ニューヨークの街は喧騒でできている

6月30日(火)22時0分 GIZMODO


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Illustration: Angelica Alzona
新しい生活が始まりました。
いまだ世界で猛威を振るう新型コロナウイルスですが、感染拡大が収まりつつある地域では徐々に規制が緩和されています。たくさんの死者を出し、その様子が日本のニュースでも多く流れたニューヨークも、コロナ前の生活に戻りつつある今日この頃。でも、すぐに前のように戻るのは無理です。ニューヨーク在住の米GizmodoのWhitney Kimball記者が、今の様子、気持ちを語ってくれました。
6時に仕事を終えてログアウトすると、すぐに窓際に行き、時計を気にする。ロックダウン中のニューヨークの音、鳥のさえずりや遠くで聞こえるトラックの音を聞き、外の様子を伺いながらその時を待つ。午後7時、一斉に街中が大きな歓声に包まれる。静寂を破り、一瞬にして街が復活したかのような大きな音がする。テラスに出て、窓から顔を出して、鍋やフライパンを叩いたり、大声で叫んだり。午後7時の大歓声は、ニューヨークの医療従事者に感謝の気持ちを伝える時間だ。
もちろん私も叫ぶ。夕暮れの空に首を突き出して叫ぶ。ここ数ヶ月毎日やっているので、すっかり習慣化してしまっている。
ちなみに、午後7時から歓声があがるが、何時までとは決まっていない。なので、私は声をあげながら、隣人の同じく声をあげている誰かと目があったら終わりと決めている。その瞬間いつも思うのは、医療従事者の特定の誰かに向けて声をあげているわけじゃないよな、ということ。一番近い病院も1.5マイル(約2.4キロ)先だし、感謝の意を伝えるにしてももっといい方法は他にあるだろうと。それでも、隣人みんなが大きな声で叫ぶのは、きっと自分たちのためなのではないかと思う。
ニューヨーカーは、静寂に耐えられない。
ニューヨークの街を作る要素のひとつ、喧騒が消えてしまった。若者が葉っぱを吸って笑い合う声も、電車のアナウンスも。タクシーのクラクションは、時に聞こえる救急車のサイレンに置き換わり、ヘッドセットをつけて早歩きで人混みをかき分けていた人々は、買い物袋を抱えて力なく歩いている。なんだか寂しい。
初めてニューヨークに来た時、五感すべてが攻撃されているような気がした。ロードアイランド州の半分眠ったような街から、当時の彼女と一緒にニューヨークに引っ越してきたのが9年前。新しいアパートは、特に人通りの多いロウワー・イースト・サイド。多少のことならなんとかなると思っていたのは、ニューヨークを甘く見ていたからか。
毎朝4時には、ニューヨークは爆音をあげる。引越してしばらくして、工事がはじまった。初日に、驚いた彼女がパジャマのまま道に飛び出して何か抗議していたが、結局耳栓をつけて部屋に戻ってきた。うちはまだマシな方で、例えばブルックリン橋の近くに住む人は、もう何年も早朝から工事の音を聞いている。
ただ、人間は何にでも慣れるようで、一年も経つ頃には街の音が気にならなくなった。むしろ、好きになった。彼女とモンタナの国立公園にキャンプ旅行にいったのがきっかけで、自分の変化に気づいた。飛行機を降り、小さな空港を出ると、そこはすでに静かな世界。空港にはタクシーがいると思い込んでいたのが間違いで、通りかかったトラックの運転手さんに国立公園までおくってもらうというイレギュラーなところから旅はスタート。車中、運転手さんが、今月すでに観光客がふたり、熊に殺されているという話を聞いた。これまた事前に調べていない自分たちが悪いのだが、私たちのキャンプ日程はまさにモンタナのクマ出没期間とドンピシャだった。
国立公園に着くと、パークレンジャーから熊に出会ってしまった時の講習を受けた。ビデオを見て、対策(手を叩き、大声をあげる)を練習。結局、国立公園で二泊したけれど、その間ずっと熊に怯え、大声をあげ手が痛くなるまで叩き続けただけだった。夜中にトイレで外に出たら殺られる気がして、とにかくおしっこを我慢してた思い出しかない。そんなこんなでニューヨークに戻って、ペン駅の喧騒に包まれたとたん、街の音を気にしなくなっていることに気づいた。
モンタナの国立公園で大声を出すのには、熊に食べられないためという理由がある。ニューヨークでは、押されないため、引かれないため、痴漢にあわないため、強盗にあわないため、線路に落ちないためと、また理由がある。大声張り上げない人はスリ、声をあげる人は「財布おとしたよ」と教えてくれる人。声を出さない酔っ払いは吐く寸前、声をあげる酔っ払いはまだ警戒できる。ニューヨークの地下鉄ホームの平均騒音レベルは86デシベル。ゴミのディスポーザーと同じレベルだ。大声だけど「すみません」「ここ座ってください」「大丈夫ですか?」は、よく聞こえてくる地下鉄の音の一部だ。
時が経つにつれ、ニューヨーカーが共存する音が好きになってきた。例えば、私が利用する地下鉄の駅はFトレインとMトレインが異なるフロアで交差する。乗客は、上のホームか下のホームか、どちらのホームにいれば次くる電車に早く乗れるかを考えねばならないのだが、これも共存の音に助けられることがある。どちらかのホームで賭けにでるよりも、人の動きや音を聞けばどちらのホームに電車が来るかわかる。まるで「電車がきたぞ! こっちだこっちだ!」と呼ばれているような音だ。
喧騒こそニューヨーク、大声はりあげてこそニューヨーカー。露店で何か買うにしろ、バーでドリンクを注文するにしろ、街自体がそもそも大声をあげねばならない仕組みになっている。お腹が空けばサンドイッチの名前を叫び、違う店で飲みなおそうと思えば声を張り上げて友人を呼ぶ。道路に倒れている人がいれば、とにかくまず大声を出す。そして、なにより権利を訴えるとき、感謝の意を伝えるとき、人は大きな声を出す。
これを書き始めたときは、活気が戻ってきた街で、例えばバイクの集団やトラックのクラクションが聞こえたら、懐かしくて嬉しくなるなと思っていたが、なんのことはない。ここ数週間、私が懐かしんだ喧騒よりもっともっと大きなボリュームで、変化を求める抗議が街中で声をあげているのだから。

GIZMODO

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