世界のサッカーを変えた男、クライフ。“バレエの天才”が造り上げた創造性と新たなスター像

3月27日(日)14時1分 フットボールチャンネル

生か死か。常に劇的だったクライフのサッカー

 ソ連の生んだ伝説のバレエダンサー、ルドルフ・ヌレエフは、ヨハン・クライフはダンサーになるべきだったといつも言っていた。見る者の予想を突然のように裏切るクライフの、それでいてコントロールやバランスや優雅さを兼ね備えた動きに彼は魅せられていた。

 あまりにも素早いクライフの方向転換や緩急の変化には、バレエでも再現できない何かがあるとヌレエフは捉えていたようだ。

「ダンスでは全ての動きが研究されているため、時には非常に退屈で悪しきものとなってしまうこともある」と、ヌレエフの親友であり協力者のルディ・ファン・ダンツィヒは作家のデイビッド・ウィナーに話したことがあった。

 そのウィナーこそが、クライフとは何者であったかを誰よりも適切に表現している。

「サッカーとは瞬間の刺激だ。何が起こるかは決して分からない。だがクライフは常にコントロールできているかのようだった。彼は自ら何かを起こすことができた。まるでギリシャ悲劇のように、彼には何か劇的なものがあった。生か死か、とまで言わんばかりだ。たとえオランダリーグの単なる普通の試合だったとしても」

 クライフの生きた日々はいつもそう感じられた。18カ月前に『ザ・ガーディアン』が行ったインタビューの際にニールス・デン・ハーンが撮影した写真も、大きく目を見開いて、決して油断しない激しさを秘めた彼のイメージを捉えている。

 ドナルド・マクレーによるそのインタビューの中でクライフは、宿敵ルイス・ファン・ハールの展開する「軍隊的」な手法に対置するものとして、速く創造的なサッカーの価値を説いていた。

 クライフを主題とした1972年の映画「ナンバー14」は、もはや伝説となった彼の背番号をタイトルとしたものだが、ここでもやはり同様の特徴が示されていた。だがウィナーも指摘するように、この映像作品に本当に不朽の価値を認めるべき点は、クライフの特に優雅な部分を捉えたスローモーション映像にこそあった。

選手個人の価値を高めた功績

 クライフはアムステルダムの労働階級地区であるベッテンドルプで生まれた。偉大なるアヤックスのデ・メール・スタジアムに程近い場所だ。細身で粋なティーンエージャーだったクライフの下積み期間はごく地味なものだったが、彼はまさに絶好のタイミングで世界に名乗りを挙げることができた。

 テレビの力によりサッカーが大衆のものとなりつつあったその時代、サッカー選手たちは古い束縛を逃れ、前進への努力の成果を手にしようとしていたところだった。彼らは新種の文化的アイコンだった。

 1964年にデビューしたアヤックスでその流れるような髪と軽妙なバランスを披露し始めたクライフは、この世代が新たに持ち始めた自信を体現する存在だった。彼は自分の価値に気がついており、サッカー界上層の旧勢力を挑発する気概も持っていた。

 オランダサッカー協会(KNVB)幹部が遠征時に協会負担による保険をかけられている一方で、選手たちにはそれがないと知ったクライフは、自ら中心となって状況を変えさせることに成功した。

 協会が締結した契約に従ってアディダスのシューズを着用するよう命じられた際にも、独自にプーマと契約を交わしていた彼は拒否した。1974年ワールドカップでは、KNVBに準備されたアディダスのシューズの縞模様を塗り消し、アディダスの3本線ではなく2本線が肩に入ったシャツを着用していた。

 オランダ代表でのプレーが、自分自身だけではなくオランダ全体にとっても重要なことだと最初に認識した男がクライフだった。

 その姿勢を貫きながらも、自分自身の価値を感じ取っていたクライフには、サッカーに流れ込みつつあった大金を手にすることができる力があった。ボビー・フィッシャーがチェスに対してやっていたのと同じことを、彼はサッカーに対して実行していた。

対極にあるファン・ハールのサッカー

 ルート・フリットがその言葉を用いるはるか以前から、クライフはサッカーを「セクシー」にしていた。ヨハン・ニースケンスやヴィレム・ファン・ハネヘムはが職人だったとしてもクライフはアーティストだったし、そのことに対して何の戸惑いを覚えもしなかった。

「自分自身のポケットから何かを盗み取るようなことはしたくない」と1971年に彼は話していた。「誰もが左派だった」とウィナーが記す時代に、クライフは自分だけの価値を認識していた。

 マスコミとは非常にオープンな関係を築いていたが、彼の名前を利用して部数を稼ごうとするようなメディアのことは非難していた。非常に重要な意味がそこには込められていた。彼の意識の中では、スポーツにおける成功のためには個人主義と集団主義の両方が必要であると理解できていたということだ。

 全員が機械の一部となり、数字で管理されるような、共産主義的ですらあるファン・ハール式のサッカーとははるかな隔たりがある。クライフの方がより自由な意識を持てていたことは間違いない。その幾何学的・空間的把握能力を活かし、14番の魔法のシャツを着た彼は何でも望み通りに実行することができた。

 1974年ワールドカップ初戦のオランダ対スウェーデン戦で、何の準備もなかったヤン・オルソンに対して披露してみせた180度のターンは、彼の名を冠して語り継がれるプレーとなった。自身のチームのぎこちない中盤のサッカーが「あまり良くはない」と自ら認めるファン・ハールは、「クライフターン」に相当するような何かを持ってはいない。

信仰心が厚く家族を大切にする素顔

 自分自身の優れた判断を強く信じるあまりに、指導者や幹部としてのキャリアを過ごしたクラブでは時に強い衝突も引き起こした。集団内における個人主義を信じる彼は、自分自身と他者に対して異なるルールを適用しているように見られることもあった。

 ウィナーがヨハン・ティメルスに行ったインタビューがそれをよく表している。ティメルスは、まさにオランダ的な内省に基づいて、1974年ワールドカップ決勝西ドイツ戦での敗戦の痛みが残したものを描く悲喜劇を共同執筆した脚本家だった。

 ティメルスはクライフについてこう語っている。

「彼はいつも他の選手たちに、『グループとしてプレーするべきだ』と伝えていた。だが、彼がボールを持つとそのままどこへ走って行くことも許されたが、他の選手たちが同じことをすれば彼は非難していた。集団というものは、ある時点で立ち上がってそのリーダーを攻撃し始めるものだ」

 だが、嵐の前には必ず美しい時間がある。1988年にアヤックス指揮官の席を離れたあと、クライフが8年間にわたってバルセロナに教え込んだ革新的なスタイルは、世界中が羨むものとなった。

 クライフという個人は、人生における様々な区分を全く気にしようとはしなかった。多くのスーパースターたちとは異なり、彼の私生活は保守的なものであった。信仰心が厚く家族を大事にする男であり、生涯を通して伴侶はダニー夫人ただ一人だった。

 夫人とともに、45歳と44歳の娘2人と42歳の息子も残している。クライフの同胞たちが持たれている一般的なイメージとは正反対だが、そういう点に非常にオランダらしさがあった。

そしてヨハンはボールを見た

 メディアの録音や記者室のルールに縛られた不自然な世界の中で、自分の考えを表現したり多数派に挑戦したりする自由を奪われた世代の選手たちにも、スーパースターとなれるやり方は他にもあるのだということをクライフの例は示唆している。

 サッカー界、特に英国サッカー界には知性に反発を示す風潮があり、自分たちの仕事のためにあえて何らかの言葉を発しようとすれば愚か者として吊るし上げられてしまうこともある。クライフは17歳で学校教育を終えたが、それでも明確な意識に基づいて思考し発言することができていた。

 もちろん、映像が言葉以上に雄弁に何かを物語ることもある。シンプルに『Johan Cruijff』と題されたYouTube動画の開始5分ほどの場面では、クライフはゴールライン付近でゴールに背を向け、2人のDFがその背中に張り付いている。

 ボールの下につま先を潜りこませたクライフは、膝の高さまで軽く持ち上げたあと、左足のオーバーヘッドボレーでDFの頭上を抜く。駆け上がってきたMFがこのボールをヘディングでゴールに押し込んだ。15分間の動画の中で、この技巧はさらに2回も繰り返されている。守備陣はそのたびに全くの無力だった。

 このシンプルな中にある美しさには、オランダの作家・喜劇俳優だった故トゥーン・ヘルマンス氏の言葉がまさにぴったりだ。

そしてゴッホはトウモロコシを見た

そしてアインシュタインは数字を見た

そしてツェッペリンはツェッペリンを見た

そしてヨハンはボールを見た

【了】

(※)本記事はINDEPENDENT紙との独占契約により、記事全文を翻訳しております。

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