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人工頭脳(AI)時代に人間翻訳は生き残れるか?:第二回 揚雲雀なのりいで

財経新聞2月17日(金)19時32分
 さて、進化するAIを人間翻訳がどう迎え撃つか、という話。だが、これは本稿のエピローグに披瀝したい要点で、落語なら「落ち」のところだから、しばらく脇に置かせていただく。逸る筆ならぬキーボードを抑えて、筆者がこのコラムを書くきっかけになった「事件」、つまり前回ご披露したAI囲碁AlphaGoの猛威について、翻訳との接点を抑えながら、もう一くさりお話しさせていだたく。
 お断りするが、筆者は技術屋ではなく、AI囲碁の技術的な話はまったくのhearsayで、そこそこ素人五段のざる碁打ちには、生活の懸かったプロの碁打ちの「勝負」への思いには遠く及ばず、所詮は岡目が目算の域を出ない。だが、こと翻訳となれば和英両刀使いで数十年、言葉の扱いでは緑青も生えようという経験がある。右から左へ、言葉というメディアを介して二つの文化を行き来する楽しみは、翻訳でこそ味わえるもので、傘寿を過ぎて未だ踊り忘れぬスズメの境地だ。それがここに来てAlphaGoが登場、その背後に潜むAI人工頭脳なる奇っ怪な存在が「風車」にも見えて、ドンキホーテさながらに心穏やかならぬ思いがしきりなのだ。
 それには、それなりのわけがあるのだ。なまじへぼ碁を打つがゆえの杞憂とはいえ、人ごとだと済ませる話ではないのだ。それというのも、囲碁には創造性、洞察力、恣意性など、生半可なデータ処理能力では対応できない要素があり、そんな囲碁をコンピューターがしのぐには十年はかかる、と、ついこの前まで専門家たちが胸を張っていたのだから。deep-learningなる技術を駆使して学習能力を備えたAIは、データ処理能力のための「脳みそ」ばかりか、ついに人間並みの「心」を持つようになったのだろうか?
 ご想像いただきたい。ある囲碁の一局、いま難所に差し掛かっている。一方が苦吟二時間、絶妙なしのぎの一手を打つ。一息ついて茶を飲む。相手はこの手を予想していなかったか、髪かきむしって次の手を読み耽り、これも一時間余の試行錯誤を経て、これも妙手で応じる、などという場面は、人間同士の対局を描く囲碁観戦記の見せ場だ。だがその相手が、苦吟二時間の妙手に間髪を入れずにさらっと、これも妙着を打ち返したら、一方は咄嗟に動揺するだろう。これが数手も連続したら、下手をすると碁にならなくなるかも知れない。あの日のAlphaGoは、そんな「碁打ち」だった。
 動揺からか、それとも戸惑ってか、イ・セドル九段が明らかに乱れる姿に、筆者は人間が器械に振り回され、圧倒される現実を目の当たりに見た。PCが人知に追いつくsingularityの世界が二十八年後とか、ホーキンス博士曰く「PCは百年で人間を凌駕する」とか。上気する碁打ちを凝視しながら、筆者の眼には何年か先の自分の姿が重なるかに見えた。自分が専門とする言葉の世界はどうなるか、人間翻訳も囲碁と同じ運命を辿るのか。
 囲碁と翻訳にはえも言われぬ相似点がある。囲碁の定石や手筋は翻訳の語彙や慣用句、捨て石などは倒置構文など、大局観は文体の選択から語調の統一と、両者には取り組む姿勢に共通な要素が多い。片や勝負で極まりがつき、一方は品質の良し悪しで巧拙が定まる。どちらもデータの多寡は必要条件ではあれ絶対条件ではない。名人と並みの碁打ちを隔てる厚い壁は、ずばり閃きのあるなしだろうし、それをAIが備えているとは思えなかった。とすれば、常識的にはAIに勝ち目はない。そのはずだったのである。
 しかし、現実にはAIに凱歌が上がった。溢れるデータと分析能力ばかりではなく、どうやら「閃き」さえも搭載してきたとしか思えない流れだった。何千万局の古今の名局を記憶、いやデータ化し尽くしながら古今の名手たちの「閃き」までも取り込んできたのか。人工知能が何か人間に近い「思考力」を身につけたかの気配だ。囲碁での読み、閃き、応用力などを会得したAIは、弁証法的にはいまや翻訳の世界でも人間を凌駕しそうな気配なのだが、はたして如何。
 さて、AI時代の到来はまさに時の話題のようだ。この問題の波紋は各界に及んでおり、来月にも某新聞社の企画で将棋界の第一人者、羽生善治九段が「AI時代の先を読む」というテーマで講演するという。深層心理学やAI技術開発の専門家らとパネルを組んでのタイムリーな企画だ。2月には鎌倉市の女子高校生が「AIと人間の未来」とテーマで、他校にも声を掛けて「AI倫理会議」なる催しを開いている。いまや、AI問題は社会化していると言っていい。
 AI人工頭脳をめぐる状況を探りながら、筆者は翻訳家としての首を自ら絞めに掛かっているかのような錯覚に慄然とする。しかし、そう書きながらも筆者は、The lark’s on the wing を「揚雲雀なのりいで」とした上田敏の語感を、AIは到底備えられまいと窃かに思っている。次回は、いよいよ人間翻訳の現場に立ち入って、AI人工頭脳による新たな次元の産業革命の波を追ってみたい。(続)

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