村田兆治氏「ジョーブ博士がいなければ仏料理店経営してた」

3月19日(水)11時0分 NEWSポストセブン

 現地時間の3月6日、スポーツ医学の権威として知られるフランク・ジョーブ博士が亡くなった(享年88)。日本国内で彼の名声を一気に高めたのが、元ロッテの村田兆治氏への手術成功だ。1983年に手術を受け、1984年のシーズン終盤に復活し、1985年には17勝をあげる見事な復活劇を果たしてカムバック賞を獲得した村田氏が、ジョーブ博士との出会いを振り返る。


 * * *

 すべての始まりは1982年5月17日の近鉄戦。右ヒジを痛めた私は、国内で必死に治療法を探したが見つからず、途方に暮れていました。


 そんな時、「米国で手術すれば治るかもしれない」という情報と、ジョーブ博士の名前を聞いた。ドジャースと巨人が友好関係にあることがわかり、アイク生原さん(*注)が間に入って繋いでくれました。実は今だから言えますが、あの頃はグルメブームの走りで、ヒジを痛める前から、友人とフランス料理店を共同経営する話があった。ジョーブ博士の名前を知らなければ、私は野球を諦めて、その道に進んでいたかもしれません。


【*注】本名・生原昭宏。早大野球部で活躍後、亜細亜大監督を経て渡米。ドジャース職員として実績を挙げ、オーナーの絶大な信頼を得る。日本からやってくる野球留学生の面倒を見るなど、日米の野球交流の架け橋として尽力した。1992年逝去、享年55。


 ただ、渡米を決意するまでは悩みました。そもそも当時の日本では、体にメスを入れた選手が完全復活できたケースがなかった。それにいくらお金がかかるかもわからない。今のように球団が保障してくれる時代でもないし、今とは違う覚悟が必要でした。


 考えるため熊野古道を歩いたり、滝に打たれたりしました。同じ手術を受けたロッテの後輩の三井雅晴に痛かったか聞くと、「痛いってもんじゃないですよ」と言われたのを覚えています(笑い)。散々迷いましたが、1983年8月21日、センチネラ病院で博士の診断を受けました。


 博士は日本から持って行ったレントゲン写真などをまったく見なかった。野球を続けたいと申し出る私の腕を触りながら、「よくここまで頑張ったな」と言うんです。その時は思わず涙が出ました。


 博士は「ヒジの腱が切れている。投げたいなら手術しかない」と言われ、ゆっくりとした口調で手術の内容について、「左手首の腱を5か所から取り出して、右肘を切り開き、骨に穴を空けてその腱を移植する」と説明されました。


 これを聞いて再び不安になりました。本当に右腕が今まで通り使えるのだろうか、左手まで使えなくなるのでは……。おまけに博士は手術成功の可能性には一切触れず、「(手術を)受けるのか、受けないのか」だけを聞いてくるのです。でも最終的には、同行していた家内と相談し、博士を信じようと決断しました。


 3日後に手術。全身麻酔から目が覚めると「成功した」と知らされました。しかし術後は毎日40度以上の熱が出て、小指が親指ぐらいに腫れ上がった。それらが落ち着いて、退院許可が出たのは15日目のことです。


「完全にカムバックできるかどうかは、君のリハビリにかかっている。赤ん坊の成長と同じ。1日1日、ゆっくりやるように」という博士のアドバイスを元に、細かいプログラムに従ってリハビリを続けました。


 最初はスポンジを握っただけでも指がむくむ状態でしたが、次第にボールも投げられるようになった。3か月後、10mのキャッチボールを30球までという制限で始め、その後は月単位で距離を伸ばす。もう一度マウンドに立って、先発完投で勝ちたいという気持ちが、辛いリハビリを支えていました。


 1984年の開幕時には二軍のシート打撃で投げられるほどになり、1985年4月には西武戦で先発できた。その時の博士の指示は「5イニング・100球がメド」でしたが、『人生先発完投』がモットーの私は9回・155球を投げ切った。博士の言う通り、100球を超えた辺りで腕が痺れてきたのには驚きましたね。1073日ぶりの勝利投手。普段は不愛想な落合(博満)が、くしゃくしゃの笑顔で走り寄ってきたのを覚えています。


 その後も博士との交流は続きましたが、偉ぶることなく、「私を日本で有名にしてくれたのはムラタの頑張りだ」、「君は医学を超えた」などと言ってくれた。謙虚で好感が持てる、笑顔が素敵な人でした。生きる力を取り戻させてくれた私の恩人であり、後輩たちに手術を怖がらなくていいというメッセージを残してくれた日本球界の恩人でもあります。


※週刊ポスト2014年3月28日号

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