで1年近く立てこもり、政治交渉の末にアメリカへ出国した天体物理学者の方励之(ほうれいし)という人物だ。

 方励之がアメリカへ亡命したばかりの1991年春。名門大学・プリンストン高等研究所には、篤志家の資金援助を受けて、方励之以外にも、「民主の女神」と称えられた柴玲(さいれい)ら学生リーダー、若手知識人、著名な作家など、数十人の亡命者が滞在していたが、皆、未だ事件の衝撃から立ち直れずにいた。

 その頃、亡命者への取材合戦は火花を散らしており、なかでも「大物」と目された方励之には取材が殺到していて、世界中のメディアが均等に「持ち時間は30分」と決められた。私の前に取材したのは「ニューヨーク・タイムズ」紙だったが、彼は記者の質問に終始にこやかに対応した。

 ところが私の番になると、突然、仏頂面になり、口数少なく、ぞんざいな態度になった。取材できることを光栄に思っていた私は当惑したが、聞くべきことは聞かなければならない。私が最も気になっていたこと——中国政府に対して「懺悔書」を書いたと噂されていたことの真偽を、遠慮がちに問うと、彼は俄かに語気を強めて吐き捨てた。

「私は決してそんなものは書いていない! 中国の4つの基本原則=社会主義、プロレタリア独裁、共産党の指導、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想の堅持はみな間違っているし、中国憲法にも違反している。私は今でも以前と同じように中国政府を批判している!」

 そして最後に、「日本へのメッセージはありますか?」と質問した時、彼は烈火のごとくに怒り出した。

「日本はけしからん! 経済制裁をいち早く解除して、中国政府を援助した。日本は人権を無視している。不愉快極まりない!」

 方励之がなぜ初対面の私にこれほど不機嫌になったのか、不思議でならなかった。

 不可解な印象がぬぐい切れないまま、その後もずっと強く記憶に残った。


方励之が中国を脱出できたのは日本の「経済制裁解除」のお陰

 天安門事件から23年後の2012年4月6日——。

 方励之が亡命先のアメリカ・アリゾナ大学で逝去したというニュースが飛び込んできた。享年76。大学の講義から帰宅した直後の突然の死であったという。

 私は瞬時に取材時の不可解な印象を思い出し、各種報道を調べてみた。そして方励之の「不機嫌の理由」に思い当たった。その経緯を、私は時事通信社のコラム『複眼中国』(2012年4月10日付)に書いたが、改めてかいつまんでご紹介しよう。

『ザ・ウォール・ストリート・ジャーナル』(2012年4月10日付)によれば、89年当時、国務長官を務めたヘンリー・キッシンジャー氏が2011年に刊行した回顧録『中国論』の中に、事件直後に北京のアメリカ大使館に逃げ込んだ方励之夫妻を救出すべく、訪中したキッシンジャー氏が中国の最高指導者・鄧小平と政治交渉を行った経過が記されていた。その際、鄧小平は「アメリカ側が方励之に『懺悔書』を書くよう説得したらどうか。それで我々は彼を追放できるし、彼も望むところだろう」と述べたという。

 これを裏付けるように、方励之自身も2011年、米国の雑誌「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」のインタビューに答えて、アメリカ大使館に立てこもっていた時、「懺悔書」を書くようアメリカ人外交官から要求されたので、自分の政治的信条や将来の計画を書いたと述べ、「しかし、それはバービエージ(言葉づかいの問題)であり、(出国という)目的に叶ったのかも知れない」と、釈明した。

 無論、その文書を提出すれば、中国政府が勝手に「懺悔書」だと判断することは、彼自身もよく承知していたはずだ。

 だが、文書を提出した後も、さらに6カ月間、方励之夫妻のアメリカ大使館での立てこもり生活は続いた。鄧小平はアメリカ政府に対して、さらに2つの条件——「経済制裁の解除」と「借款の再開」——を提示したが、アメリカ政府が突っぱねたからだ。米中両国が互いに譲れない一線がここにあった。そして事態は膠着状態に陥った・・・。

 このインタビュー記事で、私が思わず目を剥いたのは、最後に方励之が語った言葉だ。

「それでも私が出国できたのは、日本のお陰です。アメリカに代わって日本が、経済制裁を解くことを中国政府に約束してくれたことで、私は出国できました」。そして、「日本政府は私たち夫婦の出国を見届けた後、約2、3週間して、世界に先駆けて対中経済制裁を解除し、国家借款を再開しました」と、言ったのだ。

 かくして方氏夫妻は米軍の軍用機で北京を脱出してイギリスへ向かい、さらにアメリカへ亡命した。

 なんと、方励之は天安門事件から22年経った後、自ら重い口を開いて、真実を証言したのである。要するに、方励之夫妻が北京を脱出できたのは、明らかに日本のお陰である。日本には感謝こそすれ、非難する理由などないはずである。だが、プリントン高等研究所で私が取材したとき、明らかに不機嫌な態度を示した。

 今、彼の心中を思ってみると、危機的状況のなかで中国から脱出するためには、理想や信念にいっとき目を瞑り、現実的な対応を受け入れざるを得なかった。だが、彼自身が感じた自己矛盾は、亡命後も内面に秘めたまま、忸怩たる思いに苛まれ続けていたのではないだろうか。そこへ日本から取材に来た私と対面した。方励之は私を介して「日本」という2文字を連想し、不安と苛立ちを覚え、混乱し葛藤したのではなかったか。日米中3カ国の政治交渉の推移は、無論、極秘事項だっただろうし、方励之も口外することを固く戒められていたはずだからだ。


中国を孤立させまいとした判断が、中国の軍事大国化を促進

 今年、外務省が公開した外交文書は、日本政府が天安門事件直後の対中方針として、中国を孤立させず、経済交流を進めて世界の仲間に引き入れることにより、中国の民主化を促進できると考えた日本政府の大方針を示している。方励之の中国脱出劇の顛末は、その政治方針に則って遂行された極秘事項のひとつであったことが、今、改めて日本側の公式記録文書からも裏付けられた。

 天安門事件後、日本政府は率先して対中経済制裁を解き、その後、世界の国々も相次いで経済制裁を解いた。だが、そのことが、中国に飛躍的な経済発展をもたらした後、21世紀の今日、中国が巨大な軍事大国と化して世界中に脅威をもたらす遠因になったのではないだろうか。

 日本もアメリカも、その他の西側諸国も、中国を見誤ったのだ。今こそ世界が足並み揃えて一丸となり、対中外交に当たらなければならない瀬戸際にある。

筆者:譚 璐美

JBpress

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