震災死の母が導いた甲子園、阪神園芸金沢氏の25年

1月17日(金)4時0分 日刊スポーツ

宜野座ブルペンの整備を行う阪神園芸の金沢健児さん(2019年2月3日)

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阪神園芸で甲子園施設部長を務める金沢健児さんは、いつもと変わらぬ日常生活の中で1月17日を迎える。
「普通に、あえて特別なことはせずに。その時の話は家族でするけどね。あの日を境にここまでがんばれたと思う日です」。25年前、阪神・淡路大震災で母静江さんを亡くした。その1カ月前の12月4日に結婚。神戸市内の実家を出て、5キロほど離れた場所で新婚生活を始めたばかりだった。
地震の直後、13階の自室から外を見た。暗闇の中で火が上がっていた。「ビルが傾いていた。見たこともない光景だった。これ、何年かかるんやろ、そう思った」。同時に1人暮らしの母を思った。エレベーターは止まり、階段を駆け降りた。車に飛び乗ると、まだ渋滞の発生していない道を走った。「無理やろな」。古い木造2階建て。着いた時には、火災に見舞われた実家はすでに下火になっていた。それでも、すぐには手がつけられなかった。1週間後、やっとがれきをかき分けた。「だいたい、ここやろな、という所に骨があった」。
母は甲子園の球場職員。幼い頃から金沢さんも出入りしていた。高校卒業後、営業の仕事に就いていたが、2年後、母が言った。「人を探しているみたいやで」。この一声がきっかけで88年に阪神園芸に転職した。しかし震災で母との別れは突然訪れる。「実家のある小学校の学区は全壊率100%。知り合いはかなり亡くなった。受け止めないと仕方がない。そんな気持ちだった」。2週間後に、仕事に復帰。激動の中、阪神の安芸キャンプへ行き、センバツも開催された。甲子園は心の支えとなった。「今思うと、近隣の方の負担はあったと思う。でも当時は試合ができるのがうれしかった。いつもの光景が見たいな、と思っていた」。球児が黒土や芝生の上を駆ける。整備にも力がこもった。
金沢さんは52歳。母が亡くなった時と同じ年齢になった。「おいしいものを食べて、毎日笑って過ごせている。仕事にも恵まれた。子どもの頃から出入りした甲子園に守ってもらった人生。甲子園があるから、今がある」。母が導いてくれた場所で、普通の日々をかみしめている。【田口真一郎】
◆金沢健児(かなざわ・けんじ)1967年6月6日生まれ、兵庫県神戸市出身。学生時代に甲子園球場でグラウンド整備などのアルバイトを経験。高校卒業後に2年間、会社員としてOA機器の営業職に従事し、88年3月に阪神園芸に入社。甲子園やグリーンスタジアム神戸(現ほっともっと神戸)などのグラウンドキーパーとして、技術を磨き、03年からチーフグラウンドキーパー。現在は甲子園施設部長。
◆阪神・淡路大震災 1995年(平7)1月17日午前5時46分、兵庫県淡路島北部を震源にマグニチュード(M)7・3の地震が発生。神戸市などで観測史上初の震度7を記録。死者6434人、重傷者約1万人、被害家屋は約64万棟に上った。国内の大都市を襲った地震としては戦後最悪。

日刊スポーツ

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