横浜F消滅、サポーターが直面した現実。受け皿としての横浜FC、破綻した再建の方針【フリューゲルスの悲劇:20年目の真実】

3月15日(水)10時29分 フットボールチャンネル

署名活動に奔走した日々。エスパルスの前例

 かつて、横浜フリューゲルスというJクラブがあった。Jリーグ発足当初の10クラブに名を連ねた同クラブは、1999年元日の天皇杯制覇をもって消滅。横浜マリノス(当時)との合併が発表されてから2018年で20年となる。Jリーグ発足から5年ほどで起きたクラブ消滅という一大事件を、いま改めて問い直したい。【後編】(取材・文:宇都宮徹壱)

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 川淵さんとお会いした時に心に残ったのが「たくさんの署名が集まって民意が結集したら、もしかしたら何かが変わるかもしれない」という言葉でした。

 それを聞いて、「やっぱり署名か!」って思いましたね。それからは必死で、署名集めに奔走しました。エスパルスサポの友だちから「1枚の紙に10人分の署名が書けるようにすると、集計する時に楽だよ」って教えてもらいました。

 前の年(97年)、エスパルスも運営会社(エスラップ・コミュニケーションズ)が経営危機になって、サポーターが署名活動していたんですよ。ですので、彼からはいろいろ参考になるアドバイスをもらいました。

 署名活動に関しては、それまで仲違いしていたTIFOSIとも協力してやっていましたね。応援のやり方では意見が対立していましたけど、署名に関しては統一のルールを決めて連携をとることができました。

 他サポの仲間たちも「俺たちのところでも集めるから(署名用紙を)FAXしてくれ」と言ってくれて。私たちも、自分たちの試合ではない会場で署名集めをやっていましたね。

 試合がある週末は、応援するグループと署名を集めるグループに分かれて活動していました。あの時は、どちらもサポにとって大事な「仕事」でしたから。

 スタジアム以外でも、本当にいろんなところでやりましたね。たとえば原宿とか。たまたま知り合いに原宿の商店街理事の人がいて、竹下口を出たところの小さな場所を「ここだったら迷惑かからないからやってもいいよ」ということで、ユニフォームを着て署名集めを始めたんですよ。そしたら、普段サッカーを観ていないような若い子たちが集まってきて、一気に行列ができましたね。

 それと私、当時は住所や電話番号をネットなんかで晒していたので、自宅に署名を送ってくれる人もいました。名古屋方面から送られてきた署名は、明らかに子供の字で「楢崎(正剛)選手がんばれ」とか書いてあって、ちょっとジンときましたね。

喜んで署名をしてくれた鹿島のブラジル人選手たち

 あと、その年のトヨタカップ(レアル・マドリー対ヴァスコ・ダ・ガマ)で署名活動をしていたら、バックスタンドでアントラーズの選手やスタッフが観戦していたんですね。最初、ビスマルクに気がついて、よく見たらジョルジーニョもいるし、フィジコの里内(猛)さんもいるし。

 事情を説明したら、選手の家族までもが喜んで署名してくれました。アントラーズのブラジル人選手は、ウチのジーニョやサンパイオなんかと仲が良かったし、名勝負を繰り広げてきたこともあったので、いろいろ励ましの言葉もいただきました。

 そうやって集めた署名は、37万人くらいの段階でいったん段ボール箱に詰めてJリーグに運んでいった記憶がありますね。最終的には62万人分くらい集まりましたかね。

 それでも12月くらいになると、川淵さんが言うような「何かが変わるかもしれない」というのは、厳しいんじゃないかと思うようになっていました。それでも「何か協力したい」と思うファンの中には、署名活動をするしかチームに貢献できないという人も結構いて、言葉は悪いけど「エネルギーの発散」みたいになっていたところはあったと思います。

(天皇杯が始まってからは)「絶対に負けない」って信じていました。根拠ですか? そんなのないですよ(笑)。そう思いたいから、信じていたんでしょうね。

 その頃、私は「サポーター代表」として、よくTVのインタビューを受けることがあったんですけど「今日、負けたらどうするんですか?」とか聞いてくるんですよ。こいつ、失礼だなって思って(怒)。

 でも、無理もないと思います。準々決勝がジュビロで、準決勝がアントラーズ。この年のファーストステージとセカンドステージの優勝チームでしたから。

「負けたら解散」という状況で挑んだ天皇杯

 もちろん実力的なことを言ったら、負けてもおかしくなかったって今なら思います。それでも、不可能はないって当時は思っていました。選手たちの戦う姿を見ていると、本当に覚悟を決めて戦っているのが伝わってきましたし、「負けたら解散」という緊張感もありましたからね。

 とにかく、ものすごい一体感がありました。あの年の戦力って、そんなに充実していたわけではなかった。それでも、ああいう切羽詰まった状況だったから勝ち上がれたというのは、きっとあったと思うんですよ。

 だからこそ、サポーターは最後まで信じて応援するしかない。「決勝のチケット、買うべきかなあ」とか言っているやつには「バカ、買っとけ! 今すぐ買え!」って言いましたね。私たちが信じなくて、誰が信じてやるんだって話ですよ。

(準決勝で鹿島に勝って)決勝進出が決まったときですか? とにかく一世一代の晴れ舞台にしてやりたい。それしか頭になかったです。初めてのコレオの準備をしたり、鹿児島JETS(JETSの鹿児島支部)が作成したビッグフラッグを国立に持ってきてもらったり。それとは別に、試合が終わったら選手たちにメッセージを贈りたいって思ったんです。で、こんなメッセージを考えたんですよ。

「この想いは決して終わりじゃない。なぜなら終わらせないと僕らが決めたから。いろんなところへ行っていろんな夢を見ておいで。そして最後に……。君のそばで会おう」

 実はこれ、当時大好きだった銀色夏生さんという作詞家の『君のそばで会おう』という詩集からのパクリなんですけど。決勝が終わったら、勝っても負けてもフリューゲルスはなくなって、みんな散り散りになってしまう。

 それでも、またどこかで一緒にやりたいねっていう想いを文章にしたくて。そしたら「こんなの文字が多すぎて読めないよ」って言う人がいたんですね。「じゃあ、大きく書けばいいじゃん!」と思って。

合併発表から解散まで涙を流す暇がなかった

 決勝前日の大晦日は、今でも忘れられない思い出ですね。(対戦相手の)エスパルスのサポの子たちも徹夜していて、みんなで鍋を囲みながら酒を飲んでカウントダウンやって。

 年を越してから、なんとなく車で寝る人やいったん家に帰る人が増えて、人気が少なくなってきてから数人のメンバーとまず模造紙100枚をガムテで張り合わせる作業をしました。

 それから、張り合わせた巨大な紙に下書きもなく、大きな刷毛で文字を書くんだけど、靴を履いていると紙が汚れてしまうから、冷たく凍るようなアスファルトの上で靴を脱いで書き続けました。

 ようやく明け方に書き終わったんだけど、冬だからなかなか墨汁が乾かない。朝になって仲間が集まってきて、乾ききってないところをティッシュで拭き取って、それから強引に畳んでみんなでわっせわっせとスタンドに運び込みましたね。

 決勝の本番は、とにかく忙しかったです。コレオやビッグフラッグのオペレーションがあったし、TV局が私の密着取材をしていたし、全国からサポ仲間が挨拶に来てくれたし、プチ有名人だったので「一緒に写真撮らせてください」ってあちこちで声をかけられたし、本当にてんてこ舞いだった。

 だから優勝した時も、余韻に浸っている暇はなかったかな。優勝した嬉しさとこれで終わりという悲しさが混じって、どっちの感情にもピントがあわなかったし、ピッチに飛び込んだバカもいたし(苦笑)。

 ただ、あの模造紙に書いたメッセージは、無事にゴール裏で広げることができて嬉しかったです。翌日は休刊日でしたけど、1月3日の新聞に写真付きで載りましたしね。

 結局(マリノスとの合併が報じられた)10月29日から、次の年の1月1日まで、涙を流すことはなかったです。というか、泣いている暇がなかった。最初は(合併が撤回される)奇跡が起こるかもと思って署名活動に一生懸命だったし、天皇杯が始まったら決勝まで勝ってもらうことしか考えていなかったし。でも「なんか違うな」って感じたのが、表彰式が終わって夕方に新横浜駅前で行われた優勝報告会でした。

 選手がひとりずつ「応援、ありがとうございました。僕は(来季から)●●へ行きます!」って挨拶するんだけど、みんな表情が妙に明るいんですよ。一応、優勝報告会ですからね。勝った喜びもあったのでしょうが、何だかサポーターだけが置き去りにされているように私は感じられて。

 で、報告会が終わって選手がフワッといなくなった時、初めて寂しい気持ちになりましたね。ああ、この選手たちが全員揃うことは、もう二度とないんだ。そう思うと、急に寂しくなってしまって……。

横浜FCは私が思っていた方向にはいかなかった

 実は私、98年の11月くらいから横浜FCの運営会社となる横浜フリエスポーツクラブの立ち上げに関わっていたんです。そっちのほうでも忙しかったんですよ。

 ただ、私が作りたかったのは新しいクラブではなくて、「新しいフリューゲルス」。名称とか、チームカラーとか、歴史とかを引き継いだクラブとして再建させたかったんです。

 ただし「フリューゲルス」という名前の商標を含めて、マリノスに「合併」されて使えなかったんですね。だから会社名には「フリエ」を使って、チーム名は無難な「横浜FC」にしたんです。もっとも、私は勝手に「FCのFは『フリューゲルス』のFなんだ」って思っていましたけど。

「横浜FC=横浜フリューゲルス」という気持で、最初のうちは私も横浜FCを応援していたんです。でも、だんだん「これは違うな」と思うようになっていましたね。

 ここにはもう、自分の居場所はない──。そう悟って、スタジアムから足が遠のいてしまったのが2002年。その頃には、すでに横浜FC時代しか知らないサポーターがどんどん増えていったし、フリューゲルス再建派と新しくできた横浜FCというチームが好きな人の間で、気持ちのズレが生じるようになって。

 いつしか「フリューゲルスを再建したい」という当初の目的も、完全に破綻していました。そしてASA AZULも、解散式をやらないまま自然消滅しましたね。

 私にとってのフリューゲルスですか?「そこにあるのが当たり前」という、空気のような存在。だから、チームがなくなってしまうなんて、自分が何をしていいのかわからないだろうと不安だった。

 素人ながらに試合の分析をするとか、年間シートを購入するとか、遠征の準備をするとか、新しい選手のチャントを考えるとか、そういうのが全部なくなってしまって。

 フリューゲルスに対する思いは人それぞれだと思うけど、今風に言うなら「フリューゲルス・ロス」に耐えられないファンが、フリューゲルスの受け皿となるようにと横浜FCを作った。

 でも、結果的には違う方向にいってしまって、またもや居場所を失いました。だから私、2回死んだような気持ちになりましたよ。

 ただ、海のものとも山のものともわからない横浜FCに入団してくれた選手たちには感謝していますし、横浜FC初期の頃に一緒に応援してくださったファンの方々には感謝しています。あの頃は、とても楽しかったです。

(文中敬称略)

(取材・文:宇都宮徹壱)

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