5連打で0点、3連続三塁打…。バルボンが覚えていた阪急の珍プレー

1月17日(金)6時40分 Sportiva

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第6回 バルボン・後編 (前編から読む>>)

 平成の世にあっても、どこかセピア色に映っていた「昭和」。まして元号が令和になったいま、昭和は遠い過去になろうとしている。そんな時代を彩った選手の過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、個性あふれる「昭和プロ野球人」の真髄に迫るシリーズ。

 キューバからの来日当初のエピソードや大エースたちとの対戦を楽しそうに話した前編に引き続き、ロベルト・バルボンさんの証言は選手引退後に話題となった”おもろい通訳さん”時代に及んでいく。


クラシックなユニフォームが似合う現役時代のバルボンさん


* * *

 ずっと笑いっぱなしで、笑わされっぱなし。笑いが記憶を呼び覚ますのか、バルボンさんの話に加速がついた。

「あと、昔の話でね、いっちばん言いたいこと。この記録、絶対破れへんと思うわ。あのね、1回の表、連続5安打で1点も取れんかった。まずボクがヒット打って、盗塁失敗でアウト。次の岡島博治(ひろじ)がセンター前に打って、その次、戸口天従(たかつぐ)。レフト前打ったけど、岡島がサード欲張ってアウト。で、次、中田昌宏がライト前打って、一、二塁になった。それで次、早瀬方禧(まさよし)。センター前打って、戸口がホーム走ったけど、バックホームアウトや。クックック」

 1963年8月14日、日生球場での対近鉄19回戦での珍事。すべてフォースアウトではなくタッチアウト、というのも面白い。2500人の観衆は大笑いだったそうだが、初回の拙攻が響いた形で相手先発の久保征弘(ゆきひろ)に12安打を浴びせながら完投を許し、阪急は3対8で敗れた。

「あと、もうひとつ、連続三塁打3本! まず8番、河野が打って、9番、ピッチャーの原田孝一が打って。その次、1番のボクが打って、連続三塁打3本やな。本塁打の連続3本なら、今も昔もよくあるんちゃうか? 三塁打はなかなかないわ」

 
 これは55年5月21日の対近鉄3回戦。阪急先発はエースの梶本隆夫だったが、初回4失点でKO。直後の2回表、阪急はまず8番・河野が三塁線を抜くと、梶本をリリーフした9番・原田、1番・バルボンさんも右中間を破って3連続三塁打。その後も猛攻が続いて一挙6点を取り、結局、9対5で阪急が勝った。それにつけてもバルボンさんの記憶力はすごい。これも野球センスにつながっていたのでは、と思える。

「で、ボク、三塁打王、2回なったんや。外野の間に打ったら、足速かったからね。もちろん狙っては打てないけど、やっぱり、一度、外野の肩、考えるわな。ボク、いつも試合始まる前、内外野の選手、どんな肩してるのかな、と見てた。当時、みんなほとんど見てないわ。肩強いか弱いか、そのぐらい試合始まる前に見たらいい、いう気はしてたわな。そのほうがあとからやりやすいと思ってたわ。昔の球場、狭いとこ多かったしな」

 プレーのみならず、準備に関しても抜け目のない選手像が浮かんできた。しかしそんなバルボンさんでも、帰国できなくなるという苦難を乗り越えるのは大変だったに違いない。キューバ革命が起きたときの、母国への思いはどうだったのか。

「いや結局、革命あった年もね、帰る予定やったよ。でも、飛行機、飛ばへんかった。だいたい3〜4年ぐらいな。ほな、帰られへんわ。ホンマに帰りたかったけど、結局、飛ばへんや。飛ばへんかったら、帰られへんちゃうか? ハッハッハ」

 笑顔は絶やされていないが、帰国のための空路が遮断された事実だけが繰り返された。当然ながら、あまり当時を思い返したくないのだろう。資料によれば、バルボンさんは62年に日本人女性と結婚。やがて女の子が産まれた。家庭を持つと決めたときには日本で生きていく覚悟があったのだろうし、家族の支えがあって後の野球人生を全うできたのだとしたら、それは幸せなことだ。

「幸せよ、ボク。日本来てよかったよ。向こうにおったら、今頃、死んでるかわからへんな。ハッハッハ。それでね、88年か、30年ぶりにキューバ帰ったよ。うれしかったけど、何もなかった。一緒に野球やってた友だち、生きてる人もおったけど、死んでる人もおった。今はね、帰ろうと思ったらいつでも帰れる。でも兄弟みんな亡くなって、残ってるのボクだけ。甥はいっぱいおるけど、ほとんど顔知らんわね。もちろんお父さんとお母さんも亡くなってる。今帰ってもしゃあないわ」


 88年オフ、広島が中南米遠征を行なった際、バルボンさんは臨時通訳としてチームに帯同。キューバに立ち寄ると元気だった3人の兄に喜ばれた。が、その兄も他界し、家族がいなくなった今、母国は帰る場所ではなくなった。悲しい話だが、まさに日本の家族に支えられ、救われたのだ。

「ホンマに。今はもう沖縄から北海道まで、どこでも行ったら必ず友だちいっぱいおるし。ボク、野球やめてから40年以上になるけど、今でも街行ったら、ほとんどボクの顔知ってるし。最高と思うわ。だからホンマ幸せや、ボク。解説もナンボでもやったことあるし、映画も出たことあるしな。ヒャッハッハ。これ以上もうないわ!」

 胸一杯に溜めていた息をすべて吐き出すようにして、声に力が込められていた。現役引退後、バルボンさんは神戸にピザのお店を開いた。それから8年が経って、阪急の上田利治監督からコーチ就任を要請される。2年間、務めた後、76年から通訳となった。

「マルカーノ、ウィリアムス来て、通訳やることになったんや。そのあと、ブーマーも来て。通訳は20年近くやったんとちゃうか。でも、これ、今でも言われるわ。『お前、選手こんなこと言うとるのに、違うこと訳してんのちゃうか?』って。ハッハッハ」

 やはりファンキーな部分はあったようだが、バルボンさんが通訳を担当した時代、阪急は助っ人の活躍が目立った。ボビー・マルカーノはコンスタントに3割前後の打率と20本塁打以上を記録し、78年は打点王獲得。75年から8年間、阪急でプレーした。また、外野手のバーニー・ウィリアムスは75年の来日から6年連続で二桁本塁打。さらにブーマー・ウェルズは84年に三冠王を獲得している。彼らが日本に順応する過程、通訳以上の存在になっていたのではないか。

「同じ通訳でも、できたら野球少し知ってる人、もっとやりやすいと思うね。ボク、選手で10年ぐらいやったし、日本のことも、野球のことも、よう知ってたから、やりやすい選手、多かったと思うわ。だいたい相手のピッチャー、特徴わかるしね。『このピッチャー、3球のうち、こんなボール絶対ほうってくる、勝負のボールこれ』言うたら、打ちやすいしな」


 英語、スペイン語、母国の言葉で日本の野球、日本の投手の特徴を教えられる存在は助っ人にとって大きい。通訳担当が言葉だけではなく野球も訳せたらベスト、ということだ。

「ある程度、通訳が野球わかってたらやりやすいと思うわ。まあ、あんまり自分でこんなこと言うたくないわ。自慢になっちゃうからな。でも、少しでも野球知ってるだけでだいぶ違うと思うわ」

 謙遜(けんそん)が入るあたりは日本人的な感覚だと思うが、バルボンさんは通訳としては日本プロ野球史上、唯一無二の存在だ。しかも、チーム強化のために通訳以上の役割を果たした間、阪急は3度の日本一、5度のリーグ優勝を成し遂げている。その存在は少なからず勝利に貢献していたのだ。

「上田さんから、『チコさん、ガイジン来たら必ずあなたに任す』って言うてくれた。それはうれしかったわ。考えてみたら、日本のプロ野球、通訳も変わったな。今はどんなチームでも2〜3人おるよ。みんな幸せやと思うわ。しかしボク、日本をよう見てるな、ホンマに。50年、50年以上見てる」

 50年の野球界の変化を、バルボンさんはすべてしっかり見てきた。変化のなかでは阪急がオリックスとなり、近鉄との合併もあり、ブレーブス、ブルーウェーブ、バファローズとチーム名も変わってきた。それでもずっと、バルボンさんは球団での仕事を続けてきた。

「働きがいいんとちゃうか? ハッハッハ。しかしホンマに50年ちょっとなあ、半世紀や。まさか、日本に半世紀おるようになるなんて思わんかったわ。だからさっき言うた、日本に来てよかった、いうことやな。ホンマにもう、これ最高だと思うわ。最高や!」

 では、バルボンさんが日本に来る前から変わらず大事にしてきたものは何か。

「それは野球しかないわ。でも、今大事にしてるのは奥さんと娘やな。だから今はその次が野球や。ボク、野球取られてしもたら、空っぽになってしまう。野球ない日は寂しいわ。今でも一日、朝から大リーグの試合見て、夜は12時頃まで日本の野球のニュース見てる。今日もね、朝8時から大リーグ。それでこれからオリックスの試合や。とにかく野球大好きや。一日中見ても絶対、飽きへん」


 セ・パ交流戦、オリックス対広島の開始が1時間後に迫っていた。取材のタイムリミットが過ぎ、バルボンさんの写真をスタンドで撮らせてもらうことになり、一緒に応接室を出て通路を歩いた。すれ違う人たちすべてと「おはようございます」「おお、こんちわ、元気?」と挨拶を交わしていく。


スタンドで練習を見つめる、取材当時のバルボンさん



 程なくして球団事務所のエントランスに着くと、白髪の男性がエレベーターを待っていた。すぐにバルボンさんが笑顔で「ハイ、カジ!」と声をかけたその人は、通算254勝を挙げた阪急のエース、梶本隆夫だった。解説の仕事で来場したのだろう。穏やかな表情で軽くうなずいていた。

 すると、エレベーターの脇にオリックスの外国人選手たち3人が連れ立って歩いてきた。バルボンさんは「ハワユー・メン!」と声をかけ、一言二言、話をした。さらにスタンドへの階段を上がったところで2人組の婦人に「こんにちは。お久しぶりです」と声をかけられると、「おうおうおう、元気?」と笑顔で応対していた。

 球団職員やOB、選手はもちろん、ファンともごく普通に言葉を交わし、観客席の通路を進んで記者席に着けば、野球解説者に「おはようございます」。最初に挨拶したときと同じく、背筋がピンと伸びていた。今、一緒に歩いて見てきたものすべてが、来日52年目を迎えたバルボンさんの足跡なのだ、と僕は思った。

(2006年6月7日取材)

Sportiva

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