オランダの伝説クライフ、あなたが知らない“14”のこと

3月27日(日)19時2分 フットボールチャンネル

好きなスポーツ

 ヨハン・クライフが10歳でアヤックス下部組織に加入した頃、彼はサッカーではなく野球を好む少年だった。5年が経ってコーチがクライフをサッカーを選択するように駆り立て、初めて彼はアヤックスでのキャリアに集中するようになった。

初ゴール

 クライフはGVAV対アヤックスで試合は1-3で敗れたもののトップチームで初ゴールを決めた。その際の起用されたポジションは彼のキャリアで最も低いサイドでのプレーだった。

背番号

 クライフは若い頃から規則に従うことを拒否し、背番号14番を着用することを求めた。オランダ代表で1番から11番までの背番号を着用することを求められたにも関わらず、彼は特例として14番を守り続けた。

伝説の6ゴール

 1970年11月のAZ戦でクライフは6ゴールを記録し8-1で勝利した。彼は瞬く間にオランダサッカー界のスターダムにのし上がった。

移籍金

 クライフが世界で最も才能溢れる選手としての地位を確立した後、1973年の夏にアヤックスからバルセロナへと移籍した。その際の移籍金は600万ギルダー。当時の史上最高額だった。

1974年ワールドカップ決勝

 クライフは背番号14番を好み、オランダ代表の規則であるアルファベット順の背番号を拒否した。1974年ワールドカップ決勝でドイツに敗れた際には多くの論争が引き起こされた。

バルセロナ

 クライフはすぐにバルセロナを愛するようになった。移籍後クラブに1960年以来となるタイトルをもたらす前に、彼は息子に「ジョルディ」というカタルーニャ・ネームを授けた。

エル・クラシコ

 1974年2月のレアル・マドリー戦(エル・クラシコ)でクライフはバルセロナを5-0の勝利に導いた。試合後、『ニューヨーク・タイムズ』の記者は「クライフはカタルーニャのどの政治家よりも素晴らしい公共事業を成し遂げた」と絶賛した。

パリ・サンジェルマン

 クライフは32歳でロサンゼルス・アズテックスを去る前、実際には1975年にパリ・サンジェルマンで2試合に出場した。これは彼がデザイナーでありPSGの会長であったダニエル・エシュテル氏のファンであったからだ。

レスター・シティ

 クライフは1981年にレスター・シティ移籍にあと一歩のところまで近づいていた。しかしながら、数週間後にレバンテ移籍を決断した。

フェイエノールト

 1981年アヤックスに帰還したクライフだが、83年にクラブが契約延長を拒んだことに激怒する。その後、彼はフェイエノールトに移籍することを決意。フェイエノールトは初めてのエールディビジ優勝を成し遂げる。

オランダ代表

 クライフはオランダ代表で48試合に出場し33ゴールを決めているが、彼が得点した試合でオランダ代表は一度も敗北を喫したことがない。

代表引退

 クライフは1978年にラジオ『カタルーニャ』内でアントーニ・バッサス記者に対して代表引退の理由を明かした。彼は自身の能力の衰えではなく、1974年ワールドカップの前にバルセロナで家族が誘拐の対象となったことが直接の理由であったと語った。

惑星の名前

 地球から遠く離れた惑星にかつて「14282」という番号のつけられた星が存在した。現在はアヤックス、バルセロナ、そしてオランダ代表で活躍した伝説を称えるため、「クライフ」という名に変わっている。

(文:サムエル・スティーブン/インディペンデント、翻訳:Keiske Horie)

【了】

(※)本記事はINDEPENDENT紙との独占契約により、記事全文を翻訳しております。

(※)現地時間2016年3月24日、ヨハン・クライフ氏が逝去したと発表されました。この訃報に際しフットボールチャンネル編集部として謹んで哀悼の意を表します。

フットボールチャンネル

オランダをもっと詳しく

BIGLOBE
トップへ