【特別連載】広島スタジアム問題のなぜ〜第2回 広島における都市計画失敗の歴史〜

4月11日(月)20時44分 サッカーキング

1994年に広島ビッグアーチで開催されたアジア競技大会の開幕式 [写真]=Getty Images

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 紛糾し続ける広島の新スタジアム建設問題。そのバックボーンにはいったい何があるのだろうか。

『サッカーキング』では、今回の新スタジアム建設問題に関する歴史的な背景を知ることで理解を深め、今後の方向性を明確にしていくために、広島在住でサンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』で編集長を務める中野和也氏に、「広島スタジアム問題のなぜ」というテーマで全5回の連載企画を依頼することにした。

 第2回では広島におけるスポーツ施設に絡んだ都市計画失敗の歴史を振り返り、新スタジアム問題が頓挫している現状に至る背景を見つめ直した。

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 1945年8月6日、広島を破壊した原子爆弾は、その後の復興に向けても様々な影響を与えている。特に爆心地近くの紙屋町界隈には、かつて“原爆スラム”という存在があった。

 戦前、この界隈は陸軍の第5師団が置かれるなど、軍都・広島の中核地帯であった。日清戦争当時は広島城に大本営が置かれ、帝国議会が広島で開かれた時期もあるなど、日本の首都機能が広島に集約された時もある。当時は一等地中の一等地だったと言っていい。現在も旧広島市民球場跡地の周辺が国有地であることは歴史上の必然であった。

 それが原爆で破壊されて焼け野原になった後、紙屋町西側の本川沿いに戦争の被災者たちがバラックを建てて住み始めた。世に言う“原爆スラム”の誕生である。さらに現在の旧広島市民球場跡地付近には「十軒長屋」という市営住宅があり、数多くの広島市民が住んでいた。



 1949年に制定された「広島平和都市建設法」によって「広島平和記念公園」の設置が決まり、建築家の丹下健三氏が設計を担当。当初のプランでは、広島中央公園や基町高層アパートあたりも「平和公園」として構想されていた。つまり、丹下案では旧広島市民球場は想定外の施設だったと言える。だが、現実を追えば、まず多数の被災者を収容できる住宅が必要だったのも当然。十軒長屋は広島の社会が必要とした施設であり、原爆スラムは広島の行政の手が回り切らない状況で自然発生的に生まれた存在であったと言えるだろう。

 たとえ成績は悪くても、広島市民の復興に向けての勇気を増幅させてくれる存在だった広島カープは当時、現在もコカコーラウエスト広島スタジアムの近くにある広島県営総合野球場(現Coca-Cola West野球場)を本拠地としていたのだが、1941年完成と比較的新しい施設にもかかわらず、施設的には貧弱。外野に芝もなく、観客スタンドもなく、フィールドはロープで仕切られていたほど。改修も順次行われてはいたが、戦後のプロ野球で機運が高まっていた「ナイター」には対応できなかった。アクセスも悪く、塀を乗り越えて「タダ見」をしようとするファンも後を絶たない。ナイター設備がなく、炎天下での観戦を強いられる状況では、球団の安定経営はままならなかった。

 1954年、カープが使用するナイター施設付き新球場の建設計画が持ち上がり、広島市議会に「市営野球場設置対策委員会」が設置されて本格的な検討が始まる。場所も「広島市基町」という中心地に、市税を使わずに建設することが推進された。もちろん、すでにそこで住居を構えている十軒長屋の住民たちにとっては、たまったものではない。激しい反対運動が繰り返された一方、推進派も当時の浜井信三市長に詰めより約5万5000人の署名を提出する。事態は全く混沌としてしまった。こう書き進めてみると、現在のサッカースタジアム建設の状況とやや似ている部分が見受けられる。

 ただ、当時のスタジアム建設反対運動は、現在の宇品地区(広島みなと公園)建設プランに対する港湾事業者の反対と同様、切迫した事情から生まれていた。一方、カープ側の事情からもナイター設備のある新球場建設は不可避だった。

 建設地は広島護国神社内や現在の合同庁舎あたりの土地なども候補に挙がったが、いずれも土地の所有者である国の反発にあって頓挫。結局、中央公園北側の土地を公園から公営住宅用地に用途を変え大型市営住宅の建設を決定。さらに財界から1億6000万円にも及ぶ寄付を得て、1957年2月に着工。わずか5カ月という突貫工事で、広島市民球場は完成した。



 もう一つ、広島が実現した大プロジェクトに、1994年の広島アジア大会がある。当時、筆者は招致活動真っ盛りの広島に住んでいた。最近はこういう一大スポーツイベントへの招致には反対運動がつきものだが、当時は大がかりな反対が存在した記憶はない。1984年、広島での開催が決まった時も地域は歓迎ムード一色だったような記憶がある。当時は長かった円高不況により、地域を沈滞ムードが包んでいた。広島の街はこのアジア大会招致によって地域経済の浮揚を期待したことも事実であり、それは招致決定以降に訪れた「バブル景気」によって本格化する。

 ところがここで、広島市民球場建設時との判断の違いが出る。

 球場の時、行政はあくまで広島市中心部にこだわった。ナイター設備だけが必要であれば、広島総合野球場の改修でも良かったのに、彼らはそうしなかった。その背景には、深刻化するカープの経営状態も存在した。1955年、カープは多額の借金を清算するために会社を解散、新しい会社を設立するという荒療治に踏み切らざるを得なかった。しかし「市民の宝=カープを潰してはならない」という想いが、アクセスのいい新球場建設を後押し。球場内の飲食店の営業権や広告看板の収入も球団に入るような仕組み(現在の指定管理者制度に近い)も作られ、全面的なサポートを行った。

 広島アジア大会は、もっとスケールの大きな街づくりの一環でもあった。メイン会場である広島広域公園は、広島市の「副都心」構想である西風新都に建設が決まったのだが、この場所は広島の街を形作っていた三角州内ではなく、太田川放水路を挟んだ丘陵地。つまり、いわゆる「広島旧市内」ではなく、郊外に人口10万人規模の副都心を作って、都市として新しい可能性を模索しようという目的のためにアジア大会は利用されたのだ。

 そう考えれば、広島広域公園はその中核的な存在として、地理的にも役割的にも果たすべき存在であるべき。広島アジア大会後の活用法も合わせて、考えるべきだっただろう。だが、実際の計画はどうだったか。

 街づくりの中で最優先されるべきは、そこで暮らす人々の利便性にある。当初の計画では西風新都にたくさんの企業が誘致され、そこで働く人々がニュータウンで暮らすイメージがなされていた。だが、バブル景気崩壊という事情もあり、この街に工場や事業所などで進出する企業の数は伸びず。当然、住人も予定どおりの曲線を描くことはできず、計画の10万人にははるかに届かない。現在の目標は2020年に6万人と下方修正されている。この数字は、西風新都という街が「利便性」を認められていない証拠と言えるだろう。たとえ事業所の存在がなかったとしても、街として過ごしやすくて利便性が高いのであれば、街に賑わいはやってくるものだ。

 その一番の問題は、やはりアクセスプランだろう。今の住民たちにとっての足であり、エディオンスタジアム広島へのメインアクセスとなるアストラムラインは当初、広島広域公園までの計画ではなかった。広島市中央部と市西北部のアクセス向上のために造られた軌道系交通機関ではあるが、当初の事業計画では広域公園前駅よりも5.7キロ手前の長楽寺駅までで折り返し運転を行う予定だった。広域公園前駅までの延伸が決まったのは、着工から3年後の1991年。アジア大会招致決定は1984年であり、1988年の着工時点では大会概要は固まっていたはずである。西風新都そのものは1970年代から用地買収は行われていたわけで、アストラムラインが広域公園まで「延伸」しない理由はない。

 その駅の設置場所も問題がある。もともと丘陵地だったこの街は急坂が多く、広域公園前駅や西風新都の入口である大塚駅からのアクセスは、強烈な坂がある。若い健脚の持ち主であっても、徒歩で昇るのは勇気がいるほどの坂だ。ただでさえ、県庁前(紙屋町)まで35分間もかかる。これは広島人の感覚としては、かなり遠い。総営業距離が18.4キロしかないのに、「遠い」と感じさせてしまう。ただ、アストラムラインが当初からJRの駅と直結し、折り返しではなく循環線として計画されて、そのまま実現していたら、今よりもはるかに利便性は上がるわけで、西風新都も広島広域公園も、もっと違う状況になっていたのではないか。



 同様のことは、クルマにも言える。

 今、広島市旧市内と西風新都を結ぶ最速のラインは、広島高速4号線だ。太田川放水路を橋で渡り、丘陵地に長いトンネルをくりぬいたこの道路は、順調にいけば紙屋町との間を15分という短時間で結ぶ。だが、この利便性の高い道路の問題点は「有料」であることだ。しかも普通車で410円という料金は、わずか4.9キロという距離に比して「高い」という感覚を持ってしまう(広島東IC〜観音出入口の20.1キロで700円)。特に広島は有料道路の発展が他の大都市圏よりも大きく後手を踏んでしまっているため(市内中心部には都市高速は存在しない)、市民に都市高速を使う感覚が乏しい。それは、広島南道路などの都市高速の通過が、特別な時間帯を除いて非常にスムーズであることも証明している。

 もし4号線が無料開放されていれば、確かにこの道そのものが渋滞する可能性はある。だが、慢性的な渋滞に悩まされている五日市IC付近の道路の渋滞は逆に大きく改善され、サンフレッチェとしても紙屋町や広島駅からの直通シャトルバスの運行も検討テーマに上るはずだ。それでアクセス問題が解決するわけではないが、改善は可能なのだ。

 広島広域公園と西風新都の関係性も微妙である。エディオンスタジアム広島のバックスタンド側に西風新都の街並みが広がっているわけだが、メインスタンド側から西風新都に向かって徒歩でアクセスすることはできない。搬入口や入場ゲートが道を阻んでいるし、試合中は厳しく行き交いが制限されるからだ。それは逆も真なり、である。

 実は西風新都には今、多くの商業施設や飲食店が存在している。ところが試合前後にサボーターがその店舗を利用するには、非常に高いハードルがある。それは前述したような事情に加え、この街が抱えている“坂問題”が大きい。もし広島広域公園がこの街の中心的な存在として設計され、スタジアム利用者が機軽にこの街の商業施設を利用できるような形が作られていれば、もしかしたら当初に掲げた「住民10万人」という目標を達成できていた可能性はあるだろう。商業施設が潤えば街の経済が活性化し、人を呼ぶ仕組みが作られやすいからだ。

 さらにアストラムラインの大塚駅や広域公園前駅がこの街の「谷底」ではなく山腹あたりに設置されていれば、例えばエディオンスタジアム広島の正面に広域公園前駅が存在したならば、さらに状況は変わっていただろう。たとえ事業所が誘致できなかったとしても街に賑わいが増し、広域公園は今よりもさらに住民に愛されていたに違いない。

 町作りという観点ではなく、スポーツ施設としても広域公園は厳しい。エディオンスタジアム広島の臨場感の欠如等については第1回で語ったとおり。ただ、この場所には球技専門の施設として2つの球技場が存在する。天然芝の第一球技場と人工芝の第二球技場である。

 この建設が進んでいる当時、すでにJリーグ発足は話題になっていた。マツダが当時の竹下虎之助広島県知事との会談を受けてJへの参加が決まったのは1991年1月23日のこと。翌年のアジアカップ開催時には竣工していたわけで、この段階で設計をJ1仕様にやりかえるのは、確かに難しい。だが、その一方で1995年の夏季ユニバーシアード開催のために建造された博多の森球技場(現レベルファイブスタジアム)の素晴らしさと比較すると、やはり計画段階での思想の違いが出てしまう。完成は3年違ったが、当時の福岡にはJクラブが存在せず、メインとバックのスタンドが屋根で覆われた2万2000人収容の球技場を造る理由には乏しかったわけだから。ちなみにこのスタジアムも丘陵地にあるが、シャトルバスが福岡空港や博多駅から出発し、球技場までサポーターを運んでくれる。博多駅から約20分、福岡空港からはわずか6分程度の立地である。

 福岡の事例を考えれば、第1球技場を芝生席が多くを占めるJリーグの規格にも合わない規模で設計したことの意図が見えない。屋根の存在を含め、「スポーツを見る」という文化を考慮に入れていない施設作り。もしこのスタジアムが屋根付きの2万人規模で設計されていたならば、少なくとも「臨場感がない」というエディオンスタジアム広島に対する批判はなかったはずである。チケット代金を払っている顧客が「雨でずぶ濡れ」になることもない。サンフレッチェ広島の主会場はこちらがメインとなり、「サッカーの魅力を伝える」という部分ではアクセスを除いて最高の舞台となりえたはずだ。また、博多の森同様にラグビーやアメリカンフットボールもできる仕様にしておけば、広島広域公園は球技のメッカとして広島のスポーツ好きに愛される存在となっただろう。Jリーグだけでなく、なでしこリーグ、高校サッカー、各種ラグビーやアメリカンフットボールの大会が頻繁に開かれる。その上で、広域公園と西風新都のアクセスを考慮に入れた設計が為されていれば……。本当に残念でならない。



 ここで繰り広げた論説は、“後出しじゃんけん”のようなものでもある。だが都市計画は結果がすべて。1994年のアジア大会開催以来の22年間、当初目標が達成できていないという現実がある。広島広域公園の実績でいっても、日本代表の試合は2004年のスロバキア戦以降、開催されていない。陸上の国際大会も織田幹雄記念大会のみ。市民の運動会などでも利用されてはいるが、これほどの巨大施設の実績としては寂しい。スポーツイベント以外ではMr.ChildrenやSMAPのコンサートが目立つくらいだ。結果を出せているのか、というと厳しい見方になる。収支も利益は出ていない。

 市民球場は、新旧含め、カープのためのスタジアムである。特に正式にカープが指定管理者となったマツダスタジアムは、高校野球等のアマチュア大会の開催がその使用料や内野芝生の保護の問題もあり、少なくなっているのが現状だ。カープの発展のために存在する。それが市民球場の持つ性質や歴史であり、それが問題だと言うつもりは毛頭ない。むしろ、だからこそ、素晴らしいと思う。

 だが、サンフレッチェ広島は、一度として「サンフレッチェのためのスタジアム」を得ていないのが現実である。広島広域公園の指定管理はサンフレッチェではないから、鹿島アントラーズやガンバ大阪のようなスタジアムからの利益構造は持ち得ない。そして今回、クラブが提案しているスタジアム案も、実は「サンフレッチェのためのスタジアム」ではなく、「旧市民球場跡地の活用策」としての位置づけだ。そうでなくては、あれほど平和公園や原爆ドームとのリンクを考える必要もなく、イベント広場的な仕様にもする必要はない。もちろん、クラブとして利益を出したいという経営的な思惑は当然だが、それとても行政からの出資を受けている以上、もう二度と「99パーセント減資」のような状況に陥ってはならないという責任感もある。



「指定管理をサンフレッチェに」という主張も、今のところはない。現実問題としてはそうすべきだと考えるが、クラブはそれよりも「スタジアムをいかに市民のために」というスタンスを貫き、それとクラブ経営を両立させるような収益構造を模索している。マツダスタジアムでさえ、広島市と広島県の両者で計34億5000万円を負担している。だがクラブ案では「県・市からの補助金は一切、受け取らない」と言っているのだ。そこに「広島のため」と「クラブのため」を両立させようとする工夫は見える。

 この「運動」の旗を振っているのが、久保允誉会長である。行政や財界に対して真っ向から意見を開陳し、「さあ、いかがですか?」と大見得をきったのが3月3日の会見であった。多くの賛同と多くの批判を真っ向から受けながらも、久保会長は正面突破を目論見、堂々と議論を挑む。

 損か得かを判断すれば、決して得ではあるまい。無用の敵を作ることにもつながりかねない。サンフレッチェ広島というクラブの現時点での損益状況を見ても、大きな利益が将来的に期待できるとも思えない。

 では、どうして久保会長は勝負に立ったのか。そこを、考えてみたい。

(「第3回 久保允誉会長が推し続けた専用スタジアム建設への思い」に続く)

文=中野和也(紫熊倶楽部)

第0回 サンフレッチェの提案内容とは
第1回 広島ビッグアーチが長らく抱え続けてきた問題点

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