息子・砂子塾長が語るレジェンドレーサー砂子義一氏「日本一ぶっ飛んだレーサーだった」

1月20日(月)12時19分 AUTOSPORT web

 日本のモータースポーツ黎明期を支えた砂子義一氏が2020年1月3日に亡くなった。


 砂子氏は、ヤマハのワークスライダーとして二輪レースの世界選手権WGPを戦った後、1963年にはプリンス自動車と契約を結び四輪レースへ転向した。


 1966年に富士スピードウェイで行われた第3回日本GPで戦後日本初のプロトタイプレーシングカー『プリンスR380 A-I』をドライブし、2位以下に3周差をつけて優勝を飾るなど、プリンス自動車、日産自動車のワークスドライバーとして活躍。


 1971年に現役を退いたあとは実業家として活動していた。


 砂子義一氏が現役を退いたのは1971年とあって、当時を詳しく知る人はよほどのオールドファンでもない限り、そうは多くないはずだ。そこで砂子氏が最も身近な存在だったレーシングドライバーであり、息子である砂子塾長に、砂子義一氏の人物像を振り返ってもらった。


「実は俺も、レースを見たという記憶はないんだ。なにせ引退したのは、俺が6歳とか7歳の頃だからね。正確には、それこそ赤ん坊の頃に抱っこされて、鈴鹿に行ったことあるらしいけど……。あと、富士のテストかなんかをドライバーズサロンで見た記憶が、うっすらあるけど、まだ幼稚園の頃だったから、それより脇の草むらでバッタやトカゲを追っかけていて、そっちの方が楽しかった。まだレースには興味はなかったしね」

2018年のNISMO FESTIVALに参加していた砂子義一氏
2018年のNISMO FESTIVALに参加していた砂子義一氏


 塾長をもってしても、現役の頃の印象はないという。ただ、ニスモフェスティバルなどイベントに訪れ、我々が抱く『陽気なファンキーなおじいちゃん』という印象は、まったく普段からそのままだったという。


「どういう人だったかと言うと、ひどい(笑)。ひどい人だった。もう、書けない話ばっかりで、ぶっ飛んでいる人。世の中の常識が通用しなかった」


「日本一ぶっ飛んだレーサーという印象だったけど、現役当時からだと思うよ。鈴鹿のテストを終えて、伊丹空港で飛行機に乗って銀座で遊んで、次の朝また伊丹から鈴鹿に戻ってテストするとか。そういう伝説はいっぱいあって、自分自身も隠さずに話していたけどね」


 その一方で、今日まで名を残すだけの存在でもあったことも明らかにしてくれた。


「まだレースにプロフェッショナルというのがいなかった時代に、ひょんなことからヤマハで、旋盤工かなんかで働いていて。昼休みに広場で乗っている連中を見て、『俺の方が速い!』と言って、乗ったら本当にぶっちぎっちゃったという」


「派遣みたいなので行っていたんだろうね。3カ月ぐらいで帰ってきたら、家に電話がヤマハのチームから電話がかかってきて、大至急、浜松に帰ってきてライダー契約させてくれないかとオファーあったみたい」


「それほど人材を探していて、速いライダーが欲しかったんだろうね。まだプロがいない時代に初めての契約をしたわけだから、日本初と言ってもいい。そこは俺も誇りに思っているところだよ」


「お金持ちの道楽だったわけではなくて、なりたくてなったわけでもなくて。才能が発見されたという経緯で、まさに夢物語というか、サクセスストーリーだと思う。今ではあり得ない」


「二輪から四輪への移行も時代にマッチしたんじゃないかな。ちょうど四輪も自動車メーカーが参戦し始めて、優秀なドライバーを探し始めた時に、二輪にはもうプロがいる。だったら、そいつら使ったら速いんじゃという発想で誘われたわけじゃない? 最初はひどかったらしいけど、走らせ方を覚えたら速かったんだから、時代と親父の生き方がちょうどマッチした」


「引退は早かったね。40歳前には辞めちゃっている。オイルショックになってグランプリ撤退で、それで辞めちゃった感じだよね。そこで『俺が乗らなくても、いいんじゃ?』という感じだったのかもしれないね」


「引退した後はマネージャーをやっていたみたいだけど、やっぱり契約であったり、待遇だったりを他のドライバーは言いづらいけど、親父は言っちゃうタイプなので……。兄貴分というのかな。それでそういうキャプテンみたいな仕事やっていたみたい」


 最後の一言は、実績のみならず、砂子氏の人柄を物語るエピソードであり、誰からも慕われていたことを物語っている。


■塾長が語る砂子義一氏の父親像


 ただ、自宅ではレースの話をすることは「全然なかった」という。そんな塾長が、砂子氏を始めとする1960年代のドライバーのすごさを実感したのは、自身でプリンスR380をドライブした時だった。


「だいぶ前なんだけど、R380に乗って。ピット出る時点で、細いステアリングシャフトがねじれているのが分かるのよ(笑)。『やば、これ、なんだ?』って。しかもストレートで4速入ったぐらいで、フロントがリフトし始めるのね」


「ステアリングが軽くなって、『うわ、怖ぇ』って。怖いも何も、ダウンフォースって概念がなかった時代だからね。当時はアクセル全開で、260km/hぐらいで富士のバンクに入っていたみたい。だから、ドラテクの前に、先に頭のネジが緩んでいないとね。それこそ命がけ。だからこそ、お金がもらえたんだよ」


「まぁ、みんなが憧れる。その当時ってチャラチャラしているように見えて、常に死があったと思うんだよね。豪快にやって、遊んで、ふざけているように見えても、そういう意味では武士というか、そんなふうに感じる」


「またR380の話になるけど、ペラッペラの燃料タンクが運転席の脇にあるんだよ。なんでここにつけるの?って。本当のところは分からないけど、当時の日本の考え方は、まだゼロ戦引きずっていて、速ければいいだろう、ドライバーは頑張ればいいってところが名残としてあったんだと思う。でも、60年代は多くのドライバーが亡くなって、それで安全性にどんどんシフトしていったんじゃないかな」


 やがて塾長もレースデビューを果たすわけだが、きっかけは砂子氏の存在があったからだが、レースに対するサポートは一切なかったという。


「きっかけは、親父だったよね。家にオートスポーツとかあったから、子供の時からクルマやレースはかっこいいなというのを自然と植えつけられている。もうひとつは親父ができるんだから、俺もできる的なノリもあった。何の根拠もないけどね」


「親父にやらされたとかいうのはぜんぜんなくて、一銭たりとも出してくれなかった。口聞いてやるとか、そういうのも一切ない。俺がフォーミュラやっている時に、借金を頼んだら、『何言ってんの?』って言われたよ。『レースって、お金をもらってやるもんだからね、どうしてお前が払うの? 金もらえねぇなら辞めちまえ!』って一掃されたほど」


「自分はそういう経験しかしていないし、それぐらいの才能しかないなら辞めとけというのもあるんだろうけど。その時はお袋に借りたんだけどね。でも、いちばん最初の二十歳の頃、あっちこっちオーディションのところに『ぜひ乗せてください』ってラブレターを書いていてんだよ。ろくすっぽ乗ったことがない奴がね」


「よくそんな図々しい手紙を出すなという話だけど、ひとつのところが『砂子』ってところに食いついてくれてね。『え、だれ、こいつ砂子って』、で、『ひょっとして?』で、オーディション受けさせてくれた。それが最初のきっかけ。だからそれは『砂子』って名前に大感謝だよ」


「だけど、何にも手助けはしてくれなかった。そこは教育上はっきりしていた感じで、徹底していたよね。おかげで、この業界においては砂子義一の息子っていう部分から離れて、ひとりのドライバーとして見てもらえた」と語る砂子塾長。


 インタビュー中には、かなりきわどい話もあった。


「みんなで、ニスモフェスティバルで会食するじゃない? その時に、当時のレースの話を聞きたいけど、レースの話は一切しない。オネェちゃんの話しかしない。あと、俺が生まれて……」


 もっと知りたいという方は、塾長の忙しくない時に直接聞いてみるといい。きっと爆笑の連続のはずだ。


 そのニスモフェスティバルには昨年、出席しなかった砂子氏。その日はツーリングに行く予定があったそうで、当初より欠席のはずだった。


「でも、暮れの23日に入院しちゃってね。その時から、ああそろそろやばいかなって感じた。それでも、あと半年ぐらいかなと思ったら、その10日後だよ。亡くなったのは……。87歳だし、大往生だよね。レーサーとして本当に速く駆け抜けていっちゃった。それも親父の美学だったのかもしれないね」と父・砂子義一氏を振り返った。


 日本のモータースポーツ黎明期支え、多大なる貢献をした故人に、心から哀悼の意を表します。


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