今はもう存在しない5つの欧州スタジアムの“記憶”を辿る

2025年5月10日(土)18時0分 FOOTBALL TRIBE

エスタディオ・ビセンテ・カルデロン 写真:Getty Images

Jリーグは現在、新スタジアム建設ブームの只中にあり、今や陸上競技場など他のスポーツを兼ねずにサッカーの試合に特化した「サッカー専用スタジアム」の存在が当たり前になりつつある。


現在、サッカー専用スタジアムをホームとしているのはJリーグ全60クラブ中、32クラブ(J1:12、J2:10、J3:10)。1993年にJリーグが10クラブで発足した際は、鹿島アントラーズ(県立カシマサッカースタジアム)、清水エスパルス(日本平運動公園球技場)、そして横浜マリノスと横浜フリューゲルス(三ツ沢公園球技場)のみだったことを考えれば隔世の感がある。


欧州では、特にイタリアやスペインで、陸上トラックを潰しスタンドを改装する流れが続いている。さらにはスタジアムの老朽化に伴う新スタジアム建設によって観客動員数を増やし、ビッグクラブを目指すケースも増えてきた。


しかし100年以上の歴史を持つ欧州サッカー界において揃って言えるのは、旧スタジアムやその場所に対する感謝や愛が、形として残されている点だろう。ここでは、欧州クラブの歴史や文化を支えた今はもう存在しないスタジアムを5つ紹介したい。




スタディオ・デッレ・アルピ 写真:Getty Images

スタディオ・デッレ・アルピ(1990-2008)


所在地:イタリア、トリノ(ユベントス、トリノが使用)


イタリア、セリエAのユベントスとトリノがホームとして使用し、収容人数67,229人を誇る巨大スタジアム、スタディオ・デッレ・アルピ。1990年のFIFAワールドカップ(W杯)イタリア大会の際に新設されたが、陸上トラック付きながらも陸上競技大会が一度も行われないまま、2009年に取り壊された。


スタジアム名を直訳すると「アルプススタジアム」となる。その言葉通り、トリノ郊外の山あいにあり、冬は厳寒の中での観戦を強いられる。交通の便も悪く、試合が見にくい上にピッチコンディションが常に悪いことでも有名で、ユベントスという世界一にもなったクラブのホームとしては、いささか物足りなさを感じさせるスタジアムだった。


イタリアは「カルチョ(サッカー)の国」でありながら、陸上トラック付きのスタジアムが多い。イタリアW杯の決勝が行われたローマのスタディオ・オリンピコも陸上トラック付きだ。これには諸説あるが、「陸上トラックを付けると税制面の優遇措置がある」という理由が有力のようだ。


2000年、ユベントスがスタジアム所有者のトリノ市と交渉してデッレ・アルピの登記上の所有者となった上で、1億500万ユーロ(約170億円)を投資し、新スタジアム「ユベントス・スタジアム」建設に2009年に着工、2011年に開場した。収容人数は41,475人に減ったが、ショッピングモールなどを併設したことによって、以前の3倍の収益を上げることに成功した。


一方のトリノは、2006年トリノ冬季五輪のメイン会場だったスタジアムをサッカー専用スタジアムに改装し、「スタディオ・オリンピコ・グランデ・トリノ」と改称した上で、ホームとしている。




アーセナル・スタジアム 写真:Molly

アーセナル・スタジアム(ハイベリー)(1913-2006)


所在地:イギリス、ロンドン(アーセナルが使用)


1913年から2006年までアーセナルのホームとして使用されてきたアーセナル・スタジアム(名称:ハイベリー)。収容人数は約38,000人で、2003/04シーズンのプレミアリーグ無敗優勝など、数々の成功を収めたスタジアムだったが、リーグの競争激化や欧州での成功を目指す中、スタジアムの近代化と収容人数の増加が求められるようになる。


1999年頃から新スタジアム建設の議論が本格化し、アーセナルはハイベリーからわずか500メートルほどしか離れていない場所の用地を取得し新スタジアムを建設することを決定した。


新スタジアム「エミレーツ・スタジアム」は2006年7月に開場。ネーミングライツはUAEの航空会社「エミレーツ」との15年契約によるものだ。建設費用は約3億9,000万ポンド(約700億円)にも上り、このため、クラブは厳しい財政運営を強いられた時期もあった。


実際、エミレーツ移転以来、アーセナルはプレミアリーグを制していない。しかし、収容人数が38,500人から60,704人と約1.5倍増えたことにより、興行収入や物販収入が増加し、長期的にクラブの財政基盤を強化することに繋がった。


ハイベリーはアーセナルサポーターから愛され、移転には一部から反対の声もあったが、エミレーツは新たな歴史を刻む場として受け入れられた。新スタジアム建設による収益を背景に、アーセナルは再びビッグクラブとして競争力を高め、今2024/25シーズンの欧州チャンピオンズリーグ(CL)では4強に進出した。


解体されたハイベリーの一部は保存され、「ハイベリー・スクエア」という名の住宅地として再開発された。ピッチがあった部分は中庭となり、スタンド部分をマンションに改築。歴史を残す工夫が施されている。



カンプ・デ・レス・コルツ(1922-1960s)


所在地:スペイン、バルセロナ(バルセロナが使用)


現在、建て替え工事中のバルセロナのホームスタジアム「カンプ・ノウ」は、日本最大手の設計会社「日建設計」がコンペに当選し、設計に携わったことでも話題となった。しかし肝心の工期は延びに延び、当初2024/25シーズン途中から使用できるはずだったが、2026/27シーズン開幕に間に合うかも微妙な状況となっている。


カタルーニャ人にとっては“聖地”とされている新カンプ・ノウが完成すれば、収容人数10万5,000人を誇る巨大スタジアムとなるが、それまでバルセロナは1992年バルセロナ五輪のメイン会場で、一時期エスパニョール(1996-2009)もホームとしていた、収容人員60,713人の「エスタディ・オリンピック・リュイス・コンパニス」を使用している。


そんなカンプ・ノウ以前のバルセロナのホームとして使用されていたのが、カンプ・デ・レス・コルツだ。現在カンプ・ノウがあるラス・コルツ区に、わずか3か月という工期で建設され1922年に開場。当初の収容人員は25,000人だったが、拡張工事を繰り返し、その規模を60,000人にまで増やした。


時はまだ軍事政権によるカタルーニャ弾圧が激しかった時代。スペイン国歌が流れれば、観衆は指笛とブーイングでそれをかき消し、政府側も報復措置としてレス・コルツの3か月使用禁止を通告した。さらに1936年にスペイン内戦が始まると、フランコ政権は、バルセロナ会長のジュゼップ・スニュル氏を暗殺。クラブ名もスペイン語の「クルブ・デ・フトボル・バルセロナ」とされ、エンブレムすらスペイン国旗に近いものに修正された。


迫害を受け続けたバルセロナだったが、チームは奮闘を続け、1950年代には国内で敵なしの強さを誇るようになる。そして、レス・コルツの収容人数ですら手狭になり、1957年、収容人数93,053人を誇るカンプ・ノウが竣工されたのだ。この数字は今でも欧州最大だ。


カンプ・ノウ建設費用捻出のため、レス・コルツは土地ごと売却され、解体された。その跡地には住宅街と児童公園が建てられているという。




エスタディオ・ビセンテ・カルデロン 写真:Getty Images

エスタディオ・ビセンテ・カルデロン(1966-2017)


所在地:スペイン、マドリード(アトレティコ・マドリードが使用)


スペイン3強の1つ、アトレティコ・マドリードのホームスタジアムとして1966年に開場したエスタディオ・ビセンテ・カルデロン。1982年W杯スペイン大会の1つにも選ばれただけではなく、サッカー以外にも、マイケル・ジャクソンピンク・フロイドといった大物アーティストのスタジアムライブも開催された。


収容人数は54,907人。アトレティコが2部に降格した2000/01シーズンでの開幕戦で、超満員のサポーターが出迎えイレブンの背中を押した出来事は、サポーターのクラブ愛の強さを物語っている。


ビセンテ・カルデロン会長在任中(1964-1980、1982-1986)黄金期を過ごし、同氏の名が冠されている本スタジアム。メインスタンドの下に高速道路が通るという珍しい設計だったが、UEFAスタジアムカテゴリーでは最高評価の「カテゴリー4」を得ていた。


2017年に、アトレティコが選手とサポーターの思いが詰まったこのスタジアムを去った要因は、老朽化だけではない。


2020年五輪招致で東京とイスタンブールが立候補する中、マドリードは本命視されながら、2013年のIOC(国際オリンピック委員会)総会での1度目の投票でイスタンブールに敗れ、結局、開催地は東京に決定。マドリードは2012年大会、2016年大会に続く“3連敗”で、これを最後に五輪招致から手を引くことになる。


これにより元々「ラ・ペイネタ」という陸上競技場があったメイン会場の建設予定地がポッカリと空いてしまった。そのため当時のマドリード市長と、アトレティコのエンリケ・セレソ会長が新スタジアム建設計画に同意し、2016年、ラ・ペイネタを取り壊した上で、収容人数68,456人の新スタジアム「エスタディオ・メトロポリターノ」が建設され、2017年から使用が開始されたのだ。


五輪招致に失敗したことで新スタジアムからは陸上トラックも排除され、アトレティコのディエゴ・シメオネ監督も「圧力鍋」に例えるような熱狂空間とすることに成功。チームも期待に応え、2020/21シーズンには本拠地移転後リーグ初優勝をもたらす。ちなみに、新スタジアムの屋根を設置したのは日本企業の太陽工業だ。


ビセンテ・カルデロンはその役割を終えた後、映画やドラマのロケ地としても使用され、2019年から解体が始まり、2020年までに完全に取り壊された。現在、跡地には住宅地や、さらに「アトレティコ・マドリード公園」が新設され、市民の憩いの場となっている。




メイン・ロード 写真:Getty Images

メイン・ロード(1923-2003)


所在地:イギリス、マンチェスター(マンチェスター・シティ、マンチェスター・ユナイテッドが使用)


今や同地区のビッグクラブ、マンチェスター・ユナイテッドの存在感を超えてしまった感のあるマンチェスター・シティ。しかし、総タイトル数はユナイテッドの半分以下であり、これを超えるためには、今のチーム力を維持できたとしても数十年かかるだろう。


20世紀までは、シティはユナイテッドに次ぐ“マンチェスター第2のクラブ”という位置付けだった。飛躍のきっかけとなった出来事が、2004年の新スタジアム「エティハド・スタジアム(竣工当時は「シティ・オブ・マンチェスター・スタジアム」)」への移転だ。


そんなシティがホームスタジアムとしてきたメイン・ロードは、それまでの「ハイド・ロード」が火災で焼失したために1922年に建設され、1923年開業。建設費は当時としては巨額の約10万ポンド、初期の収容人数は約80,000人で、「ウェンブリー・スタジアム」に次ぐ国内2番目の規模で「北のウェンブリー」と呼ばれていた。


マンチェスター市中心部からも近く、ファン層の中心を構成する労働者階級の住宅街にあったことでサポーターからも親しまれていた。収容人数は、1935年頃の最盛期には約88,000人にまで増えたが、安全面や全座席化により、2003年の閉鎖時には35,150人にまで縮小している。


1934年3月3日、FAカップ6回戦のストーク・シティ戦では84,569人の観客を記録。これはイングランドのスタジアムでの最高記録だ(FAカップ決勝を除く)。


また、第2次大戦中、ユナイテッドの本拠地「オールド・トラフォード」が被害を受けたため、1945年から1949年までユナイテッドとシティがメイン・ロードを共用していた時期もある。その間、ユナイテッドは年間5,000ポンドと入場料の一部をシティに支払っていた。


さらには、シティのファンを公言するイギリスのロックバンド、オアシスが、1996年にメイン・ロードで公演を行い、“伝説のライブ”と語り草となっている。


メイン・ロードは、2003年11月から解体が始まり、2004年に完了。跡地は「メイン・プレイス」として、300戸の住宅地に再開発された。スタジアムのセンターサークルは記念として保存され、「ブルー・ムーン・ウェイ」と名付けられた青い道路が敷かれ、その記憶は生き続けている。




新スタ建設に沸くJリーグだが、それまで使用していた旧ホームスタジアムをも愛し、思いを馳せるサポーターはどれだけいるだろうか。このあたりに、100年以上の歴史を持つ欧州クラブと、30年あまりの歴史しかないJリーグとの差が垣間見えると言えるのではないだろうか。

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