F1 Topic:イモラの路面に前例のないバンプ。人工的な処理も一因か/1994年サンマリノGPを振り返る(2)
2020年5月3日(日)12時0分 AUTOSPORT web

ルーベンス・バリチェロの事故の後も、1994年のサンマリノGPでは悲劇が続いた。そこには、速くなったものの操縦しにくいマシンとともに、別の問題も潜んでいた。なぜ、サンマリノGPでは悲劇は続いたのか。当時の取材メモを元に振り返ってみたい。
【原因2】コースの安全性
事故は2日目以降も続いた。4月30日の土曜日に行われた予選2回目ではローランド・ラッツェンバーガーが大クラッシュし、帰らぬ人となった。事故の直接の原因は、事故の直前にフロントウイングが脱落しコントロールを失ったためだが、チーム関係者によれば、タイムアタックに入る前の走行中にコースアウトし、縁石を乗り越えていたという。
しかし、ラッツェンバーガーはピットインせずにアタックに入る。その直前、マシンのダメージを確認するかのようにステアリングホイールを左右に動かしていた。つまり、このとき何らかのダメージをフロントウイングに負っていた可能性がある。
ラッツェンバーガーがコースオフした場所は明らかになっていないが、ピットインせずにアタックに入ったことを考えると、最終コーナー直前にあるシケイン、バリアンテ・バッサだった可能性が高い。このシケインでは前日にもバリチェロをはじめ、多くのドライバーがコントロールを失っていた。コースに危険が潜んでいた可能性は十分考えられる。
コースに潜んでいた危険性は、日曜日にアイルトン・セナに牙を剥いた。レース7周目、1分24秒867を記録しトップでコントロールラインを通過したセナのマシンは、続く高速コーナーのタンブレロでコースアウトし、大クラッシュ。
レスキュー隊が駆けつけ、16分後にようやくコクピットから救出されたものの、すでにこの時点でセナは内臓からの血を取り除くために気管を切開され、蘇生装置によって心臓を動かすという重篤な状態となっていた。そのため、医師団はサーキット内にあるメディカルセンターに立ち寄らずに、コースに直接ヘリコプターを降ろして、そこからボローニャにあるマッジョーレ病院へ搬送する決断を下す。
マッジョーレ病院の医師たちの懸命な処置にもかかわらず、午後6時3分にセナの脳波が停止。その37分後の午後6時40分に、医師団はセナの心肺停止を発表。セナの死亡が公式に確認された。
事故後、地元の警察がコースの現場検証を行った。その後、数年間に渡ってイタリアで行われた裁判によって、原因はステアリングコラムの破損によるものと結論づけられた。
その結論に至った理由は、ステアリングに関するテレメトリーデータが異常な数値を示していたからだったと言われている。だが、ステアリングコラムがなぜ破損したのかは、いまだに解明されていない。
そもそも、ステアリングに関するテレメトリーデータが異常な数値を示していたのは、ステアリングコラムが破損していたからではなく、マシンになんらかのトラブルを抱えて、セナがステアリングを通常ではあり得ないほど動かしていたのかもしれない。例えば、タイヤのトラブルなどによって激しいボトミングが起きたのかもしれない。
そう考えるのは、あの年のイモラの路面には、いままで見たことがないようなバンプが路面にできていたからだった。これは筆者だけでなく、多くのメディアも気にしていたことだった。1994年の開幕前に、イモラはタンブレロをはじめコースの数カ所に、まるでレーキで引っ掻いたように路面に人工的な処理を行っていた。それによって段差が生じていた。
それはオンボード映像にもしっかりと残っており、黒っぽい路面を通過するたびに、セナのマシンは後方から火花を散らしていた。タンブレロにも黒っぽい路面は3つ存在し、セナがコースアウトしたのは、その2つ目を通過した直後だった。
セナのマシンはステアリングコラムをグランプリ期間中に修復しており、それがバンプによって必要以上に負荷がかかっていたのかもしれない。あるいはこのレースはスタート直後に多重事故が発生して、いきなりセーフティーカーが出動していた。セナの事故は再開後2周目に起きたので、通常よりもタイヤの内圧が落ちていたため、バンプでよりボトミングしていたのかもしれない。
いずれにしても、FIAとイモラは事故の翌年に向けて、バリアンテ・バッサとタンブレロを含むコースレイアウトの変更と路面の改修を行った。
マシンもサーキットも、そしてレギュレーションも作ったのは人間。あの週末は決して「呪われた週末」ではなく、自分たちが作ったF1を見直す良いきっかけを作ったという意味で、F1史にとって「忘れてはいけない週末」だったと言いたい。