PL学園硬式野球部の高野連脱退 1期生含むOBたちの思い

4月11日(火)11時0分 NEWSポストセブン

名門野球部の廃部にOBたちは何を思うか

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 数々の名選手を生んだPL学園野球部がついにその歴史に幕を下ろした。センバツ甲子園の最中に報じられた「高野連脱退」のニュースを関係者はどう聞いたか。『永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット』の著者であるノンフィクションライター・柳川悠二氏がレポートする。


 * * *

 大阪府高等学校野球連盟が、PL学園から提出されていた「高野連脱退届」の受理を発表したのは、3月29日だった。その日、甲子園でセンバツ準々決勝を取材していた私は、すぐに学園1期生の井元俊秀に連絡を入れた。


「ホント? 知らんかった。エー、ホントなの?」


 80歳になる井元は、何度もそれが事実かを確認した。井元は硬式野球部を創った人物であり、同校が1962年春に初めて甲子園に出場した時の監督である。KKコンビ(桑田真澄清原和博)らが活躍した1980年代の黄金期にはスカウトとして活躍。井元からすれば、我が子を失ったも同然だろう。


「昨年7月以来、休部となっていたわけだから、ある程度は予測できたこと。ショックは少ない……いや、やっぱり寂しいなあ」


 PL学園は新宗教団体・パーフェクトリバティー教団を母体として、1955年に創立された。教団の2代教祖・御木徳近は建学と同時に野球部を創部し、甲子園のアルプス席に「PL」の人文字を描いて教団名をアピールしようとした。


 そんな徳近の命を受けて、2002年の退任まで野球部を陰で支えたのが井元だった。


「野球を心から愛した2代教祖は、このニュースを聞いて、どう思っているんかな。私学がどこも学校経営に苦しんでいる時代ですから、『これも仕方ない』と言っているかもしれないし、『何を考えておるんじゃ。バカモン!』と怒っているかもしれない。とにかく、素晴らしい野球部だった」


 廃部の発端は、度重なる不祥事である。2013年2月に部内の暴力事件で高野連から6カ月の対外試合禁止処分が下ると、当時の河野有道監督は引責辞任。監督の人事権を持つ教団は野球経験者を据えることなく放置した。2014年10月には新入部員の募集を停止。そして昨年7月、後輩のいない12人の部員が大阪大会初戦で敗れ、活動休止となった。


◆神聖なグラウンドは今……


 1983年に265万人だった教団の公称信者数は約90万人にまで減少。実数はもっと少ないだろう。信者の激減とともに、学園の生徒数も減った。学園OBである教団関係者はこう話す。


「学園中学の今年の入学生は約30人で1クラスしかない。高校は外部からの入学もありますが、それでも一学年50人程度です」


 硬式野球部がなくなり、教団一等地に広がる硬式専用グラウンドを軟式野球部が使うこともあるという。ある硬式OBは戸惑いを隠せない。


「あのグラウンドは2代教祖様が築き、先輩方が汗水流した神聖な場所。廃部となったからといって、すぐに軟式が使うのは、自分たちの青春が踏みにじられているような気がしてなりません。もちろん、取り壊されるよりはましですが」


 PL学園が脱退届を提出するにあたって、野球部のOB会には事前に相談も報告もなかった。学園内でも突然、職員室でこの事実が発表されたという。前出の教団関係者は言う。


「硬式野球部を再開したあかつきには、すぐに再加盟すると説明したようです」


 しかし、再加盟には厳しい道のりが待つはずだ。野球部は学園創立と同時に創部されたが、高野連に加盟が認められたのは1年後だった。井元が振り返る。


「当時は学園の生徒数も少なく、練習環境の整備もできていなかった。それゆえ『時期尚早だ』と判断され、加盟を見送られたのです」


 生徒数が激減した学校の再加盟申請がそう簡単に認められるとも思えない。


◆最後の主将の“夢”


 今年のセンバツ決勝は、PLに代わり全国屈指の激戦区・大阪で2強を成す大阪桐蔭と履正社によって争われた。その数日後、私はPLの最後の主将を務めた62期生の梅田翔大に会うため、福岡に向かった。彼は脱退届提出に呆れていた。


「今は自分のことで精一杯で、PL野球部のことを考える余裕がない。ただ、大阪同士の対決でせっかくセンバツが盛り上がっているのに、水を差すようなことはやめてほしかったです」


 進学先の日本経済大学の野球部は、PLの大先輩で、埼玉西武などのコーチを歴任した行澤久隆が監督を務め、松坂大輔を擁した横浜高校と延長17回を戦った時の1番バッター・田中一徳(元横浜)がコーチだ。縁もゆかりもない土地でも、PLの血脈は流れていた。


「久しぶりに大人数の練習ができています。ただ、大所帯だと自分の練習時間が少なくなってしまう。他の選手は全体練習が終わると寮に戻りますが、自分はPLで習慣づいていた自主練習をやります。将来は自分を育ててくれた大阪で高校野球の指導者になりたい」


 PL学園の野球部を創った男は廃部にショックを隠せず、最後の主将は怒りに近い感情を抱きつつ、将来の夢を語った。姿形はなくなっても、PL野球の誇りと伝統は失われていない。


※週刊ポスト2017年4月21日号

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