01年ジュビロに伝説の「N-BOX」誕生。そこには夢とロマンと儚さがあった

5月8日(金)6時20分 Sportiva

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第2回:2001年のジュビロ磐田
 歴代最強といって思い浮かぶのは、史上初の完全優勝を成し遂げた2002年のジュビロ磐田だ。
 よく組織されたディフェンスと、人とボールが高密度で連動するオフェンス。その両方を極めた異能の集団がシーズン中に喫した敗戦はわずか3つ。他の追随を許さず両ステージを制覇し、前人未到の偉業を成し遂げた。

名波浩なくして「N-BOX」は成立しなかった
 だが、それでも2002年より2001年、それも1stステージの磐田に惹かれるのは、そこに夢とロマン、さらには儚(はかな)さがあるからだ。
 この時、磐田は世界でも類を見ない、実にチャレンジングなシステムを駆使し、攻撃的なサッカーを追求していた。
 いわゆる、「N−BOX」である。
 数字で表せば、3人のDF、5人のMF、2人のFWによる3−5−2だが、サイドを担当するウイングバックの選手はいない。
 右の攻撃的MFに藤田俊哉、左の攻撃的MFに奥大介、右ボランチに福西崇史、左ボランチに服部年宏、そして、4人を結んだ四角形の真ん中に、名波浩がいた。

 俯瞰すると5人の並びが「N」に見えること、名波なくしてこのシステムは成立しなかったことから、『週刊サッカーマガジン』によってN−BOXと名付けられたこのシステムは、”白い巨人”を倒すために編み出されたものだった。
 2000年に誕生したクラブナンバーワンを決めるクラブ世界選手権。その第2回大会が2001年8月にスペインで予定されており、1999年のアジア王者である磐田の出場が決まっていた。その初戦の相手が、泣く子も黙る”銀河系軍団”——レアル・マドリードだったのだ。
「当時のジュビロは、遅攻はある程度できていた。だから、いかにボールを奪うか、いかに速く攻めるか、そこにトライする必要があった」
 そう振り返るのは、「戦略家」と福西が評する指揮官の鈴木政一である。
 前年2000年の磐田は従来の3−5−2を採用していた。しかし、このシステムはレアル・マドリードのような格上と対戦して押し込まれると、ウイングバックが最終ラインに吸収され、5バックにさせられる危険性があった。それではボールを奪っても攻撃に転じることが難しい。

「そこで、はじめからウイングバックを置かないのはどうだろうかと考えた。もうひとつ、中盤にいい選手が多かったから、彼らの能力を最大限に生かしたいという思いもあった。だから、ワイドに選手を置くのではなく、中盤をコンパクトにして中央を固め、(相手には)サイドにボールを出させて、チーム全体で一気にプレッシャーをかけて奪い取ろうと」(鈴木監督)
 そんなの、無理に決まっている——と言うなかれ。机上の空論になりかねない戦術を機能させてしまうのが、当時の磐田のすごさだった。
 開幕3連勝で迎えた第4節、ライバル・鹿島アントラーズとの序盤の大一番。ピッチ上では、サイドを含めたあらゆるエリアで磐田の選手が数的優位を作って鹿島の自由を奪う。ボールを回収すれば、ポジションを入れ替えながらボールを動かし、ゴールに迫る。全員が同じ意志のもと、淀みなく動く姿は、チーム全体が一体の生き物のようだった。
「相手を挟み込むスイッチは、プレスバックする選手の角度を見極めて、どこから寄せたほうがいいのか決めている。それがハマれば、ボールホルダーの選択肢を数個、減らすことができるからね」とは、ピッチ中央で攻守両面のタクトを振るう名波の弁。

 開始3分で鈴木隆行に出会い頭のゴールを許したが、高原直泰、藤田のゴールで逆転。スコアこそ2−1と僅差だったが、衝撃的とも言えるゲーム内容で磐田が完勝する。
 もっとも、N−BOXが今なお語り継がれているのは、パフォーマンスの高さやネーミングの秀逸さによるものだけではない。
 夢の実現を前にして散るという儚さによっても、このシステムを伝説にしたのだ。
 開幕7連勝で首位を独走していた第8節のガンバ大阪戦で名波が右ひざを負傷し、離脱に追い込まれてしまう。N−BOXは名波なしでは成り立たないため、N−BOXはいったん封印された。
 さらに、その1週間後、運営を任されていたマーケティング会社の倒産により、クラブ世界選手権の延期、さらには中止が決まるのだ。
 名波が復帰するのは、わずか1敗で迎えた第13節の横浜F・マリノス戦。この試合を高原の延長Vゴールで制した磐田は、2試合を残して1stステージ優勝を決めた。

 だが、N-BOXは封印されたままだった。
 ひざが万全ではない名波の守備の負担を軽減させるため、名波をトップ下に置く従来の3−5−2が採用されたのだ。
 そして、封印はついに解かれることがなかった。
 9月末、日本代表の欧州遠征に参加した名波がパリでひざの診断を受けると、重傷だったことが判明。シーズンを棒に振ることが決まったからだ。
 名波を失った磐田は2ndステージでも2敗しか喫しなかったが、同じく2敗だった鹿島に勝ち点1及ばずステージ2位となり、リーグ王者の決定はチャンピオンシップに委ねられることになる。
 第1戦は90分戦って2−2のドロー。第2戦も0−0のまま延長戦にもつれ込んだ激闘は、小笠原満男のFKによってフィナーレを迎えた。最強を誇った磐田は、まさかの無冠に終わる。
 この屈辱を晴らすため、2002年はターゲットを完全優勝に絞り、勝利を追い求める。そして、彼らはその偉業を成し遂げるわけだ。

 2001年と2002年のチームの違いについて、名波はこんなふうに語っている。
「2001年はすべてがMAXという感じ。豊潤さとか、高貴さを漂わせながら、勝負強さや泥臭さも持ち合わせていたんだけど、2002年になると、より円熟味が増した感じ。30歳前後の経験豊富な選手たちの”脂っこさ”で、ひっくり返したゲームがけっこうあるからね」
 福西の解説は、もう少しシンプルだ。
「隙がなかったというか、強かったのは2002年。でも、チャレンジのしがいがあって、やっていて面白かったのは2001年ですね」
 もし、名波が負傷しなければ……。
 もし、レアル・マドリードとの対戦が実現していたら……。
“たら・れば”によって、N−BOXがひとつの伝説に昇華したことは間違いない。
 だが、テクニックとサッカーIQが極めて高い集団が見せたハイレベルなサッカーは、19年経った今でも色褪せることはない。

Sportiva

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