変革の軌跡~NECが歩んだ125年 第15回 ケータイとBIGLOBE、黎明期から世界最先端まで駆け抜けた「皆が知るNEC」
2025年2月25日(火)12時0分 マイナビニュース
「折りたたみ」と言えばNECだった90年代ケータイ事情
携帯電話事業も、NECの成長を支え、NECブランドを一般に広げるために大きな役割を果たした事業であった。
日本における携帯電話の歴史は、1970年の大阪万博での試行実験が始まりと言われる。その後、全国をカバーできる800MHz帯を用いた自動車電話が実用化。1979年には東京23区内において、800MHz帯を用いた自動車電話が世界初の商用システムとして運用を開始。1982年には、大幅に小型、軽量化したTZ-802が開発され、1987年のNTTによる携帯電話サービスの開始にあわせてTZ-802Bが製品化された。
そして、NTTは、1991年4月に、初代アナログ携帯電話のTZ-804を開発。NECもこの開発に参加し、同製品に初めて「ムーバ(mova) N」の型番がつけられ、レンタル方式で販売された。型番の末尾の「N」は、NECが開発したことを示すもので、この一文字が、携帯電話の普及とともに、NECブランドをコンシューマに広げることに貢献した。
NECは、1993年に第2世代デジタル方式サービス(PDC)が開始されたのにあわせて、デジタル携帯電話「デジタル・ムーバN」をNTTドコモ向けに供給。その後はほぼ半年ごとに新機種を投入していった。当時は、メーカーからの販売はできず、通信キャリアを通じたレンタル販売であったが、1994年4月には、端末機が自由化され、携帯電話の売り切り制がスタート。NECは、それにあわせて、自社ブランドの携帯電話「Juwacky」も発売した。
1999年2月、NTTドコモは、携帯電話からインターネット接続ができる新サービス「iモード」を開始した。これによって、日本の携帯電話は、持ち運べる電話という役割に留まらず、情報収集やメールの送受信、カメラ機能、コンテンツの購入や決済などに使える情報端末へと進化した。
サービス開始から1カ月後となる1999年3月、NECでは、「デジタル・ムーバN501i HYPER」を発表。iモードへの対応を図った端末として高い人気を博した。
このとき、NECの携帯電話の特徴は、折りたためる形状を唯一採用していたことだ。デジタル・ムーバは、NECのN型番以外に、P(パナソニック)、D(三菱電機)、F(富士通)があったが、各社が発売していたのはストレートタイプの携帯電話。これらに比べると、折りたたみ型は小型化や軽量化では不利ではあったものの、大画面化にメリットがあり、これがiモードの登場によって、表示部の高い視認性と、使い勝手がいいキーボタンによる操作性の高さが改めて評価されることになり、ベストセラー製品となった。
デジタル・ムーバN501i HYPERでは、iモード対応電話機では最大となる10文字×10行の漢字表示が可能であり、文字の大きさを2段階に切り替えられるマルチフォント機能、音声によって電話帳を呼び出したり、メールの定型文を呼び出したりする機能を搭載。またに、iモードに適した端末となっていた。
iモードの契約者数は初年度から一気に増え、携帯電話の普及にはさらに弾みがつき、NECの携帯電話の販売も好調に推移していった。
2001年になると、NTTドコモは、FOMAの名称で3Gサービスを新たに開始した。
NECは2001年5月に行われたモニター試験に合わせて3Gサービスに対応した携帯電話端末を「FOMA N2001」として提供。同年10月の正式サービスの開始時には、同製品が初代FOMA端末として発売された。
世界最先端のiモードと携帯端末、世界進出でのつまづき
長年に渡り、日本の通信インフラを手がけてきたNECは、携帯電話の登場以前から、ポケベルや自動車電話などの事業で日本の通信規格に長く深く関わり、移動体通信分野においても先行。このとき、携帯電話端末だけでなく、携帯電話サービスを支えるインフラ設備においても主要プレイヤーとしてのポジションを確保していた点も特徴だった。
順調に成長を遂げていったNECの携帯電話端末事業は、2000年代前半に最盛期を迎えた。2001年の国内市場シェアは25%を超え、国内ではシェアナンバーワンを獲得。営業利益は毎年のように数100億円規模を生み出す事業となり、NECの花形事業のひとつに位置づけられていた。その勢いは海外進出にも及んだ。
NECは、2000年代前半、国内での携帯電話端末事業の成功を背景に、グローバル展開に踏み出した。NTTドコモがiモードによる海外進出を推進することを決定。NECをはじめとした国内携帯電話端末メーカー各社にとっても、海外進出は大きなビジネスチャンスになると捉えられたのだ。
当時、iモードの技術とサービスは世界最先端とされ、コンテンツプロバイダを巻き込むビジネスモデルは、オープンイノベーションの成功事例といわれていた。NTTドコモは、このビジネスモデルを海外に展開し、世界中にモバイルインターネットを普及させる目標を掲げ、それに向けて、1999年から2000年にかけて、オランダのKPNモバイル、英国のハチソン3GUK、米国のAT&Tワイヤレスなどの通信キャリアに相次いで出資。こうした動きにあわせて、NECも海外向け端末の開発および販売を本格化していった。
だが、ビジネスを成功させるためのハードルは想定以上に高かった。
2Gが広く定着していた欧米の通信キャリア各社は、3Gへの投資には慎重であり、NECが欧米市場に進出するには、2Gへの対応が必須となった。だが、問題は技術的なハードルであった。2Gの場合、日本はPDC方式であったのに対して、欧米などではGSM方式が標準となっており、NECが欧米市場に参入するには、GSM方式に対応した2Gと、最新の3Gに対応したデュアルモデルの開発を余儀なくされたのである。GSM方式は欧州主導で策定された規格であり、NECはその対応に苦慮。国内とは異なる方式の製品を、市場に受け入れられるスピードで開発することができなかった。これが欧米市場参入の失敗につながった。
また、中国市場でもつまずいた。NECは、中国市場では、3Gへの移行が進むとの予測に基づいて、3G対応端末で現地市場の攻略を考えていたが、予想したスピードでは移行が進まなかった。加えて、高付加価値製品で勝負する戦略を選んだことが裏目に出た。さらに、日本ではNTTドコモに納品した製品が全国のショップで販売されるという仕組みであったのに対して、中国市場では自ら販路を開拓する必要があり、この分野で実績がないNECは苦戦。さらに、政策情報の収集の遅れや、政府関係者とのコミュニケーションなどが十分に取れなかったため、製品戦略が後手にまわったこともマイナスになった。
NTTドコモでは、海外展開に苦戦した結果、2007年度には1兆円の特別損失を計上。海外市場からの撤退を決定した。
NECも、2004年から2006年にかけて、携帯電話機事業で約1000億円の損失を計上。iモード対応端末の海外展開を断念し、日本市場にビジネスを回帰する決断をせざるを得なかった。
NECの120年史では、「ひとことでいえば、海外で事業を行う上でのグランドデザインが十分に描けていなかった」と、失敗の原因を厳しく指摘している。
iPhoneとAndroidの衝撃、構造改革の遅れが足枷に
海外事業の失敗の傷が残るなか、携帯電話の世界では、大きな地殻変動をもたらす製品が登場した。それが、2007年に発売されたアップルのiPhoneである。日本では、3G対応のiPhone 3Gが、2008年にソフトバンクモバイルから発売された。さらに、Googleが2005年に買収したAndroidを活用した端末が、2008年から、韓国、台湾、中国などのメーカーによって発売され、時代の流れはフィーチャーフォンからスマートフォンへと移行していった。
開発に乗り遅れた日本の携帯電話端末メーカーは。軒並み苦境に立たされた。それはNECも同じだった。魅力的なスマートフォンを提供することができず、シェアを大きく落としたのだ。
起死回生を狙って、NECは、2009年12月に、携帯電話端末事業を担当していたモバイルターミナル事業本部を分社化し、NECカシオモバイルコミュニケーションズを設立。さらに、2010年にはカシオ計算機と日立製作所が設立したカシオ日立モバイルコミュニケーションズを吸収合併した。
だが、2010年度の年間販売実績は440万台。2008年度には、NEC、カシオ、日立の3社合計で年間890万台の販売実績であったことと比較すると、統合後の販売規模は半減。その後も設立当初に期待したお互いの強みを生かす体制は実現することができず、巻き返しはならなかった。
このとき、携帯電話端末事業において、もうひとつの誤算があった。
それは海外市場への再挑戦であった。
スマホ市場では、独自路線のiPhoneと、オープン路線のAndroidが対抗する構図となっており、スマホ市場で成功を収めるためには、Androidを提供するGoogleと、スマホ向けのチップを供給するクアルコムから、先行して技術情報を入手したり、調達力で優位に立ったりする必要があった。そのためには、NECの携帯電話端末事業をグローバル市場に展開し、規模を手にすることが欠かせない要件であると判断したのだ。
実際、NECカシオモバイルコミュニケーションズがスタートした時点では、2012年度に年間1200万台という目標を打ち出していた。その意欲的な目標からも、規模を追求するビジネスモデルを確立しようとしていたことがわかる。
そのため2011年には、スマホでグローバル市場に進出。2010年に約90万台だった海外での販売数量を、2012年までに500万台に拡大する計画を発表した。
だが、スマホ市場への参入が遅れ、海外市場向けに競争力がある製品を開発できず、この計画はまたたくまに頓挫してしまった。
さらに、2009年にNECカシオモバイルコミュニケーションズを設立して以降、本格的な構造改革には未着手の状態が続き、連結で2200人という従業員数は、2011年度になっても、設立当初と変わらないままだった。構造改革の遅れも大きな課題となっていたのだ。
その頃、NECの遠藤信博社長(当時)は、「市場に対する見込み違いに加えて、製品力のなさが見えた」と反省。そこに構造改革の遅れも重くのしかかった。
海外での事業の低迷、国内でのNTTドコモ向け製品の販売数の伸び悩みが重なり、NECの携帯電話端末事業は、2011年、2012年と連続して大幅な赤字を計上。2013年までの3年間で1000億円規模の赤字が見込まれるほどだった。
こうした状況を受けて、NECは抜本的な事業再編を図るために、2013年7月、スマホの開発を断念することを発表。その一方で、日立製作所およびカシオ計算機が保有する全株式を買い取って完全子会社化。社名をNECモバイルコミュニケーションズに改称して、フィーチャーフォンの生産を続けていたが、それから約3年後の2016年3月に、「独立会社として運営するには非効率な事業規模となった」として同社を解散。携帯電話端末事業から完全撤退した。かつてトップシェアを維持していたNECの携帯電話事業は、最終的には売却先さえも得られないままで、市場から撤退せざるを得なかった。
NECは、2011年のパソコン事業の売却、2014年のインターネットサービスであるBIGLOBEの売却、そして、2016年の携帯電話事業の終了により、コンシューマ向け事業を完全に整理することになったのだ。
PC-9800とPC-VAM、Windows 95とBIGLOBE、ネット時代の爆発的な成長
コンシューマ向け事業の一角を占めていたインターネットサービスのBIGLOBEは、1986年4月にサービスを開始したパソコン通信サービス「PC-VAN」を母体として、1993年からインターネット接続サービスとしてスタート。さらに、1996年7月から、インターネット上で、各種サービスを提供するインターネットサービスプロバイダーとし、運用を開始したのが始まりだ。
前身となったPC-VANは、電子メールや電子掲示板、チャット、フォーラムなどが利用できるサービスで、PC-9800シリーズのユーザーを中心に、1992年には会員数が50万人を突破。富士通が提供するNIFTY-Serveなどとともに、日本を代表するパソコン通信サービスのひとつに位置づけられた。
だが、サービス加入者だけの閉じられたネットワークサービスであったパソコン通信に対して、複数のネットワークを相互接続するインターネットが、Windows 95の発売をきっかけに普及しはじめたことで、大きな変化が訪れた。NECは、PC-VANに加えて、インターネットサービスプロバイダー事業として、1995年に「mesh(メッシュ)」をスタート。同年には、インターネット上で様々なコンテンツを提供するポータルサイト「The Cyber Plaza」をオープンした。そして、これらを統合する形で、総合インターネットサービス「BIGLOBE」を誕生させたのだ。
BIGLOBEはインターネットの爆発的な普及の波に乗って、2002年9月末時点で、1000万人超の会員を獲得。2002年末時点で日本のインターネット人口が7000万人弱だったことを考えると、BIGLOBEのシェアの高さがわかる。
BIGLOBE事業の立ち上げでは、PC-VANでの反省が生かされている。PC-VANは、NECのパソコン事業の付帯的なサービスとしか考えられておらず、アクセスポイントなどのインフラ整備が遅れつつあった。その結果、国内最大規模のシェアを誇ったPC-9800シリーズのユーザーが加入したものの、つなごうとしても、つながらないためにサービスを利用しない休眠会員を多く抱えるという課題が発生していたのである。そこで、BIGLOBEでは、アクセスポイントの整備を推進。快適にアクセスできるネットワーク基盤を強化しながら、積極的なプロモーション活動を展開して、会員数を劇的に増やすことに成功した。国内屈指の会員数は大きな収益源となり、その後の事業成長を支える資産となった。
そして、BIGLOBEは、ISP事業に加えて、プラットフォームサービス事業、ブロードバンドメディア事業を3本柱として、のちにEC(電子商取引)や、クラウド、デジタルマーケティングなどに通じる時代を先取りしたイノベーションにも挑戦していった。
また、BIGLOBEは、前身となるThe Cyber Plazaがスタートした時点から、「広く企業や個人を対象に、情報の発信、提供、交換、流通、販売などを実現する仮想電子広場」と位置づけており、情報を核としたBtoC、BtoB、さらにはBtoBtoCに向けたビジネスを指向する基盤として事業を推進。BIGLOBE法人会員サービスは、一般企業に対して、ビジネスを支えるITプラットフォームとしても提供され、ハウジングやホスティング、Eメール、ECショップ、中小企業向けウェブサイトの構築、顧客管理など、多様なサービスを提供し、オープンイノベーションやプラットフォームビジネスの先駆的な実践例となっていた。
巨大プラットフォーマーの出現、姿を変えるしかなかったBIGLOBE
NECは、1999年、「インターネット・ソリューション・プロバイダー」を目指すという目標を掲げ、事業全体を牽引するドライビングフォースとして、BIGLOBEを位置づけた。
だが、その一方で、グローバルで拡大するインターネットの世界では、GoogleやYahoo!、Amazon.comといった巨大プラットフォーマーの出現により、大きな転換が始まろうとしていた。BIGLOBEをはじめとするISP事業を中心にインターネット事業を進めてきたプレイヤーは、コンテンツやサービスを提供する領域において急速に存在感を低下させていったのだ。
インターネットの波は、こんな形でも影響を及ぼした。もともとBIGLOBEは、ダイヤルアップ接続による従量課金を中心とした収益モデルであった。だが、ADSLの普及による常時接続や、スマホによるネット接続の増加によって、BIGLOBEのビジネスモデルの見直しが迫られていたが、この変革に遅れをとった。
インターネットの爆発的な普及の波に乗って成長を遂げたBIGLOBEであったものの、速い変化には追随できず、インターネットの大波に飲み込まれてしまったともいえる。
さらに、パソコン事業の収益低下、携帯電話事業の不振も影響。NECがビジネス向けSIや通信キャリア向け事業を中心に、事業全体の再編を進める方向に舵を切ったことで、ドライビングフォースとされていたBIGLOBEの位置づけも、わずか数年で変わらざるを得なくなってしまった。
事業を取り巻く環境が激しく変化しているにも関わらず、BIGLOBEはビジネスモデルを抜本的に転換させることができないままだったのである。
NECは、こうした状況を打破するため、2006年に、BIGLOBE事業本部を分離および独立させ、住友商事や三井住友銀行、大和証券、電通、博報堂の資本を受け入れ、NECビッグローブを設立。再スタートを切った。さらに、2013年には、NECが「2015中期経営計画」を発表し、社会ソリューション事業に注力する方針を明確に打ち出したことを受けて、BtoC事業であったNECビッグローブを、2014年に、投資ファンドである日本産業パートナーズに売却し、ビッグローブに社名を変更。さらに、2017年にはKDDIの完全子会社となり、現在に至っている。
NECは、コンシューマブランドとしても高い評価を得ていた企業ではあったが、市場変化の波をうまく掴むことができなかった。その結果、パソコン事業、携帯電話事業、インターネットプロバイダー事業から相次いで撤退。BtoC事業からは完全に退場することになってしまったのだ。