「母国に帰れなくなった助っ人」は、なぜプロ野球で成功できたのか?

1月16日(木)6時40分 Sportiva

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第6回 バルボン・前編 (第1回から読む>>)

 平成の頃から、どこかセピア色に映っていた「昭和」。まして元号が令和になったいま、昭和は遠い過去になろうとしている。だが、その時代のプロ野球には、今もファンの記憶に焼きつく強烈なキャラが多くいた。

 過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、個性あふれる「昭和プロ野球人」の真髄に迫るシリーズ。6人目は、往年の阪急ブレーブスで3度の盗塁王に輝くなど活躍し、”愛される助っ人”の元祖となったバルボンさんの言葉を伝えたい。


1960年4月22日、近鉄戦でホームスチールを決めるバルボン(写真=共同通信)


* * *

 ロベルト・バルボンさんに会いに行ったのは2006年6月。当時はオリックス球団のファンサービスグループに所属していたが、僕はそれまで、バルボンさんの球歴を何も知らずにいた。オリックスの前身、阪急でかつてプレーした助っ人、という認識だけだった。

 そのかわり「バルボン」の名は以前から頭に刷り込まれていた。テレビで何度か見た、阪急の外国人選手のヒーローインタビュー。コメントをファンキーな関西弁に訳して伝えるシーンが印象的だったのだ。が、現役時代の実績はわからず、阪急で10年、近鉄で1年プレーし、通算1353試合出場が歴代の助っ人最多(当時)とは驚く。その上、1955年からずっと日本に滞在し続けているのだが、背景にはそうせざるを得ない事情もあった。

 キューバ出身のバルボンさんは当初、メジャーリーグを目指して渡米。54年にドジャース傘下のマイナーでプレーした後、当時の阪急球団代表、村上実の誘いを受けた。村上と懇意だったインディアンスのスカウトが、バルボンさんをよく知っていたことがきっかけだったという。

 まだ21歳、マイナーでもA級の下位だったが、阪急に入団すると俊足を生かしていきなり1番打者として活躍。1年目の55年はリーグ最多安打、最多得点、最多三塁打、49盗塁をマークする。ベストナインに選ばれた58年からは3年連続盗塁王に輝いている。


 ちょうどその頃、母国では政変が進行しつつあった。58年オフに一時帰国したバルボンさんが再び日本へと向かった直後、59年1月にキューバ革命が起きる。カストロ政権が成立すると米企業の財産を国有化する政策によってアメリカとの関係が悪化し、のちに国交が断絶。結果、バルボンさんは長らくキューバに帰れなくなった。日本滞在を余儀なくされ、個人の力ではどうしようもなく人生を左右される苦難があったなか、なぜ長年、助っ人として活躍できたのだろうか。

 スカイマークスタジアム(現・ほっともっとフィールド神戸)内のオリックス球団事務所。応接室で10分ほど待っているとバルボンさんが現れた。立ち上がって挨拶をすると一瞬、背筋をピンと伸ばし、笑顔で「ヨロシク」と応えてくれた。すらりとした細身の体型で褐色の肌にはつやがあり、73歳とは思えない。まずは初来日の記憶をたどってもらう。

「もう50年以上も前の話、当時、キューバから日本に来るまで3日かかったよ。ジェットない時代、プロペラや。ハバナからマイアミ行って、シカゴ、カリフォルニア行ってな。カリフォルニアからハワイだ。ハワイ着いたらね、ものすごい暖かかった。だから日本も同じとばっかり思ってたんや」

 来日は2月のことだったから日本は真冬。半袖姿のバルボンさんを乗せたプロペラ機が羽田空港に到着した。

「着陸して外見てたらね、白い粉いっぱい……。なんじゃあ? これっ。そしたら雪や。もちろん見たの初めて。キューバではないわな。それから東京、2〜3日おったけど、寒くて外出なかった。今みたいに暖房ないし、旅館泊まったから火鉢あるだけ。こりゃ寒い! そこでキューバに帰りたくなったわ。でも、帰らんかったね。帰らんで、あれから50年以上経ってる。ハッハッハ」


 話すほどに声のトーンが上がり、顔をくしゃくしゃにして笑う。つらかった話をここまで明るく話す方は滅多にいないと思うが、つらさはチームのキャンプに合流した後も変わらなかった。

「みんな雪のなかで練習やってた。なんでこんな寒いなかやってるの? と思ったよ。ボクは走っても寒いから、火の横ばっかりしかおらへん。だからある日、キャンプ終わって明石で試合やったとき、ボク、セカンド守っててライナーきた。捕ろうとしたら腕が上がんない、寒くて。あれ、真っ正面きたら、おそらく顔当たってたと思う。とにかく動かない。それがいちばん印象に残ってるわ」

 ごく普通に会話できているのでつい忘れてしまう。バルボンさんの母国キューバの公用語はスペイン語だ。マイナー時代に英語を習得したそうだが、きっと来日当時は言葉の面で苦労したはずだ。

「あの当時、通訳なしや。はじめ、名前のこと聞かれたんやな。ロベルトか、バルボンか、どっちや、言われたから、『チコ』と呼んでくれ、言うたんや。日本で男の子は『太郎』、女の子は『花子』いうのあるわな。それと同じ。キューバで男の子ならチコ、女の子ならチカや」

 外国人自体が珍しい時代ながら、阪急にはそれ以前にも助っ人が加入していた。温かく迎え入れる空気があったと推察できる。一方、セカンドとして二遊間のコミュニケーションはどうだったのか。

「はじめ、ショートは河野旭輝(こうの あきてる)さんで、その後は本屋敷錦吾(もとやしき きんご)ね。野球の会話はだいたい一緒やから困ったことはないよ。ただ、あの頃、ガイジンはボクひとりやった。スペイン語はもちろん、英語しゃべれる選手、誰もおらへんかった。朝から晩まで日本語ばっかり聞いとったわけや。だから、そのうち理解したんとちゃうか? 毎日ずーっと同じ言葉聞いたらな、ある程度、慣れるわな」

 入団から7年間、阪急にはバルボンさん以外の外国人野手がいなかった。日本語に慣れないと仕方がない環境があり、必然的にチームに溶け込むことになったのだ。

「ワタシ、今も日本語うまくないけど、それがなかったらずーっとしゃべれなかったと思うわな。それでも1年目に165安打打って、得点王になって。寒い、寒いって文句言いながら、何とかな」


 バルボンさんは2年目の56年も得点王になり、1番打者として定着。実働11年で通算1123安打を記録した一方、1年目からセカンド守備でも力を発揮していた。

「守備はボク、自信あった。バッティングだけあかんかった。これははっきり言うとくわ。結局、バッティングで残ったのは1000本安打だけやな。でも、守るのと走るのと、あとはインサイドベースボールには自信あった。だから今でもときどきね、捕るだけなら捕るよ。73で。ハッハッハ。守りだけはホンマに自信あったわ。ゲッツーの場合もな」

 当時の日本やアメリカに比べ、バルボンさんが少年時代を過ごしたキューバは「でこぼこのグラウンド」。イレギュラーバウンドが当たり前の環境でノックを受け、試合に出ていた。だからとっさの反応がよくなり、キューバの野球は守りが向上したんじゃないか──。バルボンさんは笑い交じりにそんな仮説を立てたが、すぐ真顔になって、バットを構えるふりをした。

「とっさの反応いうたら、結局、守りはスタートやな! やっぱり、守ってて、バッターのバットの先見てたらね、だいたい打球の方向わかるわ。バットがここまできたら打球は向こう行く、ここなら真っすぐ行く。手を返したら、絶対こっちへ飛ぶ。バットの先に反応して判断できたらいいスタート切れる。打ってから行ったら、ものすごい遅いわな」

 僕は過去、「守備の名手」といわれた往年の野球人、何人かに取材して、一様に同じ話を聞いていた。バルボンさんも相当の野球センスを持っていたのだ。さらに、3年連続盗塁王を獲得した足についても聞く。走りの極意はあったのだろうか。

「やっぱり、ピッチャーのクセやな。ある程度、見てたらわかったわな。それに昔は今みたいなクイックモーションもなかった。そらもう、よう走れたわな。昔の日本、野球、まだまだやったからと思うわ。だってボクが来た年、ヤンキース来日したけど、日本の選手、試合で速い当たりきたらみんな『おおっと』って逃げてたわ、ホンマに。だから、まだまだ、まだまだやったんやな」

 昔に比べて日本野球のレベルは格段に上がった、という話はよく聞く。が、助っ人の立場から見た昔の話を日本語で聞いた経験はないから新鮮だった。


にこやかに話す取材当時のバルボンさん


 では、投手についてはどうだったのか。バルボンさんが活躍した時代、パ・リーグ各球団に”大エース”がいたが、対戦した印象を聞いてみる。

「南海(現・ソフトバンク)の皆川睦男やな、苦手は。皆川、下からやな。向こうはそんなピッチャーおらへんかった。でも当時の日本はね、下手投げ、どこのチームにも3〜4人おって、もう1人、近鉄に武智文雄いう下からのピッチャーもおったよ。ときどきね、ボク、打ちにいってる、あの人まだボール持ってる。そんなことあったわ。カッカッカ。ものすごい苦手やったわ、ホンマに」

 苦手を語りながら楽しそうにしている野球人、滅多にいない。ほかに、南海の杉浦忠はどうだったのか。

「スギはね、1年目に27勝したでしょ? でもボク、4割5分ぐらい打ったんや。それがね、スギの2年目からは全然、打てんかった。ハッハッハ。あの人、横からのカーブがね、ものすごいブレーキがよかった。遅いのあったし、速いのあったし。あと、レイジングボール。これは速かったわ」

 杉浦は2年目の59年、38勝4敗でチームの優勝に大きく貢献。最多勝に輝き、防御率も1.40でタイトルを獲り、巨人との日本シリーズでは4連投4連勝を成し遂げている。

 さらに、同年に3年連続30勝以上を達成し、「鉄腕」と呼ばれた西鉄(現・西武)の稲尾和久は?

「稲尾はね、あの人、ボクの顔見たらな、いつも『チコさん、あなたもう嫌い』言うてくる。なんでか。ある日の平和台球場でね、ボク、1回表、先頭打者で本塁打打ったんや。ボクは本塁打、あまり打てへんかったよ。その時もマグレやった。ヘッヘッヘ。カンと打ったらギリギリ入った。で、あとから、だーれも塁に出んかった。ボク打った後はパーフェクトや。28人やな」

 通算276勝を挙げ、最多勝4回、最優秀防御率5回とタイトルを獲り、リーグ最多奪三振を記録すること3回。新人王、MVPにも輝いている稲尾だが、ノーヒットノーランは記録できなかった。最大のチャンスを逃した原因がバルボンさんだったから「嫌い」なのだ。

「2〜3日前に甲子園で会ったときもそうや。『チコさん、私ね、あなたにホームラン打たれなかったら、ノーヒットノーランになってる。あなた嫌い、大っ嫌い』ってな。ハッハッハ」

(後編につづく)

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