デル・ピエロの驚愕のシュートは「世代交代のシグナル」だった

4月22日(水)6時10分 Sportiva

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アレッサンドロ・デル・ピエロ(1994−95)
 何年かに一度、唖然とさせられるゴールに出会うことがある。
 いや、超ロングシュートとか、何人抜きのゴールとかではなく、え、こんなところから狙うんだ、しかも、それで決めちゃうんだ、という類(たぐい)のゴールだ。

デル・ピエロはユベントスで1993年から2012年までプレーした
 古くは1988年の欧州選手権の決勝で、オランダのマルコ・ファン・バステンがソビエト連邦相手に決めた鋭角のスーパーボレー。
 そして、セリエAで生まれたこのゴールにも、テレビの前で唸らされた。
 1994年12月4日、ユベントスvs.フィオレンティーナ戦——。
 残り15分の時点ではフィオレンティーナが2−0とリードしていた。しかし、ユーベが立て続けにゴールを奪ってゲームを振り出しに戻す。
 そして両チーム、痛み分けかと思われた87分、伝説のゴールが生まれる。
 左サイドのセンターライン付近からアレッサンドロ・オルランドが放ったロングフィードが、ペナルティエリアの中に落ちてくる。


 そこに走り込んできたのが、アレッサンドロ・デル・ピエロだった。
当時まだ20歳、クリクリの長髪をなびかせた若者は、背後から飛んできたロングボールを右足アウトサイドのボレーで叩き、GKフランチェスコ・トルドの頭上を破るのだ。
 これが、いかに驚愕のプレーだったかは、ライバルチームのエースたちのコメントを見ればわかる。
「すばらしいゴールだった。でも、100回試しても、二度と同じ芸当はできないと思う」(ジュゼッペ・シニョーリ/ラツィオ)
「もし、彼があの時、本気でゴールを決めるつもりだったとしたら、それこそ怪物だ」(デヤン・サビチェビッチ/ミラン)
 だが、”アレックス”の愛称で親しまれる若者の才能をよく知るチームメイトは、偶然でないことがわかっていた。
「自信がなければ、あんなゴールは生まれないよ」(ジャンルカ・ヴィアリ)
「すごいゴールだった。あんなゴールを決めるには、生まれながらの才能が必要だ」(ロベルト・バッジョ)


 このスーパーゴールは、三浦知良のセリエA挑戦に伴って、この年からフジテレビ系列で始まった『セリエAダイジェスト』でも紹介されたから、見たことのある人も多いだろう。
 当時、ユーベの10番といえば、イタリアの至宝”ロビー”バッジョのものだった(※当時セリエAは固定背番号制ではなく、スタメンが1〜11番を付けた)。
 だが、”ロビー”はアメリカ・ワールドカップでの負傷と疲労のため、1994−95シーズンはフル稼働が難しく、代わって10番を背負う機会が増えたのが、デル・ピエロだった。
 1991−92シーズンにセリエBのパドバでキャリアをスタートさせたデル・ピエロは、1993−94シーズンに名門ユベントスに加入。シーズン終盤の1994年3月20日のパルマ戦でハットトリックを達成したが、このシーズンはリーグ戦11試合にしか出場していない。
 本格的にセリエAを戦うのは、1994−95シーズンに入ってから。そのシーズンに生まれた偉大なゴールは、世代交代のシグナルだった。


 実際に起こったシーズン終了後のバッジョ放出劇は、デル・ピエロの価値を雄弁に物語っていた。
 それだけではない。翌1995−96シーズン終了後には、スクデット獲得とチャンピオンズリーグ制覇に貢献したエースストライカーのヴィアリと”銀狐”ファブリッツィオ・ラバネッリを放出したが、すべてはデル・ピエロ中心のチームを作るため。
 その後、ユーベはアレン・ボクシッチ、クリスティアン・ヴィエリ、フィリッポ・インザーギ、ダヴィド・トレゼゲと一流ストライカーを迎え入れたが、2トップの一角はずっとデル・ピエロのものだった。
 前述のフィオレンティーナ戦のゴールや、2002年11月のトリノ戦でパベル・ネドベドのFKに対してニアサイドに飛び込み、背面に来たボールを左足のヒールで合わせたゴールなど、ファンタスティックなシュートも印象的だが、真骨頂は左45度からの正確無比なミドルシュートだろう。
 いわゆる、デル・ピエロ・ゾーン。


 左サイドから切れ込み、逆サイドネットに包み込まれるスワーブの利いたシュートは、芸術の域に達していた。
 1995−96シーズンのチャンピオンズリーグ決勝でアヤックスを下し、欧州王者に輝いたユーベは1996年12月、トヨタカップに出場するために来日した。
 対戦相手はラモン・ディアス率いるアルゼンチンの名門リーベル・プレート。デル・ピエロ&ジネディーヌ・ジダン対アリエル・オルテガ&エンツォ・フランチェスコリ、両チームが誇るクラッキの競演が注目されたが、主役となったのはデル・ピエロだった。
 0−0で迎えた81分、右コーナーキックをニアサイドのジダンがヘッドを流すと、ファーサイドでマークを外したデル・ピエロがゴールに背を向けてトラップ。素早く反転して右足を振り抜き、逆サイドネットを揺らした。
 その瞬間、席を立ち上がり、吠えたことを覚えている。何を隠そう、運良くプラチナチケットを手に入れた大学生は、極寒の国立競技場でこの試合を観戦していたのだ。もちろん、デル・ピエロ目当てで。


 手元には今も、チケットセゾンで購入したバックスタンドS席前段J列48番の6000円のチケットがある。
 ユーベの大エースとなるデル・ピエロだが、不思議と”アズーリ”(イタリア代表の愛称)では活躍できなかった。
 EURO96では1.5列目をジャンフランコ・ゾラに譲り、左サイドハーフを務めたが、見せ場を作れぬままチームはまさかのグループステージ敗退に終わった。
 10番を背負った1998年フランス・ワールドカップでは不調に陥り、スーパーサブとして土壇場でメンバーに滑り込んだバッジョの前で霞んでしまう。
 再び10番を背負ったEURO2000では、スタメンをフランチェスコ・トッティに譲る試合が多く、”アズーリ”は準優勝を果たしたものの、守備的なスタイルでもあったため、やはり輝くことができなかった。
 そして、2002年日韓ワールドカップからは10番をトッティに譲り、デル・ピエロは7番を背負った。トッティと共演したこともあれば、控えに回ることもあった。


 そんなデル・ピエロにようやく女神が微笑んだのは、2006年ドイツ・ワールドカップだった。この大会でもトッティが絶対的な存在で、デル・ピエロはサブの位置づけだったが、途中出場で流れを変えるスーパーサブの役目を果たす。まるで1998年のバッジョのように。
 ハイライトは準決勝のドイツ戦だ。0−0のまま延長にもつれこむと、ファビオ・グロッソのゴールに続き、デル・ピエロが復活を印象づけるダメ押しゴールを決めるのだ。勢いに乗った”アズーリ”は決勝でPK戦の末にフランスを下し、4度目の世界王者に輝いた。
 2011−12シーズン限りでユーベを退団したデル・ピエロは、オーストラリアのシドニーFC、インドのデリー・ディナモスでプレーし、2015年6月に現役を退いた。
 そんなスーパースターと遭遇したのは、2014年ブラジル・ワールドカップ、サンパウロのメディアセンターだった。シドニーFCを退団したばかりのデル・ピエロは、イタリアのテレビ局の解説者としてブラジルにやって来ていたのだ。


 幸運に感謝し、興奮を隠しながら思い切って記念写真を頼んだら、嫌な顔ひとつせず応えてくれた。その人間性は「スターを気取ることのない物静かな好青年」と、かつてサッカー専門誌で読んでいたとおり。
 学生時代、”ロビー”がアイドルだったが、”アレックス”も大好きだった。その当時、モミアゲを細く鋭角に剃っていたが、”アレックス”の真似だったのは、ここだけの話だ。

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