魔王?暴君?「戦国のカリスマ」織田信長が人々を魅了した納得の理由
歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
「天下統一」目前まで迫った戦国の英雄
織田信長(1534~1582)——尾張国(現在の愛知県)の一地方領主から身を興し、「天下布武」を掲げ、諸大名を打ち倒し「天下統一」目前まで迫った戦国の英雄。これまで、信長は小説・テレビなど様々な媒体に取り上げられ、その生涯が描かれてきました。
今年(2023年)も大河ドラマ「どうする家康」(主演は徳川家康役の松本潤さん)では、信長を岡田准一さんが演じていますし、映画『レジェンド&バタフライ』では、木村拓哉さんが信長役を熱演しています。
「どうする家康」の信長は、黒マントを纏い「待ってろよ、竹千代(家康の幼名)。俺の白兎」などの発言、その他、家康に高圧的な態度で接している様を見ても「魔王的」に描かれているように感じます。
これまでメディアにおいては、信長をどちらかと言えば、冷酷な暴君のように描いてきた面があります。よって、多くの人々の信長イメージは「怖い人」というものではないでしょうか。
もちろん、私も信長にそうしたところがあることを全く否定するわけではないのですが「魔王」「暴君」面を強調するだけでは、信長の「一面」を見たに過ぎません。ここでは、信長の知られざる姿を炙り出し、リーダーとしての優れたところを提示したいと考えています。
「大うつけ」(大馬鹿者)と呼ばれた青年時代
先ず、青年時代の信長と言えば、奇抜な格好をしたり、奇矯な振る舞いをしたことから「大うつけ」(大馬鹿者)と人々から呼ばれたことは有名です。確かに若い頃の信長は「半袴で、火打ち袋など色々なものを身に付け、髪は茶せん髷にし、髻(もとどり)を紅や萌黄糸で結い」(信長の家臣・太田牛一が記した信長の一代記『信長公記』)という領主の息子にあるまじき格好をし、他人の肩にぶら下がるような、だらしない歩き方をしていたようです。
が、それは青年・信長の一面に過ぎません。他方で信長は、18歳になるまでは、馬を朝夕稽古し、春から夏までは川に入り水練し、竹槍の叩き合いを見ては「竹槍は短くては具合が悪い」と言って「三間柄」「三間半柄」の長槍に変えさせるなどしていたのです。更には、弓を市川大介に、鉄砲を橋本一巴に、兵法を平田三位に習っていました。これらは、立派な武家の嫡男としての態度ではないでしょうか。
「だらしなさ」の真相
私は先ほど、信長が「他人の肩にぶら下がるような、だらしない歩き方をしていた」と書きました。『信長公記』には「人により懸り、人の肩につらさがりてより外は御ありきなく候」とあるのですが、この場合の「人」というのは、おそらく、信長の近習や小姓のことと思われます。
そうだとするならば、これは単に信長の「だらしなさ」を示すものではなく、信長と近習たちの親密さや、仲の良さを表すものではないでしょうか。この頃、信長はこうしたお付きの者にも、朱色の武具を付けさせていたそうです。それは、信長と近習衆との結束を更に強くしたと思われます。
近習衆の「上」に立つのは信長ではあるのですが、隔絶した近寄りがたい若殿様として振る舞うのではなく、自分の方から積極的にスキンシップやコミニュケーションをとっていることが注目されます。
この事は、近習衆を感激させ(若殿のためならば)という想いを深くさせたのではないでしょうか。他者との「親密性」は、安心できる人間関係によって高まるとされます。「瓜をがぶりと食べ、町中で立ちながら餅を頬張り、人に寄りかかり、人の肩にぶら下がるよう」に歩いた信長はそうやって、近習との「親密性」を高めたのでした。
なぜ、仏前に抹香を投げつけたのか
人々が青年・信長を「大うつけ」と評したもう1つの逸話が『信長公記』に載っています。信長の父・織田信秀が亡くなった直後、葬儀が万松寺(愛知県名古屋市)で行われます。その葬儀の最中、信長は焼香に立ったのですが、その出立ちは「髪は茶せん髷、袴も召さず」というもの。
人々を更に驚かせたのは、仏前に出た信長が抹香を掴んで、仏前へ投げつけたことでした。「肩衣・袴を召して、礼に叶った作法をしていた」信長の弟・織田信行(信勝)とは対照的な態度。今でもこのような事をすれば、非難の的でしょうが、ではなぜ、信長は仏前に抹香を投げつけて帰ったのか?
信長と父・信秀の確執を指摘する説もありますが、信長は葬儀に銭の施しをしていますし、親子の対立を示すものは特に見当たりません。『信長公記』には、信秀が病となった際、様々な祈祷や療治が行われたとあります。後に信長とも対面した宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』には「彼(信長)の父が尾張で瀕死になった時、彼は父の生命について祈祷することを仏僧らに願い、父が病気から回復するかどうか訊ねた」とあります。
信長は父の存命を願って、僧侶に祈祷を命じていたのです。信長の問いに対し、僧侶は「回復するでしょう」と回答。ところが、信秀は数日後に亡くなってしまうのでした。すると、信長は、僧侶を寺院に監禁し「貴僧らは父の健康について虚偽を申し立てたから、今や自らの生命につきさらに念を入れて偶像に祈るがよい」と言い、数人を射殺したのです(『日本史』)。
この逸話は『信長公記』には記されておらず、本当のことか否かは不明ですが、信長が父の存命を願っていたこと、父の死を悲しんでいたこと、虚偽を申し立て父を回復させることができなかった僧侶に怒りを燃やしていたことは確かと思われます。
『信長公記』の抹香投げつけは、父を死なせた仏僧への憤りと解釈できるのではないでしょうか。多くの者が、信長のこの行為を非難するなか、筑紫から来た僧侶1人だけが「あの人こそ国持ち大名となるべき人よ」と予言したそうです。「常識」を打ち破り、人の目を気にせず、自らの信念で行動する豪胆さ。信長のそうした点をその僧侶は見抜き、賞賛したのでしょう。
筆者:濱田 浩一郎
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