変革の軌跡~NECが歩んだ125年 第6回 栄光のはじまり、NECのコンピュータ開発史

2024年11月26日(火)12時0分 マイナビニュース


NECにおけるコンピュータの開発は、1954年ごろから始まっている。
NECの第1号コンピュータとなるパラメトロン式電子計算機「NEAC-1101」が完成したのが1958年であり、さらに、後継機のNEAC-1102は東北大学と共同開発し、同大学に導入。NEAC-1103は、防衛庁に納入している。
コンピュータを作らなければNECの未来はない
なかでもNEAC-1102は、NEC初の商用コンピュータと位置づけられ、日本で生まれた高信頼、長寿命のパラメトロン素子を採用。不動小数点演算と固定小数点演算方式を命令によって切り換えられる1024語の大容量記憶装置などを備えていた。
のちに社長を務める小林宏治氏は、「パラメトロン式実用コンピュータの誕生によって、フィルター(濾波器)開発はもとより、NEC社内におけるその後の新技術や新製品の開発に必要な技術計算が飛躍的に容易になった意義は大きい」と、NEAC-1102の貢献の大きさを示す。
実は、このとき、「コンピュータをやらせてほしい」と、当時の玉川製造所長の小林宏治氏に直訴したのは、入社2年目の渡部和氏だった。渡部氏は、その後、NECでは常務理事を務め、「IEEEキルヒホッフ賞」を、日本人として初めて受賞した人物だ。
1954年に渡部氏は、フィルターの設計業務を任されたが、その設計には、膨大で、高精度な数値計算が必要であり、工場に設置されていた電動機駆動歯車式計算器を使って連日連夜のように計算しても、作業はなかなか進まない状態だった。この課題を解決するには、メモリと演算装置、制御装置で構成するコンピュータが必要であると判断。会社に導入を訴えたが、入社2年目の社員の意見がすぐに通るわけがなかった。そこで、渡部氏は、新たなコンピュータに関する論文をまとめ、名古屋大学で開催された電気通信学会の大会に出席してこれを発表。それを偶然聞いていた小林宏治氏が興味を持ち、話を聞いてくれたという。
渡部氏は、「コンピュータを作らなければNECの未来はない。エレクトロニクスで世界の会社になるんだったら、コンピュータをやらなきゃ駄目だ」と訴えたという。
小林氏からは、紙で提出するように言われたもの、上司からは利益計画や投資回収計画などに注文がつき、なかなか話は進まなかった。だが、昼間は回路設計業務に専念しながらも、会社の正門前に下宿を借りて、時間を確保。自宅で夜なべしながら、コンピュータの設計を独学で進めていった。当時は、計算機に関する文献はなく、実稼働している計算機も世界中を見まわしてもわずかという時代だった。
約2年をかけて、コンピュータの設計が完成。そのときに、NECと東北大学が世界一の科学技術用計算機を共同開発するという話が持ち上がり、そこに渡部氏の設計がそのまま採用されることになったのだ。1958年に稼働したNEAC-1102は、パラメトロンを約1万個使用。東北大学に設置され、SENAC-1と命名された。
脈々と続いてきたNECコンピューターのひろがり
NECは、NEAC-1101の誕生と同じ1958年には、同社初のトランジスタ式電子計算機「NEAC-2201」も誕生させている。これも国産部品で構成しており、1959年に、パリで開催されたユネスコ主催のAUTOMATHに展示。世界で初めて、トランジスタ式電子計算機を稼働させ、NECのコンピュータに関する技術力に、世界中から大きな注目が集まるきっかけとなった。なお、NEAC-2201の第1号機は日本電子工業振興協会の計算センターに納入されている。
1959年には、「NEAC-2202」および「NEAC-2203」を開発した。とくに、大型コンピュータに位置づけられる「NEAC-2203」は、近畿日本鉄道の座席予約オンラインリアルタイムシステムに採用されるなど、短期間に30台を販売するという実績をあげてみせた。
その後も、NECはコンピュータの開発体制を強化しながら事業を拡大。1958年以降、NECは国内コンピュータ市場において、トップの販売実績を維持することになる。
1964年に発売したNEAC-2200は、1年間に100台近くを販売したほか、同年には、コンピュータの専門工場として東京・府中に府中工場を建設し、コンピュータ事業の基盤を強固なものにしていった。
同社によると、NECのコンピュータ事業は、1965年には全社売上高の9%となる80億円だったものが、1970年には623億円に達し、NEC全体の25%を占める事業規模にまで急拡大していった。
コンピュータ事業を開始して以降、幅広いユーザーへの導入が進んでいる。警察庁の全国オンラインシステムをはじめ、総理府統計局、通商産業省、郵政省、運輸省、厚生省、農林水産省、建設省などの中央官庁のほか、各大学や研究機関、公団、事業団などの政府関係特殊法人に対して導入。また、1976年からは、郵政省簡易保険局の全国簡易保険オンラインシステムなどの納入も始まった。民間企業への導入も促進され、NECが民需ビジネスを拡大するきっかけのひとつにもなっている。
NECのコンピュータ技術を活用したシステムのひとつに、1971に郵政省が導入した全自動郵便処理システム「NS-100」がある。郵便局における選別取り揃え、押印、郵便番号自動読み取り、区分を自動的に行うシステムとして、郵便サービスの効率を向上。その先進性が注目を集めた。
NECのコンピュータを導入しているユーザーコミュニティも早い時期に設立されている。1959年には、関西NEACユーザー会が発足。その後、全国各地にNEACユーザー会が誕生し、1968年には、各地のユーザー会を全国規模で編成することで、「全NEACユーザー会」が生まれた。
コンピュータの利用企業の拡大とともに、ユーザー会の活動も年々活発化し、ユーザー間の情報交換やメーカーとユーザーとの結びつきを強める役割を果たした。また、NECにとっては、多くの助言が得られる場にもなっており、コンピュータ事業の発展には欠かすことができない存在となっている。
その後、名称を、NEC C&Cシステムユーザー会(NUA)に変更。2022年度末に発展的解散をした。現在は、対話を通じて新しい価値の共創を目指すことを目的とした「BluStellar Communities」を、2024年8月にスタートし、新たな形での活動を開始している。
初めて聞いた「ソフトウェア」という言葉
NECのコンピュータ事業は、1962年の米ハネウェルとの技術提携により加速した。
米ハネウェルとの技術提携によって開発したのが、先に触れたNEAC-2200である。最大の特徴は、小型から大型コンピュータまで、ひとつのソフトウェアを、一貫して使用できるように設計した点であった。「ワンマシンコンセプト」と呼ぶ考え方であり、ユーザーの使いやすさを追求することにつながったという。いまでは当たり前の考え方ではあるが、ワンマシンコンセプトを採用したコンピュータメーカーは、日本ではNECが最初となった。
このとき、NECが提携先として、IBMなどを選択せず、ハネウェルを選んだ理由について、NECの70年史のなかでは次のように述べている。
「ハネウェルは精密測定器メーカーとして定評があり、コンピュータ開発にその経験を生かし、ソフトウェアの開発に力を入れることを重視した企業である。コンピュータの価格の半分はハードウェアであり、残り半分がソフトウェアである。ハードウェアの本質的な性能の差は比較的少なく、今後はソフトウェアの優劣で勝敗が決まる。日本は教育程度が高く、勤勉なブレインパワーが豊富である。これらを有効に生かすことで、将来は優秀なソフトウェアの開発が可能になる。NECは、ソフトウェアの面でコンピュータの特色を出そうとしてハネウェルと提携するのがいいと考えた」
1960年に小林宏治氏は、提携相手を見極めるために、欧米のコンピュータメーカーを相次ぎ訪問し、そのときに「ソフトウェア」という言葉を初めて聞いたという。
ソフトウェアやアプリケーションを重視する姿勢は、現在のNECにも通じるところがある。2024年5月に発表した新たな価値創造モデルである「BluStellar(ブルーステラ)」や、今後、事業を拡大することになるAIにおいても、その基本姿勢は同じだといえる。NECは、ハードウェアメーカーという認識が強いだろうが、ソフトウェアを重視する姿勢は、コンピュータ事業の草創期から変わらない姿勢といえる。
IBMに挑め! 国産コンピューターの勃興
1974年3月に、日電東芝情報システム(NTIS)が設立された。
米国政府による貿易自由化の圧力が高まり、コンピュータについても、1971年4月に資本および輸入の自由化が決定。戦略産業としてコンピュータを保護しようと考えていた通商産業省(経済産業省)は、国産コンピュータメーカーを3つのグループに再編する旗振り役を担い、NECと東芝のほか、富士通と日立製作所、三菱電機と沖電気工業が、それぞれに連携して、次世代コンピュータの開発に取り組むことになった。
最大のテーマは、世界のメインフレーム市場を席巻していたIBMへの対抗である。IBMは、1964年に発表したシステム360に続き、後継機種となるシステム370を1970年に発表。まさに、飛ぶ鳥を落とす勢いであった。
日電東芝システムズの資本金は10億円。内訳は、NECが60%、東芝が40%を出資し、NECと東芝のコンピュータ製品の開発計画の調整や営業活動の支援を役割とした。
3つの陣営は、それぞれに開発方針を定め、富士通と日立はIBMの互換路線を採用したが、NECと東芝は、IBMを追随する方法を取らずに独自路線を追求。時代を先取りしたファームウェア化や分散処理技術などを採用した。NTISは、1974年5月に、ACOSシリーズ77として、3機種を発売し、NECではNEAC、東芝ではTOSBACの名称でこの製品を販売した。1976年に発売した後継機では、マルチプロセッサ構成を実現。高い性能は市場からも高く評価されたという。
NECによると、1979年3月末までのACOSシリーズの累計受注台数は、小型機が976台、中型機が382台、大形機が234台、超大形機が39台の合計1631台に達し、1978年6月末時点で、国産コンピュータメーカーのなかでは40%超のシェアを獲得したという。
3つの国産コンピュータ陣営それぞれの健闘もあり、1975年から始まった貿易自由化後においても、政府が杞憂したような国産コンピュータメーカーのシェアへの影響は少なかった。
そして飛躍したNECのコンピュータ事業
だが、NECのコンピュータ事業には、その後も大きな波が押し寄せた。
1978年2月に、東芝が大型コンピュータからの撤退を発表したため、NECでは、NTISで担当していた中型機用OSであるACOS-4の開発に加えて、大型機用のACOS-6の開発を並行して行わなくてはならなくなった。そこで、NECは、2つのOSの共通化を可能な限り実現することで、この難局を乗り切ることにした。
また、1977年の初めごろから、IBMが著しく価格性能比を向上させた中小型機の新製品を開発中であり、1978年秋以降に発売する予定であるとの話が伝わったことで、NECは1年半という短い期間ではあったものの、これを「中小型機分野で、市場優位性を確立する絶好の機会」と捉え、対抗機種の開発を決定。営業部門を含む横断的なタスクフォースを組織し、企画段階から情報共有を積極化するとともに、ハードウェアの開発とソフトウェアの開発を並行して行う手法を採用し、集中的で、効率的な開発を推進することにしたのだ。
この結果、IBMが発表したIBM 4300シリーズのわずか1週間後の1978年2月に、対抗機種となるACOSシステム250を発表。3〜4割高い性能と、十分対抗できる価格設定としたことで、発売後に注文が殺到。1981年6月には、小型機としては、初めて1000台の販売台数を突破し、4年間で約2000台の販売実績に達するという大きな実績を残した。
ACOSシステム250の成功は、NECのコンピュータ事業の基盤を強固なものとし、同時に、NECのIBM非互換路線の成功を裏づけるものとなった。IBM互換路線では、IBMの製品投入を待ってからの開発となるが、非互換路線であるからこそ、素早い製品投入と、独自仕様による高い性能の実現につながったといえる。また、販売先の57%が新規ユーザーであり、他社からのリプレースが数多くみられた点でも、NECのコンピュータ事業を飛躍されるきっかけをつくったともいえる。
また、超大型コンピュータの開発も強化し、1981年には、15MIPSの性能をもつACOSシステム1000を開発して、第1号機を東北大学に納入。1985年には、上位機種のACOSシステム1500を、1986年にはACOSシステム2000をそれぞれ発売し、いずれも世界最大、世界最高速の汎用コンピュータとして話題を集めた。
こうした独自路線の追求は、1962年から続いていた米ハネウェルとの提携関係にも変化を及ぼすことになった。
それまでは、ハネウェルからの技術提供を受けるという提携内容であったが、1983年10月の契約更新の際には、NECが世界最大および世界最高速で実績を持つ超大型コンピュータ分野においては、クロスライセンス契約を交わすという内容に変更し、技術供与を受ける立場から、技術を供与する関係に変わっていった。その関係はすぐに実行され、1984年には、NECがACOSシステム1000を、ハネウェルにOEM供給。さらに、ハネウェルとフランスのブルの合弁会社であるCII-HB(Compagnie International L,Informatique Honeywell Bull)に対しても、OEM供給を行った。また、1987年3月には、NECとハネウェル、ブルの3社が、米国にハネウェル・ブルを設立するという新たな関係も構築した。
だが、1989年にハネウェルは、コンピュータ事業からの撤退を決定。NECとハネウェルとのコンピュータ事業における27年間の提携関係にも終止符が打たることになった。
(次回は2025年1月7日に掲載予定です。)

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