変革の軌跡~NECが歩んだ125年 第4回 戦後の「平和と家電」の時代、ラジオからテレビ、そして半導体へ

2024年11月12日(火)12時0分 マイナビニュース


戦後にNECが取り組んだ平和産業の象徴が、民生機器の開発、生産である。その分野で先行した取り組みがラジオだ。
時代をつくった日本電気「ホームエレクトロニクス」
同社が最初に着手したのは、ラジオ用受信管(真空管)の生産であり、滋賀県内に拠点を持つ大津製造所が、その役割を担った。NECではラジオ用受信管の製造を、太平洋戦争前の1935年から開始しており、真空管製造技術の蓄積を生かして量産を行い、好調な売れ行きをみせていた。
さらに、戦時中は軍によって規制されていた短波放送の受信が解禁したことを受けて、NECでは、全波を受信できるオールウェーブラジオを開発。民需製品向けの新たなロゴマークも用意して販売を開始したところ、2年足らずで約1000台を販売するという実績を得たという。
だが、出足がよかったオールウェーブラジオとはいえ、各社の参入が激しい分野であり、民生機器の販売に不慣れなNECにとっては芳しい営業成績をあげることができなかった。1949年の企業再建整備のなかでオールウェーブラジオの生産を中止。この事業に関わっていた技術者たちは,民放関連機器の技術部門へと異動していった。同時に、ラジオ事業は、放送事業者を対象にしたビジネスを主軸とし、その後は、ラジオだけでなく、テレビも含めた放送業界に向けに展開することで、放送局における番組制作や中継、送出や送信までをトータルにカバーする事業へと発展させた。
大津製造所は、ラジオ用受信管の好調な販売を発端にラジオ事業を拡大させ、ラジオ事業部へと改称。独立採算制をいち早く採用した。また、同ラジオ事業部は、1953年6月1日に、新日本電気として独立し、家電ブームの到来をビジネスチャンスに捉えて、さらに事業を拡大していくことになる。1983年7月には、日本電気ホームエレクトロニクスに改称。「NECホームエレ」や、「NEC HE」といった呼ばれ方をしていた。
新日本電気では、自社開発のテレビやカセットテープレコーダー、ビデオレコーダー、コンポーネントステレオ、照明器具などのほか、洗濯機、冷蔵庫、掃除機、クーラーといった白物家電も扱い、1970年代には年間50機種以上の家電製品を投入していた。ユニークなところでは、1987年にハドソンとの共同開発で、ゲーム専用機「PCエンジン」を開発し、発売している。
テレビには、とくに力を注いでいた。もともとNECでは、戦前の1937年からテレビ受像機の研究を開始し、1939年にはテレビ受像機の試作に成功。1940年には、大阪の阪急百貨店で開催された「世紀の科学展」でNE式テレビジョン装置として出品し、公開実験を行うなど、長年取り組んできた経緯がある。
新日本電気は、1968年に、カラーテレビ第1号となる「オートカラー太陽」を発売。1970年には、日本で初めて10万円を切るカラーテレビを投入。さらに、電子チューナーとセンサー選局機構を組み合わせた日本初の電子選局カラーテレビを1973年に発売したり、2画面表示が可能な複合テレビを発売したりといった差別化製品を相次いで投入していった。1977年には、「パピプペポン」の愛称で、14形から22形までの製品をいち早くフルラインアップするなど、業界の先陣を切った取り組みを進めてきた家電メーカーであった。
なお、日本電気ホームエレクトロニクスは、2000年に事業活動を終了した。
「扇風機」と「録音機」が日本に普及したきっかけ
話は戦前に戻るが、NECは、扇風機を日本に普及させるきっかけを作った会社でもある。
日本に電気扇風機が初めて輸入されたのは1893年であり、1894年には、芝浦製作所(東芝)が日本初の電気扇風機を製品化している。
NECは、1902年に、WEの電気扇風機の輸入販売を開始。これに、「電気うちわ」という製品名をつけて販売した。
このころは、家庭への配電は夜間だけであり、電気料金も高価であったため、購入者は富裕層や外国人、商社、高級レストランなどに限定され、NECの「電気うちわ」の新聞広告は話題を集めたものの、数多く売れるものではなかった。
だが、1914年から、都市における家庭への電力供給が広がり、電気料金が下がり始めると、「電気うちわ」は流行の寵児となり、その結果、NECが日本に扇風機を普及させるきっかけをつくることになったのだ。
実は、「電気うちわ」の販売が増加した当時のNECは、これ以外にもWE製などの家電製品を幅広く輸入し、家電事業を拡大しようとしていた。
PR誌である「日本電気月報」によると、トースターやオーブン、電気洗濯機、電気掃除機、電気アイロン、ルームクーラーなどを輸入販売していたことがわかる。
NECは、電話機や交換機の供給会社であるとともに、「家庭電化のフロンフィア」ともいえる存在だったのだ。
NECは、戦前から磁気録音機を開発し、実用化していた実績も持つ。
当初はワイヤー方式で開発していたが、世界の録音機がテープ式へと移行するなかで、NECは、1949年頃までにワイヤー式磁気録音機の開発を打ち切り、安立電気が所有していた東北大学・永井健三教授の発明による「交流をバイヤスとする磁気録音法」の特許実施権を取得し、東京通信工業(ソニー)と共同管理。1949年から、この特許を使用したテープ式磁気録音装置を開発、生産していった。
開発した製品は、「トーキー・ボックス(Talkie-Box)」と呼ばれ、逆転、停止、再生、録音の動作を、ひとつの切替器で操作できる設計を採用。取り扱いの誤りを防ぐことができ、人間工学的にも工夫された仕様となっていた。とくに、他社製品で問題となっていたブレーキに、NEC独自の特許技術を採用したことで、テープの停止動作が確実となり、テープが切れたり、緩んだりするといった課題を解消し、安心して利用できる機器としての評価を高めることにつながった。
また、民間放送の開始とともに、NECでは、高度の録音性能が必要とされるアナウンスマシンの開発にも着手。用途の性質上、音質はもちろんのこと、取扱機構などの面からも最高級の磁気録音機であることが要求されたが、NECのアナウンスマシンは、こうした厳しい要求を満たす製品として放送局から歓迎されたという。
戦後すぐの「事業部制」導入、半導体開発にまい進
戦後のNECにおいて注目すべき動きのひとつが、1956年に導入した工業部制である。製品分野別に工業部を設け、分権型の事業体制を敷いた。この取り組みは、1961年の事業部制の導入につながることになる。
当初は、電電公社からの受注を中心とした「有線工業部」および「伝送工業部」のほか、マイクロ波通信網の建設などが中心となる「無線工業部」、民需に関連する事業を担う「電子管工業部」および「特品工業部」を設置。1957年には、革新的な電子計算機などを開発するために「電子機器工業部」を新設した。これらの体制により、従来からの通信事業の領域に加えて、エレクトロニクスという新たな事業領域にも踏み出す企業へと進化していったのだ。
新設した工業部のなかでも、特品工業部は、「民需商品への進出」という新たな目標を掲げ、家庭用電子機器分野を担当。主力製品として、NEC製のトランジスタラジオを開発した。
1957年に発売したトランジスタ式ポータブルラジオ「NT-6B」および「NT-7P」は好評を博したという。特品工業部は、1958年に商品事業部へと名称を変更。テープレコーダーやインターホンにも本格的に乗り出し、1959年には全社売上高の23%を占める規模にまで成長した。
その一方で、電子管工業部では、半導体開発を強化。だが、ゲルマニウムを材料とする半導体では他社が先行していたことから、「NECのトランジスタは、シリコン素子に重点を置く」(のちに社長を務める小林宏治氏)との基本方針を打ち出し、RCAやGEとの協定を通じてこれら分野の先進技術を導入。1958年には、玉川事業所に日本初のトランジスタ専門工場を建設し、大きな注目を集めた。
NECは、1947年にトランジスタの技術が発明された時点から、着目していたものの、当時の経営状況から、「経費なし」という条件付きで研究を開始した経緯がある。1950年には、技師長だった小林正次氏が海外視察にでかけ、ベル研究所でトランジスタのサンプルを入手し、これをもとに研究を加速。1951年には、NEC初となるゲルマニウム点接触型トランジスタを完成させていた。
だが、この時期に、NECが優先していたのは、ダイオードであった。電電公社(NTT)が力を入れていたマイクロ波通信の開発で、ミキシングダイオードが必要とされ、その分野はNECが独占する状態になっていたからだ。しかし、その一方で、トランジスタの需要は急拡大しており、社内にも焦りが出始めていた。経営陣は、ダイオードにとらわれすぎ、トランジスタへの進出が遅れたとの反省に基づいて、積極的な投資を決定。1956年に半導体開発部を設置し、半導体の開発とともに、半導体製造技術の開発にも取り組んでいった。
NECは、民生用として主流だったゲルマニウムではなく、シリコンを素材とした半導体開発に重点を置くという判断は、NECが半導体業界において優位性を築く基礎となった。
シリコントランジスタは、高周波や高出力、高信頼度化が進むにつれ、通信機器に広く浸透。また、量産効果によって価格が大幅に低下したことで、1968年頃からは、カラーテレビや音響機器の半導体化が加速した。シリコントランジスタは、こうした市場の要請に応える形で、より低コストが可能な樹脂モールドによる量産化へと発展していったのだ。
そして「通信とエレクトロニクス」のNECへ
シリコントランジスタは、民生用においても主流となり、NECの半導体事業の売上高は、1964年度の60億円から、1971年度には170億円に、1977年度には430億円へと拡大。さらに、工業用と民生用の比率は、同年には4対6と民生用が過半を占める形に逆転した。
NECの半導体事業の特徴は、民需用の半導体製品と、通信用および工業用のB2B向け半導体製品を区別し、しかも重点領域をB2Bに置いていた点だ。他社が一般民需用の半導体製品に重点を置き、それをもとに産業用に展開するのとは大きく一線を画していた。
もうひとつのポイントは、IC(集積回路)化が進むにつれて、デバイスからシステムにいたるまで広範な専門知識を持つNECの特徴を生かすことができたという点だ。それが、NECを国内トップメーカーの地位に引き上げることにつながっている。
なお、半導体事業を推進していた電子管工業部では、1956年から白黒テレビ用ブラウン管の生産も開始しており、1961年には量産体制を確立。その後にカラーブラウン管を開発し、1967年にはカラーブラウン管専用の最先端の量産工場を稼働させている。ブラックマトリックスの採用による高い品質が評価されていた。
このように、NECでは、トランジスタによる半導体事業を拡大するとともに、集積回路や電子計算機、テレビ用ブラウン管などにも事業を拡大。創業時には「電話機、交換機」、戦前には「有線、無線」が代名詞となっていたNECは、徐々に、「通信とエレクトロニクスの総合メーカー」と位置づけられるようになっていった。

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