ヤマハOBキタさんの「知らなくてもいい話」:MotoGPの4サイクルの技術規則はこうして決まった(後編)

2020年4月7日(火)7時15分 AUTOSPORT web

 レースで誰が勝ったか負けたかは瞬時に分かるこのご時世。でもレースの裏舞台、とりわけ技術的なことは機密性が高く、なかなか伝わってこない……。そんな二輪レースのウラ話やよもやま話を元ヤマハの『キタさん』こと北川成人さんが紹介します。なお、連載は不定期。あしからずご容赦ください。


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 排気量1000cc以下で気筒数に応じた最低重量を定める——。しかし厄介な問題がひとつ残っていた。H社の飛び道具である楕円ピストンの扱いをどうするかという、センシティブな件についてだ。


 筆者は敢えてこの技術を排除せず、倍の気筒数にカウントして車両重量のハンデを負わせるという案を出した。とはいっても当のH社は当然承服するはずはないし、欧州メーカーも「楕円ピストン、断固禁止」のスタンスを変えようとはしなかった。


 いまとなってはどういう経緯をたどったか定かでないが、ひとまず楕円ピストンに関しては非常に不利な規則に落ち着いた。当時のH社の代表は「そんなの聞いてない。寝耳に水だ」と怒り狂うも、「前回の会議で決まった話ですしね。いまさら言われても……」と全員でスルーして強制終了してしまった。


 H社の代表は、人物的にはとても好感の持てる方だった。だから、「会社に戻ってこの報告したら、さぞや怒られるんだろな」と気の毒に思ったのが妙に鮮明な記憶として残っている。


 さて、何とか落としどころが見えてきて、ひと息ついた筆者を待っていたのは、「悪いけど役員がどうしてもというから異動してくれないかな。いまなら条件のいいところに行けるから」という上司の一言。言いかたはソフトだが、ここでゴネたらどこに飛ばされるか分からんよという恫喝みたいなものだった。


 しかし、こういう事態を招いたのは自分にも原因があるなと思ったのも事実。「次期プレミアクラスの技術規則は俺がリードして決めてやったぜ」、みたいな自慢げな気持ちが態度の端々に出ていたのだろう。


 1993年以降チャンピオンに縁のないヤマハファクトリーを何とかして復活させたい、科学的なアプローチで開発を主導したい、自分がやるしかないとハラ決めした矢先のことで、正直心残りではあった。苦労の末に新生マルボロ・ヤマハ・レーシングチームを立ち上げ、そして開幕戦の惨状を見届けた後に住み慣れたレース部門に訣別したのは、風薫る五月のことだった——。


 その後風の便りで、注力した技術規則も強力なネゴシエイターを失った時点で換骨奪胎の憂き目に遭い、キモとなる最低重量区分は4気筒と5気筒が同一区分に属するという「巧妙なトリック」によって、2002年のMotoGP初年度はH社のV型5気筒マシンによって16戦中14勝というとんでもない勝率でほぼ完全制覇されたのを知った。そしてそれは不世出の天才ライダー、バレンティーノ・ロッシの黄金時代の始まりがより明確になったターニングポイントでもあった。


 一方、レースを離れた筆者はY社の暗黒時代突入もどこ吹く風、業界関係の仕事でスーツに身を包んで毎週のように花の東京へ日帰り出張するという浮かれたサラリーマン生活を送っていたのだが、この時点ではその後に待ち受ける過酷な運命というか使命について知る由もなかったのである。


★プロファイル
キタさん:北川成人(きたがわしげと)さん 1953年生まれ。’76年にヤマハ発動機に入社すると、その直後から車体設計のエンジニアとしてYZR500/750開発に携わる。以来、ヤマハのレース畑を歩く。途中’99年からは先進安全自動車開発の部門へ異動するも、’03年にはレース部門に復帰。’05年以降はレースを管掌する技術開発部のトップとして、役職定年を迎える’09年までMotoGPの最前線で指揮を執った。
※YMR(Yamaha Motor Racing)はMotoGPのレース運営を行うイタリアの現地法人。

2011年のMotoGPの現場でジャコモ・アゴスチーニと氏と会話する北川成人さん(当時はYMRの社長)。左は現在もYMRのマネージング・ダイレクターを務めるリン・ジャービス氏。


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