クライフと背番号14の数奇な縁。思わぬ偶然が作り出したサッカー界のアイコン

3月25日(金)16時29分 フットボールチャンネル

デビュー当初は9番を背負っていたクライフ

 ひとたびヨハン・クライフのことを思えば、たちまち「背番号14」のイメージが喚起される。身につけた背番号とともに記憶されるフットボーラーは決して少なくないが、そのなかでも「14番といえばクライフ」、この図式は揺るがしがたい。“空飛ぶオランダ人”とも呼ばれたサッカー界のレジェンドがこの数字と結びついた所以とは。(文:トム・シーン/インディペンデント、翻訳:中山佑輔)

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 ヨハン・クライフは、背番号14のシャツと同義になっている。

 背番号10に対してペレやディエゴ・マラドーナがそうであるように、あるいは背番号9に対してアラン・シアラーがそうであるように、オランダ、アヤックス、バルセロナのレジェンドが他の背番号を身にまとうことを想像するのは困難だ。

 しかし、キャリア最初の6シーズン、4度のエールディビジのタイトル、2度のオランダサッカー連盟カップのタイトルを獲得し、個人としても多くの賞賛を得ていたクライフの思考の中に、背番号14は存在しなかった。

 実際、彼は1964年から1970年までの間、背番号9を身にまとっていた。当時のフットボール界では、1〜11の背番号をスターティングメンバーが身につけるよう定められていたのだ。

 今やクライフのアイコンと化している背番号14を彼が身につけることになったのは、思いがけない偶然がきっかけだった。

 1970年の10月30日、PSVアイントホーフェンと対峙するゲームの前、クライフのチームメイトであるヘリー・ミューレンは、自身が普段着用している背番号7のユニフォームが見当たらなかった。クライフは普段使っていた背番号9のユニフォームをミューレンに渡し、予備のシャツが入っていたカゴの中から一番上にあったものを取り出しにいった。

 背番号14だったのは偶然だったのだ。

スポンサーの関係で、アディダスのユニフォームを2本線に

 その試合、アヤックスは1-0で勝利。そしてミューレンが「フートボール・インターナショナル」で思い出していたように、オランダ連盟への全き蔑視から、クライフが次のゲームでも同じ背番号を着用しようと主張した。

「ヘリー、PSV戦は上手くいった。同じ番号でプレーしてみようじゃないか」クライフはこう言った。

 その日から、クライフは14番を身につけた。バルセロナではしばしば背番号9のユニフォームを着ることもあったが、キャリアを通じて可能な場所では背番号14を身にまとった。

“トータル・フットボール”で知られる1974年W杯のオランダ代表チームでさえも、彼の儀礼的行為は優先されることになった。

 リヌス・ミケルスのチームは、アルファベット順に背番号が割り当てられており、いくぶんか奇妙な番号配分になっていた。

 フォワードのルート・ヘールスは背番号1に落ち着き、ゴールキーパーのヤン・ヨンクブルートは背番号8を身につけた。

 しかしながらクライフは、彼のトレードマークである14番を身につけることが許された。(アルファベット順であれば)もちろん、彼は1番だったはずだ。

 同大会で、クライフはユニフォームについて風変わりな決断を下している。オランダ代表選手たちはアディダスのユニフォームで着飾っていたが、クライフにはプーマとのスポンサーシップ関係があった。そのため彼は3本線のユニフォームを着用せず、オランダ連盟はラインが2本しか入っていない特別ユニフォームをクライフが使用することを認めた。

 そして2007年、アヤックスは14番を永久欠番にした。

(※)本記事はINDEPENDENT紙との独占契約により、記事全文を翻訳しております。

(※)現地時間2016年3月24日、ヨハン・クライフ氏が逝去したと発表されました。この訃報に際し、フットボールチャンネル編集部として、謹んで哀悼の意を表します。

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