水谷隼はもう独りじゃない。Tリーグがもたらしたと進化と不変の志

3月21日(木)6時55分 Sportiva

「この10年間、ずっとひとりだったので、チームメイトができて精神的にすごく楽になった」

 Tリーグ初代王者となった木下マイスター東京のエースで、シーズンMVPに輝いた水谷隼は、国内初のプロリーグが自らにもたらした変化をそう語った。”天才”の称号とともに孤高の影を引きずり続けた五輪メダリストの心象風景を中心に、3月17日に両国国技館を熱くしたプレーオフ・ファイナルの”頂上決戦”を振り返りたい。


木下をTリーグ初代王者に導いた水谷(中央)

Wエースの抱擁

 水谷が「昔の自分だったら考えられない」と苦笑したのは、シーズン1位の木下が、同2位の岡山リベッツを破って初代王座を手にした直後のシーンだった。

 戴冠に大手をかけた第4マッチのシングルスに登場した張本智和が、岡山の森園政崇を大接戦の末に3−1で破った次の瞬間、両国国技館を埋めた5120人の観客が目にしたのは、ベンチから真っ先に飛び出し、世界ランキング4位に名を連ねる15歳の”怪物”に抱きつく水谷の姿だった。

「水谷さんが最初に駆けつけてくれてうれしかった」と張本は振り返ったが、水谷自身ではなくても、例えばリオデジャネイロ五輪で彼がシングルスで銅メダル、団体戦でもチームを銀メダルに導いた時、3年後にこんな光景を目にすることを予想できた関係者はほとんどいなかったのではないか。当時のふたりの距離感はもちろん、照れ屋でどこかシニカルな一面がある水谷の性分はよく知られていたからだ。

 リオ五輪後の2016年12月、筆者は専門誌の企画で、南アフリカで開催された世界ジュニアを制して帰国したばかりの張本と、五輪メダリストとして”時の人”になった水谷の対談に立ち会った。この時の張本は水谷に対する憧憬(しょうけい)の気持ちを口にするばかりで、14歳の年齢差をそのまま感じさせる言葉のやりとりに終始し、対談原稿をまとめるのに苦労した記憶がある。

 それだけに、後の世界選手権や全日本選手権で憧れの人を破り、快進撃を続ける少年の成長スピードには驚かされてばかりだったが、この日のファイナルで”変化”が目についたのは、水谷のほうだった。

頂上決戦の勝敗を分けたもの

 ファイナルの試合を振り返ると、勝負の綾は第2マッチの選手起用にあった。

 リーグ戦での両チームの対戦戦績は、木下の4勝3敗。このうち、5試合がヴィクトリーマッチにもつれこんでいる。水谷と張本のWエースを軸に、大島祐哉や松平健太ら日本のトップ選手を擁する木下に岡山が肉薄できたのは、常に第1マッチのダブルスで先手を取ってきたからである。ダブルスだけを振り返れば、岡山は木下に全勝している。

 なかでも、この日ペアを組んだ森園と上田仁のペアは、リーグ戦で15勝3敗と圧倒的な強さを誇っていた。岡山の白神宏佑監督はリーグ最終戦のあと、ファイナルに向けて「ダブルスがカギになる」と明言していたが、木下の邱建新(チュウ ジェンシン)監督はさらにその先の展開を読んでいたのだろうか。

 第1試合のダブルスは、岡山の思惑どおりの結果になった。森園、上田ペアが、2017年男子ダブルス全日本王者の水谷、大島ペアを11−9、7−11、11−9のフルゲームで下して先勝した。

 だが、続く第2マッチのシングルスで、白神監督が「99%予想していなかった」局面を迎える。木下は2番手に、シーズン途中にチームに加入した侯英超(ホウ エイチョウ)を起用したのだ。団体戦における”読み違い”は、ベンチや選手に少なからずの動揺を与える。

 その元中国代表のカットマンに対し、岡山の吉村和弘も粘ったが、最後は百戦錬磨の候が吉村のパワーを抑え込み3−1で勝利。この勝利が単なる1勝以上の価値があったことは、水谷の試合後の述懐が証明している。

「ダブルスで負けるのは想定内でした。勝ったらラッキーと思っていたぐらい。でも、2番手に侯を置くオーダーは賭けでもあったと思います。0−2で回ってくることも想定して準備していたけど、候が勝ってこっちに流れがきました」

 流れに乗った水谷のプレーは圧巻だった。

 韓国のエースで、世界卓球2017の銅メダリストでもあるイ・サンスを、11−9、11−8、11−8のストレートで一蹴したのだ。

 水谷は「イ・サンスとは相性がよく、自信もありました。YGサーブとバックへのロングサーブがよく効いたのが勝因」と試合を振り返ったが、際立ったのは、以前は苦手意識を公言していた台上でのプレーである。

 10代の頃、水谷は台から離れ、時にアクロバティックな動きでラリーを展開して多くの卓球ファンを魅了した。天才の称号はそうした彼にしかできないプレーになぞって与えられた要素が大きかったが、やがてそのプレースタイルは壁にぶち当たる。台にくっついた前陣から、速い打球点で勝負をしかけるスタイルが世界の主流になり、水谷の卓球は「美しいが中国選手には勝てない」と指摘されることもあった。

 水谷隼というアスリートが、天才の定義に新たな要素——変化を恐れないこと——を自らの手で書き加えたのは、2012年ロンドン五輪のシングルス4回戦で敗退し、全日本男子シングルスの覇権も失って”どん底”の状態を味わった後である。「このままで終われば卓球に人生を賭けた意味がない」と、一念発起してロシアリーグに挑戦。フィジカルを鍛え直すとともに、邱建新監督とプライベートコーチの契約を結び、チキータなど台上のプレーを徹底的に磨いたのだ。

 ファイナルのイ・サンス戦でも、プレースタイルの変化は明らかだった。

「昔と比べれば、自分のスタイルは変わってきています。まだまだ修正しなければいけないところもありますが、取り組んできたことが間違っていなかったことは証明できていると思います。Tリーグでの半年間に積み上げた、ひとつひとつの試合が僕を成長させてくれた。この流れを4月の世界選手権(ハンガリー)につなげたいです」

 Tリーグでの成果をそう語った水谷がこの日、最も変化を強調したのが卓球と向き合う環境だった。
 
チームメイトの存在と、胸の底にある変わらぬ思い

 試合後の会見で「”個人”の木下vs”チーム力”の岡山」という構図を口にした記者もいたが、水谷の言葉に耳を傾けると、そのニュアンスは少し異なってくる。

「10年間ずっとひとりでやってきた。今はチームメイトにいろんな形で助けられ、気持ちの面ですごく楽になりました」

 筆者の記憶に残る水谷の背中には、いつも孤高の影がまとわりついていた。言葉の壁やカルチャーショックと向き合いながらプレーを続けたドイツ留学時代、全日本男子シングルスを連覇し、絶対王者の重圧に苦しんだころ。そして、海外の選手がルール違反とされる補助剤をラバーに塗り込んでいることを告発し、国際大会をボイコットした時……。

 誤解を恐れずに言えば、こうした孤独感を抱えてきたからこそ、彼は唯一無二の卓球人として歴史に名を刻むことができるのだ、とも考えていた。この推測がそれほど的外れでなかったならば、新しい価値観で卓球と向き合うようになったからこそ、今後の彼はこれまでと違うパフォーマンスや結果を生み出していくはずである。

「ひとりでやっていた時は、練習場所の確保も大変でした。実業団や大学にお世話になることが多かったのですが、そのチームの練習が休みのときは僕も練習できない。そんな状態が当たり前でしたから、そうしたことに対する手間やストレスがなくなったことだけでもすごく大きいです。

 仲間と一緒に練習をして、昼食を食べて、昼寝をする。それから起きてまた一緒に練習して、夕食も一緒に食べる。家族よりも長い時間を共有しているし、オフにみんなで映画に行ったりするのも楽しいですね。ロシアにいた時は、外を出歩くのが恐くて基本的にホテルから出ませんでしたから」

 笑みを浮かべてそう語った水谷は、「次は『運び屋』という映画を観に行きたいです」とつけ加えるほど饒舌だった。しかし一方で、変わらない意識もある。

 それは、筆者が初めて取材をした15歳の時から口にしていた、「卓球の魅力をひとりでも多くの人に伝えたい」「卓球を野球やサッカーのようなメジャー競技にしたい」という思いである。

 かつては”夢物語”としてしか触れられなかった、国内のプロリーグでプレーしている実感は、その思いをさらに強くしてくれているのかもしれない。

「Tリーグが開幕した時の興奮は忘れられません。(17日の試合も)この両国国技館でもう1回試合ができるうれしさと興奮で、いいパフォーマンスができた。本当に感無量です」

 水谷は囲み会見の最後にそう言うと、今後の課題も含めたTリーグへの思いを口にした。

「もちろん、観客が少ない地方の試合でも、来てくれたファンを大切にしたい。リーグ戦で点差が開いた時は、会場を沸かせるようなラリーが続くサーブとレシーブの組み立てを考えたこともありました。Tリーグを世界最高のプロリーグにするためには、まずチーム数を増やすことが必要だと思います。最低6チーム。できれば8チームはほしいですね」

 変化と進化を見せる水谷は、卓球界のさらなる先を見据えている。

Sportiva

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