日本を破ってW杯3位。クロアチアの「黄金世代」は引退後も貢献度大

1月15日(金)16時55分 Sportiva

あのスーパースターはいま(3) 

 1998年、フランス。日本代表は史上初めてW杯の舞台に立った。

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 しかし、同じグループのクロアチアにとっても、このW杯は特別な大会だった。クロアチアは1991年、激しい戦いを経て旧ユーゴスラビア連邦(マケドニア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、スロベニア、モンテネグロのからなる連邦国家。1980年代から紛争が続き、1992年に分裂した)から独立。この大会は初めてクロアチア代表として戦うW杯だったのである。赤と白の市松模様のユニホームを着ることに選手もサポーターも、この上ない誇りと感慨を抱いていた。

 独立前、クロアチアの選手はユーゴスラビア代表としてプレーしていた。1987年、ユーゴスラビアはチリで行なわれたワールドユースで優勝を果たしているが、その時の大会MVPのロベルト・プロシネツキをはじめ、メンバーの過半数がクロアチア人だった(クロアチア以外の選手では、プレドラグ・ミヤトビッチらがいた)。その「黄金世代」がクロアチアの名を背負って戦ったのがこの大会だった。

 6月20日、リヨン。グループリーグの第2戦で両者は対戦した。その日は暑く、日本もクロアチアも疲弊し、後半30分を過ぎてもどちらも決定機を欠いていた。しかし日本のほんのわずかなミスをクロアチアは見逃さず、最後はダボル・シューケルが豪快な左足のシュートでゴールを奪った。これが決勝点となり、クロアチアの決勝トーナメント進出が決まった。


フランスW杯で日本代表と対戦、決勝ゴールを決めたダボル・シューケル(クロアチア) photo by Yamazoe Toshio
「戦火で傷ついた人々に喜びを与えたい」

 その思いがその後もクロアチアを奮い立たせ、結果的に初出場でW杯3位に輝くことになる。彼らは一躍国の英雄となった。

 そんな彼らはいま、どうしているのだろうか。あの日、フランスの太陽の下で日本と戦ったクロアチア代表の現在を探ってみた。

 日本戦でゴールを決め、計6点を挙げて大会得点王となったシューケル。彼が代表で決めた45ゴールの記録は、いまだ破られていない。

 2003年に現役を引退してからは、首都ザグレブで、姉のひとりとともにダボル・シューケル・サッカー・アカデミーを開いていたが、その姉が急死すると、アカデミーを閉鎖。2010年にザグレブサッカー協会の代表としてクロアチアサッカー協会入りする。2011年の6月にはUEFAのコミッショナーに選出。2012年、サッカー協会会長に選ばれ、現在は3期目である。

 ただ、残念ながら会長になってからのシューケルの評判はあまり芳しいものではない。脱税や汚職で逮捕されたクロアチアサッカー界のドン、ズドラフコ・マミッチと非常に近しい関係にあり、協会を私物化しているとの声も聞かれる。

 この世代の最大の英雄はスボニミール・ボバンだ。独立前の90年、ディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラードの試合中に、クロアチアの少年がセルビアの警官に殴られていたのを見たザグレブのボバンは、警官に飛び蹴りして少年を助けた。このことで、彼は愛国者のシンボルとなった。彼はあるテレビ番組でこう述べている。

「クロアチアとは私が生きる理由だ。私は自分と同じくらいこの国を愛している。クロアチアのために私は死ねるだろう」

 ボバンは引退後、ザグレブ大学で歴史を学んだ。卒論のテーマは「ローマ帝国におけるキリスト教」。その後は長くイタリアの『スカイスポーツ』やクロアチアの放送局『RTL』のコメンテーターを務め、歯に衣を着せぬ物言いが有名であった。またジャーナリズムの世界にも入り、クロアチアのスポーツ紙『スポルツケ・ノヴォスティ』の編集長を務め、イタリアの新聞『ガゼッタ・デッロ・スポルト』にも寄稿している。

 2016年の5月には、ジャンニ・インファンティーノFIFA会長に呼ばれ、副ゼネラル・セクレタリーに就任。役員を3年務め、VARの推進に貢献した。将来的にFIFAで重要なポジションに着くと思われていたが、それよりも彼を惹きつけたのは、旧友パオロ・マルディーニからの「ミランの黄金期を一緒に取り戻そう」という誘いだった。熱い男ボバンらしい選択である。彼のミランへの愛は大きく、低迷していた古巣を助けたかったのだろう。しかしミラン首脳陣との意見の相違から、半年後にはミランを去ることになる。

 ボバンが「絶対にしない」と誓っていることがある。それは監督だ。「私の神経はきっとその職に耐えられないだろう」と言っている。

 ファッションデザイナーの妻との間には娘が1人おり、その他にも4人の養子を育てている。テニスのゴラン・イワニセビッチとは親友で、ときおりインドアテニスを楽しんでいるようだ。シューケルの次にサッカー協会の会長になるのは彼しかないと、多くの人々が思っている。

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 このように、当時のクロアチア黄金世代の選手は、多くがその後も何らかの形で代表チームと関わり、現在も同国のサッカー界に大きな影響を与えている。

 たとえば、クロアチア代表の中盤でボバンとともにゲームをコントロールしていたプロシネツキ。彼は90年イタリアW杯でユーゴスラビア代表としてもゴールを決めており、初めて2つの国の代表としてW杯で得点した選手となった。

 高いテクニックを持ち、スペインではバルセロナとレアル・マドリードの両チームでプレーしている。また、ザグレブではカズ(三浦知良)と一緒にプレーしたこともあった。偉大な選手だった彼も、サッカー界に残っている。2006年に代表監督になったスラベン・ビリッチを、アリョーシャ・アサノビッチとともに補佐している。

 また、守備の要だったスラベン・ビリッチは2004年から2006年まではクロアチアU−21代表、2006から2014年までA代表の監督を務めた。

 実は彼はミュージシャンでもあり、「ラウヴァウ」というロックバンドのギタリストだ。2008年のヨーロッパ選手権では、自らが率いるクロアチア代表の応援歌を発表。自伝のタイトルも『スラベン・ビリッチ——サッカーとロックンロールの物語』となっている。法学部の学士号も持っているインテリなのだ。

 1990年10月17日のアメリカとの親善試合が、独立国家クロアチア代表の最初の試合とされている(正式には、独立宣言はまだだったが)。この試合で、クロアチア代表の記念すべき1ゴール目を決めたのがアサノビッチだった。

 フランスW杯の日本戦ではシューケルへの決勝ゴールをアシスト。その後のルーマニア戦や準決勝のフランス戦でもアシストを決めている。引退してからも彼のアシストは続き、2006年からクロアチア代表で監督のビリッチのアシスタントコーチを務めた。

 左サイドの不動のレギュラー、ロベルト・ヤルニは2017年からU−19代表を率い(その後辞任)、GKドラゼン・ラディッチはU−21代表監督を経て、現代表監督ズラトコ・ダリッチの右腕を務めている。DFダリオ・シミッチやイゴール・スティマッチもサッカー界で要職を務めてきた。

 そして、残念ながら直前のケガでフランスW杯には出られなかったが、アレン・ボクシッチを抜きにこの世代を語ることはできないだろう。当時の代表監督ミロスラフ・ブラゼビッチは「ボクシッチ、シューケルの2トップがそろっていたら、我々は優勝できただろう」と、ことあるごとに言っている。

 2012年からしばらく、代表でサブコーチを務め、主に攻撃の指導をしていた。現在はテレビの解説者をしながら、選手時代に購入した小さな島に住み、水上スキーやヨット、そして特にテニスをして過ごしている。長女はテニスプレーヤーだ。

 母国の誇りと強さを見せつけた98年の代表選手たちは、いまもクロアチアサッカーを支えている。


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