センバツ大阪2強・大阪桐蔭と履正社、それぞれの強さの秘密

3月15日(水)11時0分 NEWSポストセブン

センバツ2強、大阪桐蔭と履正社の強さの秘密は?

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 3月19日に開幕するセンバツ甲子園。怪物スラッガー・清宮幸太郎(早稲田実業)と並んで注目されるのが激戦区大阪から出場する大阪桐蔭と履正社だ。新刊『永遠(とわ)のPL学園 六〇年目のゲームセット』を上梓した柳川悠二氏(ノンフィクションライター)が両校の強さの秘密に迫る。


 * * *

 陽が沈み、ライトに照らされた大阪桐蔭グラウンドの一塁側ブルペンで、ふたりの1年生投手が白球を投げ込んでいた。


「今のカーブ、うまく腕が抜けてて、良い感じでした。次、ストレートいきます!」


 爽快な声の主は根尾昂(あきら)。岐阜県の飛騨高山出身の彼は、中学時代に146キロを記録し、入学前から注目を集めていた“怪物右腕”だ。中田翔(日本ハム)、森友哉(西武)など“やんちゃ”な印象のOBが多い中で、両親とも医師という根尾は中学時代の成績がオール5で、生徒会長を務めた秀才だ。


 隣で投げていたのは190センチ左腕の横川凱(かい)。全国的には無名の存在だが、直球はやはり140キロを超える。


 彼らは100回目となる来夏の選手権大会を3年生として迎える。記念大会制覇を見据え、監督の西谷浩一(47)が例年になく“補強”に力を入れた世代と噂された。西谷は苦笑いする。


「記念大会に向けたチーム作りでは絶対にありません。今年の選抜も、夏も勝ちたいし、来年の100回大会、再来年の101回大会も同じように勝ちたい」


 大阪桐蔭野球部は、これまで春1回、夏4回の甲子園制覇を誇る。だが、直近の2年で大阪桐蔭を凌ぐ戦績を残している学校が同じ大阪にある。


 2年連続トリプルスリーを達成した山田哲人(ヤクルト)や、今年ドラフト1位でヤクルトに入団した寺島成輝を輩出した履正社だ。


 寺島がいた昨年のチームは、夏の甲子園でベスト16、国体では初優勝を果たした。新チームとなった昨秋、神宮大会では清宮幸太郎のいる早稲田実業に打ち勝ち、日本一に輝いた。1987年から指揮をとる監督の岡田龍生(55)は謙遜しながらこの2年の快進撃を振り返った。


「力のあった寺島の代のチームが、2015年秋の大阪大会3位決定戦に負けて、2016年選抜に出られなかった。その悔しい1敗が去年と今年のチームを成長させてくれました」


 選抜でも覇を競う両指揮官は、経歴や指導、選手勧誘の方針からして対照的だ。


◆PLに勝ちたいんや


 履正社の岡田は、1961年に大阪に生まれた。母は戦後間もない50年からおよそ2年間行われた女子プロ野球の第一号選手で、岡田少年のキャッチボールの相手をしていた。


「礼儀や躾(しつけ)に厳しく、ようけしばかれました(笑)」


 高校は兵庫の東洋大姫路に進学。当時の兵庫では、報徳学園と2強を形成していた。報徳に勝てば監督の機嫌が良く、負ければ地獄が待っていた。


「当時の高校野球には厳しい上下関係があり、根性とか、執念とかの世界。もはや部活動ではなく修業ですよね。練習中は監督に、終われば先輩にいつしばかれるかわからない恐怖があり、毎日、練習が嫌で仕方なかった。1979年の選抜には出ましたが、卒業後は完全に燃え尽き症候群に陥りました」


 引退後、桜宮高校のコーチを経て、履正社の監督となったのは1987年のことだ。その年、立浪和義らがいた同じ大阪のPL学園が春夏連覇を達成した。


「当時の履正社は選手もおらへんし、PLと勝負できる実力ではないのに、“PLに勝つか、オレにしばかれるか”というような恐怖政治を敷いていました」


 10年後の1997年夏には甲子園出場を果たすが、チーム力を持続できない。転機は2002年。岡田は生徒に手をあげ、高野連から6カ月の謹慎処分を受けた。


「結局、やらされる練習では生徒も野球を楽しめず、上達しない。それからは自主性を重んじ、練習の質を求めた。毎日のテーマを決め、選手自ら課題と向き合い、考えさせるような形に変えました」


 岡田を訪ねた日、最初の練習メニューであるキャッチボールから選手に寄り添い丁寧に指導していた。


「グラブの捕球面をはっきり相手に見せるんや!」


 岡田は言う。


「プロを見ても、基本練習ばかり。山田にしても(T−)岡田(現オリックス)にしても、卒業生がプロで活躍する確率が高いのは、基本を大切にしてきたからだと思っています」


 今年も、ドラフト上位候補がいる。清宮と並ぶ左の強打者・安田尚憲だ。安田は「秋に続いて選抜、夏も日本一になりたい」と高い目標を口にしている。一方、大阪桐蔭の西谷は、8歳上の岡田が通った東洋大姫路と兵庫でライバル関係にある報徳学園のOBだ。


 1969年、兵庫県宝塚市に生まれた西谷にとって、小学6年生だった1981年、エースで4番の金村義明を中心に全国制覇を成し遂げた報徳は憧れだった。しかし入学後、1年の冬にチーム内で不祥事が起きて対外試合禁止処分に。最後の夏も暴力事件が発覚して出場辞退となり、3年間で一度も、甲子園に出場できなかった。西谷が言う。


「だからこそ甲子園に対する思いは人一倍強いと思うんです。監督として甲子園に出る度に選手をうらやましく思う。甲子園に足を踏み入れれば『帰って来られた』と思うし、敗れて後にするときは『また戻って来られるのか』と不安になる」


 関西大学を卒業後は母校のコーチを一時務め、1993年から大阪桐蔭のコーチに就任する。岡田と同様、目標としたのはあの学校だった。


「どうやったらPLを倒せるか。そればかり考えていました。最初は、良い選手さえ獲れれば差は縮まると思っていました。ところが、誘ってもなかなか入学してもらえない。PLに『A(クラス)』の選手が行くとしたら、うちにはやや劣る『B』の選手しか来ない。そんな状況でPLと同じことをやっていたら、一向に差は埋まりませんよね」


 PLでは入学した1年生が上級生の付き人となり、身の回りの世話をするのが伝統だった。大阪桐蔭でもそれを踏襲していたが、西谷は改革を断行する。


「PLの1年生が先輩の世話に時間を取られている間、うちの1年生に練習させれば、Bの選手がBダッシュまで成長できるかもしれない。それでようやく、PLと勝負になる。当時の上級生達に頭を下げ、洗濯などを各自でやらせるようにしました。そして1年生には朝の5時から練習を課し、私も付き合いました」


 その後、PLは不祥事が重なり、それが一因となって昨年、廃部に追い込まれた。その過程は新著『永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット』に詳述したが、1998年に西谷が監督となった大阪桐蔭が、PLに替わる大阪の雄となっていく。


「ただ、今もPLに追いついたとは思えません。記録でも記憶でも超えられない。それがPLだと思うんです」


 西谷はそう呟いた。


◆寮の桐蔭、通いの履正社


 違ったやり方でPLを追いかけ、現在の高校球界を引っ張る大阪桐蔭と履正社では、生活や練習の環境が大きく異なる。全寮制の大阪桐蔭の選手が24時間、野球漬けの日々を送る一方、履正社には寮がない。授業が終わると全員でバスに乗り、40分かけて専用グラウンドに移動。帰宅に時間を取られる生徒もいるため、平日は練習を4時間で終え、グラウンドに残って自主練習することも難しい。


 寮のある大阪桐蔭が遠方の選手を受け入れられる一方、「自宅から通いたい」と考えて履正社を選ぶ関西圏の生徒も出てくる。勧誘の際、岡田は家庭環境を確認するという。


「選手は練習後、自宅で食事をするわけですから、ちゃんと栄養ある食事を食べさせているのか。ややこしい家庭環境にないか。面談で確認し、その結果、お断りすることもあります」


 対する西谷の選手勧誘は“粘り強さ”が有名だ。中学野球の現場に頻繁に足を運び、惚れ込んだ選手は最後まで熱心に口説く。


 昨年夏、筆者は中学時代にU・15侍ジャパンのエースだった高校1年生を取材した。全国の強豪40校から声がかかったという逸材に、西谷は「4番1塁で考えている」と声を掛けたという。まるでプロのスカウトのような誘い文句だ。結局、エースとして甲子園に立つ夢を持っていたその選手は別の強豪校に進学した。


 その話を西谷にぶつけた。


「少々、誤解があります。投手を諦めろと言ったわけじゃないんです。ただ、将来プロを目指すなら野手としての方が伸びしろがあると思い、投手をやりながら野手もやらないかと誘った。僕自身、投手としての力は横川や根尾が上だと思っていた。子どもに対して、嘘はつきたくないんです」


 そう明かした西谷は、履正社について、「甲子園に出るには勝たなくてはならない相手。ただ、かつてPLに抱いたような感情はありません」とコメントした。


 それでも、両校の対戦はどこか因縁めいている。昨年5月、春季大阪大会の決勝でぶつかった際は、履正社・岡田の母の通夜の日と重なった。


 試合は履正社が勝利し、岡田は葬儀場に直行。棺には決勝でかぶった帽子を入れ、「夏、これをかぶって応援に来るんやで」と夏の甲子園出場を母に誓い、その約束を果たしている。


 早実・清宮の存在もあり、例年以上に注目を集める選抜。優勝候補の筆頭格が大阪の2強なのは間違いない。同じ大阪の高校が甲子園でぶつかるのは選抜だけ。両校が全国の舞台を勝ち上がり、激突すれば空前の盛り上がりとなる。(文中敬称略)


※週刊ポスト2017年3月24・31日号

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